12:月の夜に
馬での旅は、四日かかった。それでもアレス達がいるだろう国境付近にはなかなかたどり着かない。いくら馬の方が速いといっても、リアムの速度に合わせていれば、自然と到着は遅くなる。リアムはもどかしい思いだった。
今日もまた夜が更け、旅は一時中断になった。途中で見つけた村に立ち寄り、宿を探す。小さな村には、宿は一つしかなかったが、旅人はほとんど来ないのか、顔を出せば、リアム達は諸手を挙げて主人に歓迎された。
「おやまあ、こんな何もないところに旅人とは珍しい。一泊ですか?」
「はい。二つ部屋はとれますか?」
「もちろんですとも。二つと言わず、三つでも四つでも空いてますよ」
豪快に笑う主人に対し、ソイルは疲れた笑みを返した。ずっと馬に乗り続けで、さすがの彼も疲れが溜まっているのだ。
「それはそうと、どこに行かれる予定なんですかい? この辺りが故郷とか?」
「いえ、ちょっと各国を旅して回っていて」
話し好きな主人を適当にはぐらかしながら、ソイル達は席に着く。しかし、珍しい客人を逃してなるものかと、主人はニコニコ笑いながらついてくる。
「何を頼みます? 今の時期ですと、羊肉のシチューがおすすめですね。あと、デザートにはさくらんぽのパイだとか」
「じゃあそれを」
「はいよ!」
主人は厨房に向かって大きな声を張り上げ、注文を繰り返した。そうして向こうからの返事を聞き終えた後、またもリアム達に向き直る。注文を聞いたからと言って、このテーブルから退く気はさらさらないようだ。
「この村に滞在される気はないんですかい? 一応観光地もあるんですが」
「観光地ですか?」
「はい。村のすぐ近くに湖があってですね、そこがまた綺麗なんですよ! 天気が良いときには湖に青空が広がりますし、夜には湖に月が反射しますんで、とても幻想的だって評判ですよ。丁度二日前雨が降ったばかりですんで、きっと今日もお月さんは綺麗に見えますよ! どうですか、明日も泊まっていって、昼と夜、どちらも見て行かれるっていうのは」
「生憎ですが、今急いでいるもので。帰るときに立ち寄って、その時にはぜひ見ていきたいものですね」
「どうぞどうぞ! ここはいつも暇ですから、いつでもおいでなすってください!」
主人はすっかり気をよくし、ソイルに狙いを定めた。
「お客さん、ワインは飲まれますか?」
「いえ、結構です」
「お堅いですねえ。嗜好品はあまりお好きでない?」
「そういう訳ではないのですが」
「じゃあいいじゃないですか。晩酌のお供もしますよ」
主人は愛想よく笑いながらとくとくとグラスに酒を注ぐ。ソイルはというと、主君の安否が定かでないのに、酒なんて飲めないとただひたすらに固辞する。が、対する主人の方も、まあまあと宥めるのがうまい。結局、ソイルはたった一杯で酔い潰れ、テーブルに伏せてしまった。あまり酒が強くなく、おまけにろくに食べ物をお腹に詰め込んでいないうちにアルコールを口にしてしまったので、尚更である。リアムの方も、あまり食欲が湧かなかったので、二人は早々に部屋に引き上げた。
部屋の中は暗かった。唯一窓から月の光が差し込んでいるが、それだけではどうも心許ない。今日も眠れないかもしれないと、リアムは懐から睡眠薬を取り出し、見つめた。
アレスの命がかかっているのだから、できるものなら、今すぐにでも新たな予知夢を見たい。しかし、また繰り返される明日の旅路を思えば、睡眠薬を服用した怠い身体での乗馬はきついものがあると判断し、結局薬を飲むのは止めた。
寝間着に着替えもせず、リアムはそのままベッドに横になる。丁度窓からさし込む月の光が視界に飛び込んでくるので、多少は気持ちも落ち着いた。
失念していたが、リアムはハーブを持ってくるのを忘れていた。ハーブティーを飲めば、気が落ち着き、身体も温まるので、スッと眠りに落ちることは最近何度も経験済みだ。
