10:胸騒ぎ
リアムはうなされていた。暑いわけではないのに――むしろ部屋の中は寒いくらいなのに――額には玉のような汗が浮かび、寝息は荒い。嫌な夢を見ていた。
寝る前にハーブティーを飲むようになってから、リアムの不眠は徐々に改善されていった。ハーブの効能のおかげか、寝付きが良くなったのだ。しかしその分、よく夢を見るようになった。予知夢か、ただの夢か。その区別すら曖昧な、嫌な夢――。
戦争の夢だった。人が人を殺戮する――そんな夢は、今までに何度と見た。周辺国に侵略されぬよう、そして他国よりも優位に立つため、リアムの予知夢は世界各国の情勢が主だった。どこがどこと戦争しているのか、勢力はどれほどのものか、不穏な動きはないのか――。
その日の夢は、自国ワイアネスが舞台だった。隣国バーバドの象徴たる紋章が施された鎧の兵士に、ワイアネスの辺境地が侵されている。戦力はワイアネスが僅かに劣勢。侵略に気づくのが早かったのか、ワイアネスに甚大な被害はまだない。
とはいえ、ワイアネスは防戦一方だった。国境を守る要塞の防壁は既に破られ、ワイアネス側は狭間から弓矢で応戦していたが、それも直に侵入された敵兵に蹂躙されるだろう。
どこからか、地響きのような音が聞こえてきた。目の前の敵を切り捨てることに必死になっていた兵が気づかずにはいられないほど、その地響き――馬が地を駆ける音は、大きくなっていく。
その音は、敵兵の背後から聞こえてきていた。
加勢か。
ワイアネス兵の顔が絶望に染まっていく。しかしそれはほんの束の間のことだった。直に現れたその勢力は、大きく旗を掲げていた。ワイアネス国の紋章だった。
形勢は逆転した。前後で挟まれた敵兵は大混乱に陥り、うまく指揮が執れない。そればかりか、確実かつ迅速に敵国の将ばかり狩っていく猛者がいた。
――アレスだ。
兜を被っていたが、顔を見ずとも分かる。
アレスは、先陣を切って戦っていた。一国の王子が、恐れもせずに前線で戦っているその姿に、鼓舞されない兵はいまい。
次第にワイアネスは盛り返してきた。要塞に侵入できた敵兵は、逆に袋の鼠になり、外から援護をしていた兵は、上から降り注ぐ矢の格好の餌食になった。後ろへ逃げ惑う兵の前には、加勢の兵が立ちはだかる。
しばらくして、その地に静寂が訪れた。降参を求める声も無視し、戦い抜いた結果、バーバド兵は殲滅されたのだ。
地鳴りのように、徐々に徐々に歓声が大きくなる。ワイアネス万歳と、口々に兵が叫ぶ。
アレスの周りにはポッカリと空間ができた。皆が彼を見つめ、お言葉を――勝利の宣言を聞こうと期待する。
アレスが、兜に手をかけた。徐に彼の顔が露わになっていったその時、リアムは目を覚ました。
「…………」
長い夢だった。眠っていたのはほんの僅かな時間だろうが、夢の長さはそれに反比例していた。
予知夢の長さも、日数の感覚に反比例している。予知夢を見る時間が長ければ長いほど、その出来事が起こる日は近いのだ。
長年の感覚から言って、今回の予知夢は明日か明後日には起こる出来事だろう。ワイアネスが攻め込まれ、そしてアレスの活躍も相まって撃退される。
リアムは、嫌な胸騒ぎを感じていた。ワイアネスは、ここ十数年一度も攻め込まれたことがなかった。それは、リアムの予知夢が、他国からの襲撃を事前に察知していたからだ。もちろん、日頃からの軍の強化も大きい。が、やはり、事前に攻め込まれる相手、軍勢、日付が分かるというのは大きい。
――その予知夢がなくなった今。
リアムは心配で堪らなかった。今回はたまたまうまくいっただけで、もし今後他国に攻め入られるようなことになったら。
大勢の人が亡くなるだろうし、もしかしたらアレスも無事では済まされないかもしれない。
――自分はここにいて良いのだろうか。
焦りとも不安とも言える感情がふつふつと沸き起こる。アレスの采配には感謝していた。ソイルもアントワーズ夫妻も皆いい人で、初めて経験した乗馬も刺繍も劇場も、とても楽しかった。しかし、リアムに課せられた使命はリアムにしか果たせないのだ。一時の私情だけで動いていいものか。人の命が――一国の運命がかかっているかもしれないのに。
