11:あなたの下へ
寝間着から着替えた後、リアムはすぐに階下に降り立った。予知夢を見た時間はあっという間だったが、実際に寝ていた時間は長かったらしく、外はすっかり闇に包まれていた。
リアムが降りてこないので、アントワーズ夫妻とソイルは、食堂で夕食をとっていた。声をかけるのもそこそこに、リアムはソイルの元に行く。
「ソイルさん、お話ししたいことが」
少し躊躇った後、リアムは決心を固めた表情で口火を切る。
「予知夢を見たんです。――アレスが殺される夢」
おぞましく、口に出したくもないその事実。囁くようにいえば、それだけでソイルは全てを悟ったように、険しい表情へと変化する。
「それは――どういうことですか」
「おそらく一週間以内に起こる出来事です。アレスのテントに忍び込んだ男が、今にもアレスを殺そうとするところで目が覚めました」
「場所は?」
フレイツが立ち上がる。
「分かりません。ですが、実はもう一つ予知夢を見たんです。おそらく三日以内に、バーバドにワイアネスの要塞が襲撃されるところです」
「とすると、城に戻るところか、そこから他の地に移ったか……。テントの周りには何があった?」
「…………」
リアムは唇を噛みしめ、必死に思い出そうとした。予知夢は、起きてすぐ反芻しなければ、後々何かの手がかりになるかもしれない光景をすぐに忘れてしまう。塔にいた頃は、反芻を怠ったことはなかったのに、ここで暮らしているうちに気が緩んでしまったのだろうか。
「山が見えました。いくつも連なる山……。すみません、それくらいしか覚えていません」
「山か」
リアムの声は頼りないものだったが、思いのほか、フレイツはその返答を重く受け止めた。
「山間に進んでいけば鉢合わせするかもしれない。よし、私が行こう」
「――っ、私も行きます。行かせてください」
リアムはすぐに立ち上がった。じっとなんてしていられなかった。もうあんな場面は見たくない。何より、もう一度無事な姿をこの目で確認したかった。
「駄目だ」
しかし、いつもはおおらかなフレイツは、今日ばかりはかぶりを振る。
「戦地は危険だ。それに、バーバドとの国境付近には、寝る間を惜しんで馬を走らせたとして、三日はかかる。リアムにはきついだろう」
足手まといであることは十分理解していた。しかし、じっとはしていられないのだ。
とはいえ、リアム一人の我が儘で、もしアレスの身に取り返しのつかないことが起こったら、元も子もない。それだけは絶対に避けるべき事態だ。リアムは不承不承頷いた。
「……分かりました。でもフレイツ様。アレスのこと……よろしくお願いします」
「分かっているよ」
そこでようやくフレイツは笑みを見せた。口元に深い笑い皺が刻まれる。
「不敬かもしれないが、私にとっても、殿下のことは息子のように思っているんだ。何としてでもお助けするよ」
「…………」
リアムはこくりと頷いた。フレイツは、平民の出ながら、戦争で勲章を挙げ続け、男爵の地位を賜った男だ。彼ならば、きっとアレスのことを助けてくれるだろう。だとしても、もし間に合わなかったら、もし失敗してしまったらと思うと、どんどん胸が締め付けられる。
単騎で行くフレイツを見送りに外に出たリアムは、彼の姿が見えなくなった後も、じっと虚空を見つめていた。エイミーが彼女の肩をポンと叩き、ようやく我に返る。
「リアム、夕食は?」
「食欲がないんです」
エイミーと共に屋敷に入りつつも、リアムの顔は浮かない。だが、ソイルは明るい口調でリアムを食堂まで導いた。
「食べておいた方が良いですよ。何があるか分かりませんから。ほら、スープだけでも」
テーブルには、まだたくさんの食べ物が残っていた。リアムの分にと残されていたものから、ソイルは手当たり次第リアムの前に持って行く。
ついでにパンも、果物もと言われているうちに、リアムのお腹は本当に一杯になってしまった。良いように操られたような釈然としない思いを抱きつつ、リアムは自室へ戻った。
お腹は膨れたが、かといってそれで眠れるわけではない。ハーブティーを飲んだとして、それは変わらないような気がして、リアムはそれからずっと裁縫をしていた。エイミーから課せられた課題がまだ残っていたのだ。しかし、心中が複雑なせいか、縫い目は一定しない。やがてリアムは放り出してしまった。