とはいえ、ないものは仕方ないので、うだうだと考えることは止め、リアムは目を瞑った。リアムが不眠に陥るのは、眠ることの前提――目を瞑ることが苦手なせいもある。暗闇が怖いので、ただ瞼を閉じることすらも恐怖なのだ。しかし、今はそんなこと言っていられない。アレスのために、何か少しでも予知夢を見なければ。――いや、彼のためと口では言っていても、実際の所リアム自身のためだ。早く彼の無事を確認したい。その一心なのだ。
不安や焦燥が頭の中をぐるぐる巡り、しかしやがてそれは穏やかになり始め、リアムは眠りに落ちた。
リアムの不安が影響したのか、彼女はすぐに夢を見た。まだその時点では、ただの夢か予知夢か、判別はつかない。
暗い夜の村を、リアムの意志とは裏腹に、ただ徘徊する夢だった。その時間は果てしなく長く、退屈を催した。ようやく景色が動き出したかと思えば、場面は森の中へ向かう。
森の滞在時間も長かった。道に迷っているわけではないだろうに、ひたすらにぐるぐると同じ場所を回る。何の意味もない夢だ。そう思っていた矢先、視界の端に何者かの姿が映る。彼は躊躇うことなく歩みを進め、リアムの夢はというと、導かれるように彼の後をついていった。
やがて場面は湖へと変わる。森の中に、大きな湖が存在していたのだ。彼はしばらく湖を眺め、そして近づく。リアムの視界も、彼の肩越しに湖を覗き込む。もう少しで彼の顔が水面に映し出される――そこで目が覚めた。
夢の余韻は、しばらく続いた。ぼうっとした眼差しで月の光を眺め――ハッとすると、リアムはまるで操られているかのようにベッドから立ち上がった。着の身着のまま部屋を飛び出し、足音を忍ばせつつも、はやる思いで宿を出る。
単なる直感だった。場所も知らないし、行ったところで、会えるとも限らない。それでも、自分の意識とは関係なしに足が動いてしまうのだ。半分夢を見ているような心地だった。夢遊病のようにリアムはただ足を動かす。
村の奥へと進むと、森へ行き当たった。背の高い木々が月の光を覆い隠し、辺りは不気味だ。しかし、今のリアムに暗闇は問題なかった。彼女の意識は、先へ先へと勝手に進んでいくのだ。
森はなかなか抜けない。しかしリアムには直感があった。――この先だと。
唐突に目の前が開けた。木々が遠慮したように周りに散らばるそこには、どっしりと大きな湖が鎮座していた。あまりにも透明度の高い湖は、空高く輝く月を反射し、幻想的にも二つの月を同時に暗闇に存在することとなる。
ずっと何も聞こえなかった耳が、夜の音を捕らえた。虫の鳴き声、葉が擦れ合う音、耳元でなびく風の音。
ようやく五感が自分のものと感じられた。耳が、鼻が肌が、夜の森を存分に味わっている。何より、今まで薄いヴェール越しにしか見られなかった景色が、鮮明に映し出されたことでより現実のものと実感できる。
足を踏み出せば、靴の下で小さく地面のこすれる音がした。湖に近づけば、水面にほんのりリアムの顔が浮かび上がる。思わず手を伸ばすと、水面が揺れ、冷たい水が指先に触れた。両手で水をすくい、火照った顔に当てた。今の時期を考えれば寒いはずなのに、どうしてか今夜は気持ちよく感じられる。
リアムはしゃがみ込んだまま、ゆっくり辺りを見渡した。
虫が、風が、木々が、それぞれの息づかいを伝えている。しかし、夜の森には、それ以外の気配は微塵もない。
――いない。そこには、誰の姿もなかった。
張り詰めていた緊張の糸が解け、リアムはまたも湖に向き直った。視線を落とし、ゆらゆらと揺らめく水面を力なく見つめる。
分かってはいた。こんな所にいるわけがないと。あれは、そもそも予知夢ですらあったのだろうか。リアムの願望が招いたただの夢ではないのか。
消沈したまま、リアムはしばらくその場から動かなかった。すっかり身体は冷たくなっていたが、自分では気づかない。ぶるりと反射的に身を震わせても、心ここにあらずなのだ。
リアムの背後でカサリと葉の擦れる音が微かに響く。それにすら彼女は気づかない。足音を忍ばせたまま、何者かはリアムに近づく。
「リアム……?」
発された声は、リアムの耳に確かに届いた。反射的に振り向く。脳が理解しないうちに、彼女の口は勝手に動いた。
