07:流浪の医師
アントワーズ家での穏やかな生活が始まった。リアムは、夫妻のすぐ隣の部屋を与えられ、ソイルは、そこから少し離れた客室で暮らすようになった。
毎日、領地を案内してもらったり、乗馬を指南してもらったり、パッチワークを教えてもらったり。
リアムは、至れり尽くせりの歓待を受けていた。字を習ったことがないと言えば、根気よく教えてもらえたし、食事や作法のマナーもなっていなかったのを見ても、怒られるようなことはなく、かえって嬉しそうに教えてもらえた。
無条件の優しさに、リアムは戸惑ってもいた。リアムから夫妻へ、してあげられることは何もないのに、彼らは無償の愛を与えてくれる。アレスから頼まれたからというだけでないのは、一緒に暮らしていてすぐに分かった。彼らは、本当にリアムのことを大切に思っていてくれているのだ。
しかし、そんな幸せな日々の傍ら、リアムの睡眠に関する悩みはどんどん酷くなってくる。夜が来ても眠れず、身体が怠いのだ。かといって、日中できるだけ大人しくしていると、結局また夜になっても眠れないという負の連鎖が続いてしまう。リアムは、傍目から見ても心配になってくるほどやつれていった。
ある日、そんなリアムの対策会議が応接間で開かれた。皆が不安そうに彼女を見つめる。
「本当に心配だわ。どんどん顔色が悪くなってくる」
「最近は食欲もないんだろう? こんなに痩せ細って、どうにかならないものか」
「実は……」
ソイルは言いづらそうに口を開けた。
「殿下から睡眠薬を預かっているんです。以前リアム様が服用していたものと同じものです」
「――っ、だったら」
「でも、睡眠薬を飲むのは、本当に辛いときだけだと。リアム様は依存症になりつつあるので、むやみに服用したら危険です。それに、もし服用するにしても、医者に様子を診てもらうようにと言われました」
「じゃあ、今すぐにお医者様を呼びましょう」
エイミーは立ち上がり、執事を呼んだ。すぐに馬車を飛ばし、医者を呼んでくるようにと言いつける。
「ですが、それでも殿下は睡眠薬は最後の手段だと仰ってます。リアム様は幼少の頃より服用されていたので、そろそろお身体にも影響があるかも知れません」
「それはそうだけど……でも、やっぱり眠れないのは辛いでしょう」
自分が議題の的になっていることは分かっていた。リアムは力なく困ったような笑みを浮かべる。
「私も、何か影響があったとしても、睡眠薬が欲しいです。今は少しでも眠りたい」
「ね? なら、やっぱりお医者様とお話ししながら服用しましょう? 危険だというのなら、少しずつ頻度を減らしていけば良いじゃない。突然何もなしに寝るなんて体力的にも辛くなるだけよ。今はまず身体の回復が先だわ」
「それは……はい。俺ももっともだとは思いますが」
ソイルは浮かない顔だったが、結局エイミーとフレイツのに仕切られ、医者を待つことになった。街はそれほど大きくはないが、街の診療所は端にあるため、到着には随分時間がかかった。その上、到着したのは、長らくアントワーズの市民を看てきた年老いた医者ではなく、若い青年だった。
「これは……オーランド先生はどうなさったのですか? あなたは?」
「オーランド先生は先日腰を痛めたばかりでして……丘の上まで馬車に揺られるのはきついということで、代わりに私が参りました。ハーヴィーと申します」
「見ない顔ですが、ハーヴィーさんもお医者様ですか?」
「はい。いろんな地を点々と回りながら患者さんを看ています。ここへはしばらく腰を落ち着かせるつもりで、オーランド先生の元で厄介になっていました」
眼鏡をかけた青年は、深く頭を下げた。細い体躯は、一見頼りなく感じられるが、くたびれた医術用のバッグや、礼儀正しい様子から見るに、すぐにその印象は覆った。フレイツは何度も頷く。
「そうですか、あなたもお医者様でしたか。わざわざこんな遠くまでありがとうございます。看て頂きたいのは、娘の……リアムのことなのですが」
医者の到着に伴って、リアムは自室に移動していた。フレイツはリアムの私室へとハーヴィーを案内する。