「リアム様。ハーヴィー先生がお待ちです。起きていらっしゃいますか?」
リアムの思考を遮ったのは、ソイルの声だった。リアムは慌てて身なりを整える。
「あ、はい。今起きたところです。すぐに向かいます」
「いえいえ、こちらに来てくださるそうで。すぐにお呼びしますね」
リアムが待ったをかける暇もなく、ソイルは遠ざかっていった。リアムとしては、階下でちゃんとした姿で対峙したかったのだが、それも適わないらしい。無防備にベッドの上で応対するのは嫌だったので、寝間着から着替え、髪を整えながら、ソファに座り直す。丁度支度を終えたところに、ソイル達がやってきた。
「おはようございます」
「おはようございます。いつもご足労をおかけして申し訳ありません」
「いえ、これが仕事ですから」
ハーヴィーは笑みを深くし、向かいのソファに腰を下ろした。
「最近はぐっすり眠れていますか?」
「はい、おかげさまで。寝る前にハーブティーを飲むようにしてから調子が良いんです。睡眠薬を飲むのも、最近はたまにしかないので」
「それは良かった。でも、それにしてはどこか表情が浮かないですね。もしかして、夢見が悪かったりしませんか?」
「えっ?」
どうして分かったのか、と言わんばかりの表情に、ハーヴィーはクスリと笑った。しかしすぐに真剣な表情に戻る。
「不眠の方は、眠りが浅いですからね。精神状態も影響して、悪夢を見る傾向が高いのだとか」
「そうなんですか……」
「どんな夢ですか?」
「――っ」
リアムは言い渋った。夢の内容など詳しく話せないし、そもそも夢というよりも、予知夢だ。
リアムが黙ったのを見て取って、ハーヴィーは宥めるように言った。
「夢は、その時の精神状態を表していることが多いんですよ。お嬢様の調子を知るためにも、教えて頂けませんか?」
リアムはギュッと目を瞑った。今でも鮮明に思い出せた。赤い記憶だ。
「人が……殺される夢です」
「戦争ですか?」
すぐに切り替えされ、リアムは言葉を失った。混乱する頭が、独りでに返事を返した。
「はい」
「夢は案外馬鹿にできないものです。寝る前、ふと頭によぎったこと、最近の心配事、不安……。それらがいくつもない交ぜになって、夢として現れる。普通の人は、過去の経験や記憶が結びついたものを夢として見るようですが。お嬢様もお心当たりがあるのでは?」
困惑し、リアムは思わず俯いた。確かに、以前見た夢は、アレスが読み聞かせをした内容がそっくりそのまま夢として現れた。
難しい顔をするリアムに、ハーヴィーは安心させるように頷いた。
「繰り返し悪夢を見るようなら心配ですが、今のところは我慢して頂くしかないですね。そのうち、深く眠れるようになったら自然と悪夢も見なくなっていきますよ」
「そうでしょうか」
「はい。今はしっかり眠ることだけを考えてください。新しいハーブもおいて行きますね。今回はドライハーブです。乾燥させたものの方が効能がありますから」
「いつもありがとうございます」
手製のハーブを受け取った後、リアムとソイルは、ハーヴィーを見送った。部屋に戻ろうとする暇もなく、ソイルはすぐに険しい表情を浮かべ、リアムと向き直った。
「リアム様、先ほど戦争の夢を見るって……。もしかして、予知夢ですか?」
「――はい」
一瞬の躊躇いの後、リアムはしっかりと頷いた。
「今、バーバドと戦争中なんですね? 夢で見ました。戦況はどうなんですか? 予知夢で見たときには、国境まで踏み込まれていました。この先……ワイアネスは本当に大丈夫なんですか?」
難しい顔をしたまま、ソイルは黙り込んだ。このまま沈黙を許したら、もう一生真実を知る機会など失ってしまうような気がして、リアムは彼に詰め寄る。
「私にも知る権利があるはずです、教えてください」
かつて、余計なことを知ってしまわないよう、極力神官達の話には入らないようにしてきた。ただの何でもない娘が国情を知ることに後ろめたさを感じていたし、どうせ自分が知ってもという思いがあった。しかし今は、自分が蚊帳の外であることが、こんなにももどかしい。