「アレス?」
「どうしてこんな所に?」
アレスは信じられないといった表情を浮かべた。彼のこんな顔は珍しい。リアムも、どうして彼がここにという心境は同じだったが、我に返ったのは彼女の方が早かった。もうずっと前から期待しては気落ちしていたのだ。立ち直りだって早い。
「アレス!」
リアムはよろめきながらアレスの胸の中に飛び込んだ。アレスは困惑しながらも、狼狽えるようなことはしない。
「良かった、無事で――!」
「無事? いや、どうしてここに……。フレイツ殿と一緒に来た……わけじゃないよな? もしかして、ソイルと?」
「ええ。フレイツ様の後を追ってきたの。居てもたってもいられなくて。だって、あんな場面を見てしまったら、嫌でも心配する。本当に無事で良かった」
「心配かけたな」
アレスもようやく調子を取り戻した。未だ詳しい状況は分からないまでも、落ち着いた様子で、リアムの肩に腕を回す。
「俺は無事だ。フレイツ殿から、リアムが予知夢を見たという話を聞いたが、それ以降、フレイツ殿が俺と一緒のテントで眠るといって聞かなくてな。それが功を奏したのか、刺客はまだ来ない。油断はできないが」
「油断してるじゃない」
アレスの胸に顔を埋めたまま、リアムはくしゃりと顔を歪めた。
「夜中に一人でこんな所に来て。誰かに襲われたらどうするの」
「それはお前も一緒だろ」
「話を逸らさないで」
ピシャリとリアムが言い放つと、アレスは困ったような顔で斜め上を見上げる。
「……気分転換に出てきたんだ。近くで野営をしていて、夕食の時に、この村出身の兵が、湖の話をしたから」
「気分転換? アレスが?」
怒っていたのも忘れ、リアムはきょとんとした。今まさに言われたばかりのことが、うまく脳まで行き届かなかったのだ。気分転換なんて言葉には全く似つかない男が、月の夜に湖を散歩など、とんだ洒落者ではないか。
次第にこみ上げる笑いに、リアムは咄嗟に顔を逸らした。しかし、笑い声までは誤魔化せなかったらしく、アレスの不満げな声が後追いする。
「何がおかしい」
「だって、城にいた頃は、気分転換なんてしたことなかったじゃない。ずっと働きづめで、休んだらって言っても、全然聞いてくれなかったくらいだし」
「俺の気分転換は、ずっとお前だったからな」
「え?」
言われた意味が分からず、リアムは目をぱちくりさせる。アレスはそんな彼女の頭をポンと叩くと、リアムの顔が見える位置まで身体を離した。
「お前が城にいた頃は、外に出る必要なんてなかった。だが、いなくなってしまってからは――気がつけば外にいた。外に出て月を見た。もしかしたら、お前もこの月を見ているかもしれないと思って」
柔らかく微笑み、アレスはリアムの頬を撫でた。
「最近はちゃんと眠れているか?」
リアムはくすぐったそうに笑う。
「アレスの方こそ。クマが酷いわ」
「戦が続いているからな。仕方がない」
「しっかり身体を休めて。じゃないと、大事なときに」
「分かっている」
苦言はもう止めろとでも言いたいのか、アレスは再びリアムを抱き締めた。
顔が見えなくなって、少々物足りなくも感じるが、その代わり、アレスの匂いに包まれた。懐かしい匂いだった。リアムは目を瞑る。
「この国を背負うものとして、志半ばで死ぬつもりはない。状況は少し厳しいが、いずれ逆転するつもりだ。いつまでも防戦一方でいるつもりはない。だから安心してくれ。予知夢で何を見たとしても、俺はそれを覆してみせる。――何より、お前を置いていけないしな」
「…………」
リアムは長らく何も答えなかった。そのあまりの長い空白に、アレスは違和感を覚える。
「リアム?」
そうして彼女の顔に目を落とせば、リアムは、目を瞑ったまま小さく寝息を立てていた。立ったまま眠るという所業に、アレスは呆れを通り越して、苦笑を漏らしてしまった。
「仕方のない奴だな」
小さく嘆息すると、アレスはリアムをそっと抱き上げた。ふわっと身体が浮いた感覚にもリアムは目を覚ますことなく、アレスはそのまま夜の森へと姿を消した。