「幼い頃から不眠症に悩まされていて。あまりに眠れないので、睡眠薬を服用させようか迷っているのですが、その前にお医者様に看て頂きたくて。リアム、入るよ」
軽く声をかけてから、フレイツは扉を開けた。部屋に入ってから、一番に目がつくのは明るい照明だ。カーテンを大きく開け、窓からは眩しいほどの太陽光が入ってきているが、それでも飽き足らず、室内には明かりが溢れていた。
ハーヴィーはベッドに歩み寄り、リアムに向かって頭を下げた。
「お初にお目にかかります、お嬢様。ハーヴィーと申します」
「初めまして、リアムです」
リアムはゆっくり起き上がった。
「顔色が良くないようですね。お話は伺いましたが、不眠症だとか?」
「はい。昔から……眠るのが苦手で。明るい部屋で、人の気配がないと眠れないんです」
「今、ご気分は悪いですか?」
「気分は悪くないです。でも、少し頭が痛くて」
「胸の音を聞かせて頂いてもよろしいですか?」
傍らの椅子に腰掛け、ハーヴィーは聴診器を取り出した。それを看てエイミーは慌てる。
「診察が始まるわ。私がここにいるから、男性達は自粛して」
「私もか?」
「当たり前でしょう」
フレイツ、ソイル共に追い出し、エイミーはリアムの側に寄り添った。診察といっても、大したことをするわけではない。リアムは、手慣れた様子で寝間着のボタンを三つ外した。ハーヴィーは、一言断ってからその合わせ目から手を差し入れた。しばらく胸の鼓動を聞いてから、再び手を引き戻す。
「風邪ではないようですね。睡眠薬はいつ頃から服用していたんですか?」
「あまり覚えてはいませんが、確か六歳頃だったかと」
「そんなに昔から? 何か心的外傷になりうることなどお心当たりはありますか?」
「えっ」
何気ない様子で聞かれた問いに、リアムは当惑した。心的外傷には、心当たりはない。強いて言うのなら、睡眠を強制されていたからこそ眠れなくなったとでもいうべきか。
しかし、国の根幹にも関わってくる予知夢のことを口に出せるわけもなく、リアムは押し黙った。
リアムがなかなか答えないのを見計らい、エイミーがおずおずと割って入った。
「先生、そのくらいで……」
「そうですね、すみません」
詰めていた息を吐き出し、ハーヴィーは目を細めた。
「できれば原因を突き止めて、お嬢様の不眠が治るよう、そのお手伝いができればと思ったのですが」
「お心遣い感謝します」
「いいえ、当たり前のことですよ」
ハーヴィーは医療バッグを膝に乗せ、中から薬を取りだした。サイドテーブルに二袋並べる。
「では、いくつか睡眠薬を処方しますね。一日一回、二錠のみ服用してください。それ以上は危険ですから、止めてくださいね。薬自体も、本当に眠れないと思ったときだけ飲むようにしてください。できれば、最初は二日おきくらいが最適ですね。今までは毎日服用していたそうですから、少しずつ睡眠薬がなくても眠れるよう努力していきましょう」
「はい、分かりました」
「本当にありがとうございます、先生」
「とんでもありません」
ハーヴィーが立ち上がったのを見て、せめて見送ろうとリアムはベッドから出ようとした。しかしハーヴィーはそれを押しとどめる。
「ここで結構ですよ。お身体もお辛いでしょう。そのままで」
「すみません。今日はありがとうございました」
「また日を見て来ますね」
リアムに頷くと、ハーヴィーは今度エイミーと向き直った。
「もしあればの話なんですが、お嬢様が以前服用されていた睡眠薬はお持ちですか?」
「あります。今お持ちしますね」
エイミーは慌てて部屋を出、ソイルを連れてきた。
「睡眠薬ですね? いくつか種類があるんですが、最近はこの薬が多かったみたいです」
「成分を調べたいので、一つ持ち帰ってもよろしいですか?」
「もちろんです」
ハーヴィーは薬をバッグにしまうと、皆に向かって頭を下げた。
「では、今日はこれで失礼します」
「本当にありがとうございました」
エイミー、ソイルが、ハーヴィーを見送ろうと部屋を出て行く。遠ざかっていく足音を聞きながら、リアムはサイドテーブルに置いたままの睡眠薬を見つめた。ホッと息を吐き出しながら、天井を向く。
これでまた眠れる。
心から安堵した瞬間だった。