08:不安の正体


 睡眠薬を飲んだ日は、ぐっすり眠れた。予知夢や夢すらも見ないほど、本当にぐっすりと。
 しっかりと睡眠を取れた次の日には、体調もすこぶる良く、元気に外を歩くことができた。以前よりもずっと精力的に乗馬や裁縫に取り組むので、フレイツやエイミーも自然と嬉しくなっていく。養父母との関係は良好だった。
 とはいえ、二日に一度は、ハーヴィーにも言われたように、睡眠薬無くして眠らなければならない日がやってくる。何とかほんの少しでも眠れる日もあれば、一睡もできない日もある。それでも、少しずつ睡眠薬のない夜に慣れていくことができた。
 二週間ほど経ったその日も、リアムは睡眠薬無しで浅い眠りについていた。何か刺激でもあれば、すぐにでも起きてしまいそうな。
 リアムの部屋の中は、いつも静かだった。リアムに用があって、部屋を訪れるものがあっても、小さくノックをするだけだし、返事がなくてこっそり扉を開けても、彼女が寝ているのを見れば、すぐに退散する。しかし今日ばかりは違った。リアムが寝ているのを見ても、こそこそと部屋に侵入し、傍らの椅子に腰掛ける者がいた。
 毛布をそっと持ち上げ、リアムの白い手を優しく握る。
 ――温かい手だった。懐かしいその感覚に、リアムの意識は浮上していく。ほとんど無意識のうちに、リアムはその名を口ずさんでいた。

「アレス?」

 目を開けると、一番に眩しい照明が飛び込んできた。昼でも夜でも、いつでもつけている明かりだ。その光を遮って、エイミーが顔を覗かせた。

「ごめんなさい、起こしてしまったかしら」
「エイミー様……」

 その時になってようやく気づいた。今も優しく握られているその手はアレスのものではなく、エイミーのものだったのだと。

「手を握られるとよく眠れるって聞いたから。力になってあげたくて」
「ありがとうございます」

 リアムは小さく微笑んだ。もう以前のような恥ずかしさは湧いてこない。こみ上げてくるのは、こんな自分を思いやってくれる事に対する感謝ばかり。

「おかげさまで、よく眠れました」
「本当? それなら、眠れないときはいつでも呼んでね。すぐに駆けつけてくるから」

 エイミーはリアムの手を握ったまま嬉しそうに微笑む。

「あっ、そうだわ。今ね、下にハーヴィー先生がいらしてるの。リアムはまだ寝てるからってお伝えしたら、少しだけなら待ってくださるって。体調は大丈夫? お呼びしても平気?」
「お待たせしてしまったんですか? もちろんです」

 リアムは慌て頷いた。自分が呑気に寝ている間にお客様が来ていたなんて。
 エイミーはすぐにハーヴィーを呼びに行った。彼を部屋に引き入れたときも、彼女はリアムのベッドの側で見守っていた。

「こんにちは、今日は随分顔色が良いようですね」
「こんにちは、先生。昨日は薬を飲んでいないんですけど、よく眠れました」
「それは良かった。そろそろ薬が切れる頃かと思ってきましたが、杞憂だったかもしれませんね」

 なんとはなしに呟かれた言葉に、リアムは大いに慌てた。躊躇いがちにハーヴィーと視線を合わせる。

「でも、やっぱり一応睡眠薬は欲しくて……」
「もちろんですよ。いきなり何もなしに眠れなんて、そんな酷なことは言いません」

 ハーヴィーは苦笑した。その笑みに、リアムはホッと息を漏らした。

「それよりも、今喉は渇いていませんか? 声が少し掠れているようですが」
「あっ、寝起きなので、少しだけ」
「そうなの? 言ってくれれば良かったのに。すぐにお茶を持ってくるわ」

 エイミーは慌てた様子で部屋を出て行った。屋敷に使用人はいるにいるが、フレイツとエイミー共々、生粋の貴族ではないので、誰かにものを頼むということが苦手なのだ。一家の女主人たるエイミーが直々にお茶を入れに行った結果、部屋にはリアムとハーヴィーの二人が残った。ソイルはというと、所用で今日は出掛けていた。

