09:得体の知れない
相変わらず、睡眠薬を服用した日はぐっすり眠れ、何もない日は、不眠と戦う日々を過ごしていた。まだ睡眠薬は手放せないので、二日に一度の頻度から抜け出せずにいた。
薬は、丁度二週間で切れる程の量だ。頃合いを見計らってハーヴィーがアントワーズ家に様子を見に来るが、リアムはできるだけハーヴィーのことを避けるようになった。以前詰問されてから、リアムは彼のことが苦手になってしまったのだ。とはいえ、体調が悪いだとか、寝ているとか、そんな理由をこじつけてみるのだが、それがうまくいった日はほとんどない。依存性のある薬を服用している身として、定期的に医者に診てもらわないわけにはいかず、結局エイミーやソイルに押し切られ、彼と会わなければならないのだ。
加えて、そんなリアムの心情とは裏腹に、街を歩けばハーヴィーの話題で持ちきりだった。曰く、彼の医者としての腕はピカイチだとか、困っている老人を親切にも助けていただとか。
将来勇猛な医者で、見目も麗しい、加えて人当たりも良いとなれば、皆が噂の的とするのは仕方がない。やれ娘の婿にしたいだの、一生この街にいれば良いのにだの、そんな風にハーヴィーの株が持ち上がっていれば、自然とアントワーズ家での心証も一層良くなっていく。
道ばたでハーヴィーに出会ったのは、そんな折だった。フレイツやエイミー、ソイルまでもが彼に好印象を抱く中、お世話になっているリアム本人がが彼を苦手だと言えない、そんなときだ。
「こんにちは、お嬢様、ソイルさん」
「こんにちは、先生!」
ソイルは朗らかに挨拶をした。丁度リアムと共に街の中を散歩している最中だった。
「ここが診療所なんですね? 滅多に反対側には行かないので、初めて来ましたよ」
「町の中央にある方が利便性は良いと思うんですけどね。オーランド先生は、この場所に愛着があるようで」
診療所は、こぢんまりとした白い建物だった。薬草を育てているのか、周囲には大きな畑がある。ハーヴィーは、両手に大きな鉢を抱えていた。
「その鉢は? 何を育ててらっしゃるんですか?」
「ハーブですよ。各国から集めたハーブを自分の手で育てるのが好きなんです。流浪の医者をしていますから、なかなか畑を持てなくて。その代わり、鉢で育てて、いざというときは持ち運びができるようにしているんですよ」
「ハーブと言えば、お茶とかお菓子とかですか?」
「そうですね、そういったものが一般的ですが、他にも入浴剤とか芳香剤、料理にも使えますよ」
「へえ。リアム様、いかがですか? ハーブですって」
突然自分に話が飛び、リアムはハッと背筋を伸ばした。
「は、はい。いいですね、ハーブ」
「そうだ、ハーブと言えば、お嬢様にお会いしたら渡したいものがあったんですよ。不眠に良く効くハーブで」
「そんなものもあるんですか?」
「はい、ちょっと待っててくださいね」
ハーヴィーの姿は診療所の中へ消えていった。噂に違わず、彼は親切で優しい人だ。人当たりも良いし、気遣いもある。そんな彼を苦手だと思う自分に、リアムは後ろめたさを感じていた。リアムがまごついていると、ハーヴィーは紙袋を携えて戻ってきた。
「これです。ジャーマンカモミールに、バレリアン、あとレモンバーム。みんな不眠に効果があるんですよ」
「へえ。こんなに頂いてしまっていいんですか?」
「もちろんです。必要な方に使って頂くのが一番ですからね。他にも、リコリス、ラズベリーも入れておきますね。ハーブティーは風味も大切ですから。ブレンドの仕方は分かりますか?」
「俺ですか? お恥ずかしながら、料理とかは全くしたことがないので、自信はないですね。屋敷に料理長がいるので、その方ならご存じかもしれませんが」
「では、私が出向いて、一度ブレンドの仕方をお教えしましょうか」
思わぬ提案に、ソイルは一瞬にして喜色を浮かべた。
「いいんですか? 今お忙しいんじゃ」
「丁度患者さんは途切れたところなので大丈夫ですよ。それに、中にオーランド先生もいらっしゃいますし」
「じゃあ……お言葉に甘えてお願いします」
ソイルはぺこりと頭を下げた。それに合わせ、リアムもお礼を口にする。
「馬車はもう少し先にあるので、そこまで歩きになりますが、大丈夫ですか?」
「もちろんです」
ソイルとハーヴィーは、横並びに歩き始めた。数歩遅れて、リアムは二人に追随する。
「ハーブがご趣味だということですが、診療にも使われるんですか?」
「そうですね。たかがハーブとはなかなか馬鹿にできなくて。薬効はもちろんのこと、美容にも良いので、若い女性達にも人気なんです」
「またまたー。人気なのは案外他のものじゃありませんか?」
