13:心からの安堵
妙な安心感があった。普通、睡眠薬やハーブティーでぐっすり眠れるときがあっても、朝意識が浮上し始めれば、すぐに目が覚める。
しかし今日ばかりは違う。謎の安心感があって、まだまだ眠っていたいような、朝が来たことすら不満に思うような、そんな不思議な感覚があったのだ。
その根拠にはすぐに気がついた。左手に、懐かしい感触があったのだ。今度こそ紛うことのない、アレスの体温だと分かった。
睡眠欲よりも、現実の欲求の方が勝った。リアムはそっと目を開けた。
視界にすぐに飛び込んできたのは、テントの天井だ。視線を横にずらし、アレスを視界に入れる。アレスは、椅子に腰掛け、器用にもそのまま眠っていた。一瞬目を瞑っているだけかと思ったが、呼吸が穏やかなので、眠っているのだろう。
しばらくは、起きたばかりの余韻に浸っていたリアムだったが、唐突に思い出す。昨夜のことを――そして、自分が何をしでかしたのかも。
咄嗟にリアムは起き上がろうとしたが、アレスを起こすわけには行かないと思いとどまり、再びベッドに身を横たえる。
リアムは、今見も知らない場所にいた。近くで野営をしていると昨夜アレスが言っていたので、おそらくここはその野営地だろう。
耳を澄ませば、テントの外からは、あまり物音がしない。まだ夜明け前なのだろうとリアムは当たりをつけた。夜が明けていないのが不幸中の幸いだ。
リアムは、そうっとアレスの手を解いた。眠っていて気が緩んでいるのか、彼の手は案外容易にほどけた。そっとベッドから起き上がり、テントの中を訳もなくウロウロする。
戦時中のアレスを――今最も休まなければいけない彼を椅子などで眠らせていることに酷く申し訳なさがこみ上げた。しかし、なんだか妙に照れくさく、リアムは彼を起こせずにいる。アレスのことが心配でここまで追いかけてきたことも、よくよく考えてみれば照れくさいことだったし、彼の安否が確認できれば、いつまでも足手まといになるかもしれない戦場に滞在するわけにはいかないのだ。
結局、リアムは毛布を彼の肩にかけるだけに留めた。何か一言でも書き置きを残したい気もあったが、まだ今のリアムは、それをするだけの充分な読み書きの能力があるわけではない。
後ろ髪を引かれる思いで、リアムはそっとテントの外に出た。夜空には月の姿はとうに消え、山々の向こうから薄らと朝日が昇っていた。はやる思いで、リアムはあちこちに点在するテントの間を縫って歩く。自然と彼女の足取りは速くなっていった。
早く戻らなければ、ソイルが心配するだろうし、何より誤解されても困る。
当てもなく歩き続ければ、ようやく野営地の端にたどり着いた。遠くの方には、見覚えのある森も見える。あれを抜ければ村にたどり着くのではないかと、リアムは何も考えずに足を進めた。
「何者だ!」
鋭い声が静寂を切り裂く。自分に向けられた言葉であることは明白だ。しかし、あまりにも厳しい声に、リアムの身体は自然と硬くなる。
「女……? こんな所で何をしている。どうやって中に侵入した?」
まだ若いその男は、リアムの前に回り込んだ。剣の柄に手を伸ばし、いつでも抜けるようにしている。張り詰める緊張感に、リアムの喉は恐怖に張り付いた。
「あ、あの……」
「答えろ。何者だ? 隣国の手先か?」
一向にリアムが何も答えないので、男はスッと剣を抜く。いよいよリアムの頭の中が真っ白になったところで、穏やかな声が参戦する。
「――すまない、その子は私の娘だ」
「アントワーズ様!」
フレイツの姿を捕らえた途端、男は姿勢を正した。敬礼までしそうな勢いで、フレイツとリアムとを見比べる。フレイツは、安心させるようにポンとリアムの肩を叩いた。
「私の後を追ってきたようで、夜に野営地に引き入れたんだ。すまないな、連絡が遅れて」
「い、いえ、こちらこそ無礼な口を利いてしまって失礼しました」
生真面目な男はピシッと頭を下げた。
「いや、大丈夫だ。少し外を散歩してくるから、見張りは頼んだよ」
「はい。行ってらっしゃいませ!」
男に見送られ、リアムとフレイツは黙ったまましばらく歩いた。野営地が見えなくなったところで、ようやくフレイツが口を開く。
「まさか、ここまで一人で来たわけじゃないだろうね?」
「あ、あの、ソイルさんと一緒に……」
リアムはもじもじと下を向く。あれだけ来るなといわれていたのに、言いつけを破ってしまった自分が恥ずかしかった。