「では、これが二週間分の薬です」
「いつもありがとうございます」

 リアムは両手で薬を受け取った。身体に悪い影響があると分かっていても、やはり睡眠薬は安心できる存在だった。

「ただ、一つ気になることが」

 ハーヴィーは急に声を落とした。つい先ほどまでの安穏とした空気が、いつの間にか殺伐としたものに変わる。ハーヴィーの口調が、心なしか鋭く感じられた。

「ソイルさんからお預かりした睡眠薬、成分を調べてみましたが、随分高級なものですね。貴族ですら容易に手が出せないほどの代物――。ご存じかもしれませんが、睡眠薬は依存性が強いんです。安物であれば、催眠の効果も低いですし、その割に依存性は強くなる。ただ、高級品ともなると話は別です。依存性は変わらずありますが、催眠の効果はずっと強い。一日一錠で済むんですよ」

 何が言いたいのか分からず、リアムはポカンとハーヴィーを見返した。それには構わず、ハーヴィーは続ける。

「睡眠薬は、日に何度ほど服用されましたか?」

 唐突に聞かれ、リアムはそう深く考えることなく答えた。

「三度ほど。多いときは、四回服用するときもありました」
「おかしいですね」

 ハーヴィーはすぐにそう切り替えした。

「普通、睡眠は一日に一度で良いはず。どうして三回も服用されたのですか?」
「そっ、それは……」

 咄嗟にリアムの視線が泳ぐ。痛いところを突かれた。とりあえず何か答えなければと回らない頭が返答を押し出す。

「薬がなかなか効かなくて。幼い頃から何度も服用していたので、効果が薄れていたんです」
「ますますおかしいですね。あれは他に類を見ないほどの高級品。一錠の服用で普通の睡眠薬よりもずっと効果がありますよ。どれだけあなたが睡眠薬に依存していたとしても、一錠で眠れないなんて事はないはず。現に、あなたはこの安物の睡眠薬二錠でぐっすり眠れたようですし」

 リアムは膝の上でギュッと手を握りしめた。なぜこうも彼は詰問口調なのか。一体何が言いたいのか、リアムはさっぱりだった。ただ、しきりに頭の中が警鐘を鳴らしている。

「なぜ日に何度も睡眠薬を摂取する必要があったのか。普通は一度の睡眠で済むはずが、お嬢様の場合は、寝ては起きて、寝ては起きての繰り返しだったんでしょうか? それは一体どうして?」
「…………」
「たとえば、眠ることを強要されていたとか」

 耳元で小さく囁かれたその言葉に、リアムの肩がピクリと揺れる。
 一体彼は何なんだろう。
 リアムは訳の分からない恐怖に苛まれる。ついこの間までは、優しい親切なお医者様だと思っていた後、今ではまるで別人のようだ。
 ――まるで、彼は何もかも知っているかのようだ。
 リアムから、決定的な答えを引き出すために、こんな回りくどい質問をしているような、そんな印象を受けた。
 知っているのだろうか、私が予知夢を見られるということを。知っていたとして、彼は何者だろうか。神殿からの追っ手? 他国の密偵?
 そうでなければ、彼はどうしてしつこくこんな質問をしてくるのか? ただの好奇心? 本当に私のことを心配して?
 グルグルと渦巻く不安に、リアムは気分が悪くなってきた。そんなとき、唐突に部屋の扉が開かれる。

「お待たせしました! おいしいお茶を用意しようと思っていたら時間がかかってしまったわ。先生の分のお茶も用意したんです。ぜひ飲まれていってくださいな」

 エイミーだった。彼女の登場に、ハーヴィーはサッとリアムから離れる。

「これはこれは奥様。お気遣いありがとうございます」
「先生にはお世話になっていますから。――まあ、リアム、どうしたの? さっきまでは顔色が良かったのに、今は真っ青よ。気分でも悪いの?」

 サイドテーブルにトレーを置き、エイミーは心配そうにリアムの頬に手を触れた。火照った顔に、彼女の手は冷たく感じられ、リアムは少しだけ冷静になれた気がした。

「私は大丈夫です」
「長々とお話しして少し疲れたようです。身体を休ませてあげてください」
「はい、もちろんです。ハーヴィー先生、今日はありがとうございました」

 ハーヴィーは立ち上がり、扉に向かって歩き始めた。部屋を出て行こうとする直前で、彼は振り返り、リアムを見る。

「また来ます」

 その声が、その言葉が、リアムの胸の上に重くのしかかってきた。