「どういうことですか?」
茶かしが通じなかったので、ソイルは頬を赤らめ、咳払いで誤魔化した。
「いえ、何でもありません。気にしないでください」
「はあ」
ハーヴィーは深く気にすることなく、次の話題に目を向けた。軽く振り返って、リアムと顔を合わせる。
「お嬢様は、最近よく散歩されるんですか?」
「体調が良いときは、外を歩くようにしています」
「良い心がけですね。運動すれば、夜ぐっすり眠れるようになりますから」
そんな話をしているうちに、馬車に到着した。街と屋敷とは少し離れているので、馬車で街まで来て、そこから散歩をするというのがリアムの日課だった。もちろん、御者としてソイルにも付き合ってもらっている。
御者台は狭いので、ソイルが一人で座り、後ろの屋根付きのコーチには、リアムとハーヴィーが乗り込んだ。やがて、馬車が動き出す。
御者台とコーチには、意志疎通ができるよう小さな窓がついてある。しかし、実際舗装されていない道をガラガラと走る車輪の音で、互いの声はほとんど聞こえない。実質、馬車内でリアムはハーヴィーと二人きりだった。
「風の噂に聞きましたが」
ハーヴィーは突然口火を切った。
「お嬢様は最近アントワーズご夫妻の養女になられたとか。それ以前は、どうされていたのですか?」
「……両親が亡くなってしまったので、遠い親戚のアントワーズに養女になりました」
皆で口裏を合わせた筋書きだ。こう言えば、周囲もあまり詮索しないだろうと思ってのことだ。ハーヴィーも、失礼しましたと口にしたきり、押し黙る。ホッと安堵したのも束の間、彼は次の質問を投げかけた。
「私もいろんな地を旅していましたからね。もしかしたら、お嬢様のいらっしゃった街に行ったことがあるかも知れません。以前はどこにいらっしゃったのでずか?」
「…………」
どうして詮索するようなことを言うのか。
詰問されているようで、リアムは落ち着かなかった。彼はそんなつもりはないのかもしれないが、後ろめたいことが山ほどあるリアムにしてみると、疑り深くなってしまうのも仕方がないのだ。
「王都です」
迷いに迷った末、リアムはようやく答えた。街の名前などほとんど知らなかったし、唯一知っているのは、塔から眺めていた王都の景色くらいだ。
「ああ、王都にいらしたんですね。私も良く行きましたよ。バラ園がとても素敵なところで。行かれたことはありますか?」
「いえ、滅多に外出しなかったので、そういった所はあまり」
「もったいないですね。折角王都にいらっしゃったのに」
ハーヴィーは残念そうに答えたが、リアムがそれに頷くことはなかった。彼も、それ以上深入りするようなことはせず、やがて屋敷に到着した。
「馬車を置いて行きますから、お二人は先に中に入っていてください」
馬車を操りながら、ソイルは厩舎へと消えていく。リアム達は揃って屋敷へ入っていく。
「キッチンはどこでしょう? 先にハーブティーを作ってからお部屋へ行きたいのですが」
「こちらです」
キッチンは、西側の使用人塔一階にある。扉を開ければ、丁度料理をしていたところなのか、熱気が飛び出してきた。エプロンをした料理長が振り返る。
「これはこれはお嬢様、ハーヴィー先生、いかがなさいましたか?」
「先生がハーブティーを作ってくださるそうなんです。キッチンをお借りしてもよろしいですか?」
「もちろんですとも。ハーブティーですか。よろしければ、ぜひ私にもブレンドの仕方を教えて頂きたいですね」
「もちろんですよ」
ハーヴィーは腕まくりをし、喜々として料理長の隣に並んだ。リアムも一応前からハーヴィーの指南を見てみるが、料理など生まれてこの方したことがない彼女には、何が何だか分からない。ハーヴィーは手早くハーブティーを用意した。
「どうぞ、飲んでみてください。これはリコリスティーです。咳や炎症を抑える効能があります」
料理長はカップに顔を近づけ、匂いを嗅いだ。それから一口ティーを口に含む。
「ほんのり甘いですね」
「ただ、リコリス自体に独特の薬の匂いがありますから、リコリスだけでなく、他にもハーブを入れた方が良いかと。今回は、あまり種類を持ってきていないので、リコリスのみになりましたが」
「私は料理専門で、お恥ずかしながら、お菓子や紅茶のことはよく分からないのですよ。お菓子専門のメイドもいますが、彼女は今暇を頂いておりまして」
「では、また次回来たときにお教えしますね。今日はお嬢様用のハーブをお持ちしたので、これからは料理長がハーブティーを作って差し上げてください」
次にハーヴィーが取り組んだのは、リアム用のティーだ。いくつかのハーブをブレンドし、作り上げる。