「ソイルはどこにいるんだい?」
「近くの村の宿で休んでいます」
「……送っていこう」
地形は把握していたフレイツは、迷いのない様子で森の中へ入っていく。リアムはその間も顔を上げられずにいた。
「野営地にはどうやって入ったんだい? 殿下が?」
「は、はい」
「示し合わせた訳でもないだろうに。どうやって会ったんだい?」
「湖に行ったらばったり会って……」
「湖? 森の中の?」
「はい。予知夢で見たんです。アレスが湖にいるところを。それで」
「だからといって、一人で宿を抜け出すなんてしちゃいけない。せめてソイルと一緒に来るべきだ」
本当にその通りだとリアムはますます縮こまった。そもそも、今のところリアムは周りに迷惑しかかけていない。疲れているアレスのベッドを占領し、フレイツに宿まで送らせる手間をかけさせ。
己の情けなさに、リアムは口数が少なくなっていく。
村まで到着する頃には、もうすっかり夜が明けていた。ちらほらと村人の姿が目視できる。その中にソイルもいた。リアムの姿を確認すると、慌てたように駆けつけてくる。
「リアム様! 今までどこにいらして――フレイツ様?」
リアムの後ろにいるフレイツの姿を目にすると、ソイルは素っ頓狂な顔になった。しかしそれは一瞬のことで、すぐに苦虫を噛み潰したような顔へと変化する。
「……お久しぶりです」
「久しぶりだな。まさかこんな所で会うとは思いも寄らなかったが」
「ええ、俺もです」
「よく言う」
フレイツは短く息を吐き出す。リアムとソイルは小さくなった。
「そもそも、わざわざ後を追わなくとも、これから殿下と一緒に領地に戻る予定だったのだが」
「それはどういうことですか?」
リアムの疑問を、ソイルはそのまま口にする。
「思っていた以上に兵の被害が酷くて、しばらく療養できる場所が必要なんだ。野営ではろくに疲れも取れまい。そう思って、しばらく屋敷を提供することにした」
「それは良い考えですね!」
ソイルはパッと笑みを浮かべ、リアムを見た。これで殿下に会えますね、と言わんばかりの表情だ。しかしその一方で、リアムは苦い顔になる。
――フレイツの言葉通り、無事な姿を確認したいからと、わざわざここまで来る必要はなかったのだ。そう考えると、途端に恥ずかしくなってきたリアム。顔を俯けたまま、クイッとソイルの裾を引っ張った。
「リアム様?」
「帰りましょう」
「――え?」
意図の分からない言葉に、ソイルは表情を崩した。
「どうしてですか? どうせ目的地は一緒なんですから、一緒に帰れば良いじゃないですか」
「いえ、やっぱりもう帰りましょう」
どんな顔をして会えば良いのか。大人しく待っていれば、どうせすぐ会えたのに。自分の無計画で突拍子もない行動力が気恥ずかしい。
「私、帰る準備してきますね」
「えっ――リアム様!」
宿の中に駆け込めば、宿の主人とかち合った。フライパンを片手に、主人は人の良さそうな笑みを浮かべる。
「おはようございます。朝の散歩でもしてらしたんですかい? お連れの方が探してましたよ」
「あ、おはようございます。さっき村の入り口で会えました」
「それは良かった。朝ご飯はどうします? 焼きたてのパンがありますよ」
「あ……」
たたらを踏み、リアムはしばし視線を迷わせる。
「食べている時間がないので、軽くつまめるものだけ頂いて良いですか?」
「それは構いませんが。でも、もう出発なさるんですか? せめて湖だけでも見て行かれたら」
「昨夜見ました!」
こうしてはいられないと、大きく返事をしながら、リアムは部屋に戻った。あまり荷物を持ってきていなかったおかげで、用意はすぐに整った。急ぎ足で外に出れば、丁度階段を上ろうとしていたソイルと鉢合わせる。
「本当にもう出発するんですか?」
「はい! アレスよりも早く戻りましょう! 先に厩舎に行っていますね」
「はあ……」
呆気にとられた様子で、ソイルはリアムを見送る。対するリアムは、宿屋から出た後、長いため息と共にその場にしゃがみ込んだ。
勝手なことを言っているのは分かっていたが、もうどうにも止められない。
でも――良かった。本当に良かった。たった数日でも、早くアレスの安否を確認できたことが何よりも嬉しい。
さんさんと輝く太陽を見上げ、リアムは眩しいばかりの笑みを見せた。