飛び込むようにベッドに横になり、うつ伏せになる。息苦しかったが、むしろそれくらいが丁度よかった。
「リアム様」
囁くような声に、リアムはパッと目を開けた。眠ってはいなかった。眠れるわけがないのだ。
「起きていらっしゃいますか?」
「はい、どうぞ」
「失礼しますね」
辺りを憚りながら、ソイルは部屋に入ってきた。
「こんな時間にすみません」
「いいえ。一体どうしたんですか?」
こんな時間にソイルがやってくるのは初めてだ。リアムが女性だからと気を遣ってくれているのだろう。そうなると、今日は一体どうしたのか。
心を決めたような彼の表情に、リアムは自然と背筋を伸ばす。
「提案したいことがあって。……一緒に殿下の元に行きましょうか?」
「……!」
リアムは小さく目を見開いた。ポカンと開いた口が塞がらない。
「ど、どうして。いいのですか?」
「行きたいのでしょう?」
「でも……」
「フレイツ様ほど早くは到着できませんが、それでも御自分の目で殿下の安否を確認したいでしょう? それは俺も同じ事です。一緒に行きましょう」
「…………」
リアムは逡巡した。つい先ほどまでは、行きたくて堪らなかった後、いざそう提案されると、怖じ気づいてしまう。足手まといになったらどうしようとか、手遅れだったらどうしようとか。
しかし深く考えないうちに、リアムは反射的に頷いた。理性よりも先に、本能が働いたのだ。
「行きます」
「そう仰ると思いましたよ。ではすぐに用意をお願いします。準備ができ次第、厩舎に集合しましょう」
「はい!」
大きく首を縦に振り、リアムは慌ただしく準備を始めた。といっても、持っていく物などてんで分からない。この身一つ持っていくことができれば、後はそれでいいのだ。
階段を駆け下り、リアムは厩舎へ飛び込んだ。もう既にそこには準備万端なソイルがおり、馬二頭の鞍と鐙を取り付けていた。
「馬で行くことになりますが、大丈夫ですか?」
「もちろんです」
乗馬は習いたてだ。しかし、そんな甘えたことは言っていられない。何より、馬車や荷車でのろのろと進むよりは、多少慣れなくとも、速い馬で行きたい。
外は小雨が降っていた。二人は外套をしっかり着込み、出発した。月は雲で隠れ、視界は悪い。しかしそのうち暗闇に目が慣れ、多少なりとも辺りは確認できるようになった。初めのうちは、ソイルの後をリアムがついていく形で駆けていたが、二人の距離が離れてしまうことを恐れ、横並びになった。
「リアム様、随分乗馬が上達されましたね」
「そうですか?」
リアムの速度に合わせながら、ソイルは話しかけた。
「そうですよ。乗馬もできるくらい元気になられたって分かったら、殿下も絶対に驚きます」
過去に思いを馳せ、ソイルはくすりと笑う。
――あの日、眠ったままアレスに抱えられていたリアム。青白い顔で死んだように眠る彼女の姿に、ソイルは度肝を抜かしたものだ。一体どこぞの深窓の娘なのかと。こんなひ弱そうな女性が、これからの長旅に耐えられるのだろうかとも思った。しかし、意外なことに、リアムは決して弱音を吐かなかった。我が儘も言わないし、文句も言わない。静かに荷車でぼうっとしている姿には、むしろ心配すら抱いたものだ。あまりに欲や自我のない言動に、そのまま霞のようにどこかにきえてなくなってしまいそうで。
しかし、そんな心配とは裏腹に、リアムは次第に元気を取り戻した。乗馬や裁縫を始め、読み書きを学び、よく散歩するようになり。
唯一睡眠のことだけは気がかりだったが、医者ハーヴィーのおかげで、最近はよく眠れるようになったようだ。そして今だって、誰かのためにこんなに必死になっている。
始めは主君に託された娘だからと、それだけで世話を焼いていたが、今では――フレイツの言葉を借りたわけではないが――妹のようにすら思っているのだ。
そんな彼女のために、一肌脱ぐのも悪くない。
ソイルは、アレスのことはあまり心配していなかった。しかし、彼が心配だというのなら、ソイルは彼女について行くのみ。
次第に夜が明けていく。雨上がりの朝日は、いつもよりも輝いて見えた。