「……分かりません」
間をおいて、ソイルは苦しげに答えた。
「殿下の従者から、時々近況報告は頂いています。ですが:それだけではなんとも言い切れません。戦況は逐一変わるもので、一概にこれからどうなるとは言えないんです。ただ、以前からバーバドの動きに怪しい所はあったんです。丁度リアム様が城を出られた頃くらいから、動きが活発になってきたんです。積極的にワイアネスを攻撃し、侵略の意思を見せ始めました。バーバドにどういう思惑があるのかはまだ分かりません。しかし、これから本格的に戦争が始まるかもしれません」
「戦争……?」
リアムは頼りなげにそう口にした。
ここ十数年、ワイアネスは戦争と名のつくものはほとんどしたことがなかった。せいぜい、国境での小競り合いがある位だ。攻め込まれる前に、リアムの予知夢がその動きを察知したためだ。
長らく平和だったワイアネスが、急な戦争に対応しきれるのか――それは分からない。しかし、バーバドがやる気な今、応戦しないわけにはいかないのだ。
ソイルと別れた後、リアムはすぐに自室に戻った。やるべきことを悟ったのだ。
再び寝間着に着替え、サイドテーブルに置いたままの睡眠薬を二錠口に含む。そうしてもう冷めたハーブティーと共に嚥下する。ここしばらく睡眠薬のお世話にはなっていなかったのに、この時ばかりはリアムも目を瞑ろうと思っていた。
ベッドに身を横たえ、リアムはすぐに瞼を閉じた。予知夢を見るつもりだった。
予知夢は、多少は制御ができる。見たいと思った事象を見ることができるのだ。幼少の頃は、見ろと指示されたものがなかなか見れず、神官達によく怒られたものだ。今では、見たいと思った場所を頭の中に描きつつ、眠りにつくことができれば、思い通りの予知夢が見られる。
リアムは、自ら臨んで予知夢を見たことがなかった。必ず、眠りにつく前に、今日はこの国の情勢を見ろとか、あの国が密輸入しているものはなんだとか、神官に命令されてから見るのだ。見たい予知夢などなかったし、そもそも見ようとも思わなかった。しかし、かつて一度だけ知りたいと思ったものがある。――両親の所在地だ。
が、予知夢を見たとして、両親はもう既に死んでおり、真っ暗な土の中を延々と見せられたらどうしようという恐怖感から、リアムは行動に移せなかった。本当は無意識のうちに既に理解していたのかもしれない。両親はもうこの世にはいないと。
それを思うと、リアムの中で、アレスは大切な人の部類に入るのだろう。長い間、そういった感覚とは無縁の世界にいたと思っていたが、そんなわけがない。人は、決して一人では生きていけないのだから。
アレスの先行きが気になるというだけではない。ただの夢でも、彼を一目見たいという思いがあるのだ。こんなにも切に思い焦がれるのは、この嫌な焦燥感があるからゆえのことだろうか。
つらつらと言い訳のようなことを考えているうちに、リアムはスーッと眠りにつく。
予知夢はすぐに始まった。
闇の中に、一人の男が映し出される。彼の様相は真っ黒で、うまく暗闇に溶け込んでいた。唯一の明かりは月光のみで、ちらちらと彼の姿が浮かんでは消えた。まるで全て分かっているかのように、彼は迷いなく一つのテントに忍び込む。
リアムもまた、直感で理解する。――そこがアレスのテントだと。
組み立て式のベッドの上で、アレスは死んだように眠っていた。音もなく彼に忍び寄ると、男は腰からスーッと剣を引き抜く。
アレスの上に剣をかざし、男は大きく振りかぶった。そして勢いよく彼の胸に剣を突き立てようとしたところで――ハッとリアムは飛び起きた。
汗で寝間着はぐっしょりと濡れ、喉がカラカラに渇いていた。しかしそんなことは気にならない。
アレスが――アレスが。
バクバクと荒ぶる心臓に、リアムの思考は思うように定まらなかった。夢で見た光景が、グルグルと頭の中を巡る。嫌な場面ばかりが、何度も頭の中で繰り返された。
気が遠くなるような思いだった。どうすれば良いのか自分でも分からない。ただ分かることは。
アレスが――死んでしまう。
リアムは顔を歪め、両手を握りしめた。