「お嬢様の分はこちらですね。不眠用のハーブと、香り付けのラズベリーも入っています。お部屋で飲みましょうか」
ティーポットとカップをトレーに乗せ、ハーヴィーは両手で持った。
「ソイル様の分のハーブティーもここに置いて行きますね。もしいらっしゃったら、冷めないうちに勧めてあげてください」
「はい。本当にありがとうございます」
「じゃあ行きましょうか」
ハーヴィーを先頭に、二人はリアムの部屋に向かった。サイドテーブルにトレーをのせ、ハーヴィーはリアムにベッドを勧めた。
「今は眠たいですか?」
「あまり……」
「気を楽にしてくださいね。ティーをどうぞ」
できたてのハーブティーを手渡され、リアムは両手で受け取った。カップ越しに、火傷しそうなほどの熱さが伝わってきたので、リアムは息を吹きかけて冷ます。
カップに口をつけ、ティーを一口口に含む。
「あっ、おいしい……」
「でしょう?」
ホッと息をつけば、甘い香りが鼻から突き抜けた。腹の底からじんわり暖かくなるような気がする。リアムは時間をかけて、ゆっくりハーブティーを飲んでいった。ポカポカと全身が温かくなってきたので、自然と瞼もトロンとしてくる。
「横になってみてください。眠たくなってきたのでは?」
ハーヴィーの言葉に、リアムは大人しく毛布にくるまった。天井から降ってくる明かりが眩しいと思う位には、リアムは眠たかった。しかし、唯一気を張った部分が最後の砦を守っている。リアムにすら分からない何かだ。
「眠れませんか?」
しばらくして、ハーヴィーが声をかけた。残念そうな声色だ。ティーのおかげで眠れるはずだと思ったのだろう。リアムは申し訳なく思った。
「すみません……」
「いえ、謝るようなことでは。でも、困りましたね。ハーブティーならと思ったのですが」
リアムは目を閉じた。目を開けていては、眠れるものも眠れない。
静かなときが流れた。ハーヴィーが身じろぎすらしないので、この部屋には一人きりだと錯覚してしまいそうなほどだ。
やがて意識は遠くなる。睡眠薬無しで眠れることは滅多にないので、珍しいことだ。薄れ行く意識の中、何かが手に触れたような気がした。かつて何度も感じた感触だ。リアムはピクリと瞼を動かし、わずかに目を開けた。
「手を握られると、落ち着いて眠れるようになるのだとか」
その声は、起こしてしまったことを申し訳なく感じているような調子だった。
「あなたが眠るまで、私が握っていて差し上げましょうか」
パッとリアムの意識が覚醒した。反射的に左手を引っ込める。手はすぐに抜け出せた。
ゾッとした。なぜ知っているのかとか、そういう類いのものではない。得体が知れなかった。とにかく気持ちが悪い。
リアムはゆっくり起き上がった。これ以上無防備なままでいたくなかった。目線を下に向けたまま、ハーヴィーから距離を置こうとしたその時。
「お待たせいたしました」
声を抑えた溌剌とした声が、扉越しに響いた。間を開けて、ソイルは静かに扉を開ける。
「あ、起きてらっしゃいましたか。お腹空いてるかもと思って、丁度軽食もお持ちしたので、丁度良かったです。良かったら先生もどうぞ」
サンドイッチをのせたトレーをソイルはサイドテーブルにのせた。小さなテーブルは、ティーポットとカップ、そしてトレーだけで一杯になってしまった。
「ハーブティーもご馳走様でした。とてもおいしかったです」
ソイルは曇りのない笑みでぺこりと頭を下げる。ハーヴィーは一瞬遅れて目を細めた。
「随分飲むのが速いんですね」
「兄弟が三人もいましたからね。早く食べないと、食べる物がなくなっちゃうんですよ」
続けて、ソイルはリアムに顔を向ける。
「リアム様、お気分はどうですか?」
「あ、はい……」
「あのハーブティー、おいしかったですね! 先生、今度俺にも作り方教えてくださいね。いつもここまで来て頂くのは申し訳ないですし、俺も作れるようにならないと」
「今度また来たときにお教えしますよ」
「ああ、それは助かります」
ニコニコと笑うソイルに、立ち去る気配は一向にない。ハーヴィーはすぐに立ち上がった。手荷物を抱える彼に、ソイルは瞬いた。
「サンドイッチ、食べて行かれないんですか?」
「それほどお腹は空いていないので。お気遣いありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。またお願いしますね!」
部屋の外までソイルはお見送りに行った。ハーヴィーの足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなってから、リアムはようやく息を吐き出した。