05:二人の秘密
街にはもう一泊して、翌朝街を出た。次の目的地は山裾の小さな村だ。そこに一泊し、川沿いに進み、海に面したアントワーズ領地――リアムがこれから住む街――に向かうのだ。
しかし、その日は朝から天候が芳しくなかった。今にも雨が降り出しそうな天気だったので、リアムとソイルは早めに街を出た。
前と同様、ソイルは御者台に座り、リアムは荷台に身体を預けていた。丁度ソイルとは背中合わせに座る形で、後ろへ後ろへと景色が進んでいく様をぼんやり眺めていた。時折思い出したように二人は話をするのだが、盛り上がることはない。二人とも、心ここにあらずといった様子なのだ。ソイルは今後の空模様が気になり、リアムの方は、昨夜もあまり眠れなかったので、体調が優れなかった。頭が重く、眠たいのに、だからといって本当に眠れるかどうかは話が別だ。
荷台の揺れに身を任せ、少しだけうつらうつらとし始めたとき、そんな彼女に意地悪するかのように、しとしとと雨が降り始めた。それほど大ぶりではないが、時折頬に落ちてくる雨が眠りを妨げる。
しかし、リアムは飴が嫌いではなかった。ずっと塔に籠もりきりで、風や日の光、そして雨ですら今の彼女には生きていることを実感させる重要な刺激の一つである。塔での生活が全てだった彼女は、こうして新たなものに出会う度、緩急のついた時間に驚かされる。
眠れはしないまでも、目を細めながら、空から雨が降ってくるのを眺めていたとき、いきなり頭上から黒いものが降ってきた。闇だ。突然真っ暗な闇が降ってきたのだ。
「いやっ!」
咄嗟に叫び声を上げ、リアムは両手を振り回した。状況が全く分からなかった。どうして突然辺りが闇に包まれたのか。
リアムの異変に気づき、ソイルは慌てて外套を取り上げた。寝ているのかと黙って己の外套を被せたのだが、それがかえって徒となるとは。
「すみません! 雨が降ってきたので、風邪を引かないようにと思ったのですが――。大丈夫ですか?」
ソイルは表情を曇らせ、リアムを覗き込んだ。今になってようやく思い出したのだ。アレスから何度も言及されていたことを。――リアムは、暗いところが苦手なのだと。
「はい。突然のことにびっくりしてしまっただけで、大丈夫です。私の方こそ驚かせてしまってすみません」
「いいえ! 俺の方こそ不躾なことをしてしまってすみませんでした。本当に大丈夫ですか?」
なおも気がかりな顔をするソイル。彼の様子を見て、もしかしてアレスから聞いていたのだろうかとリアムは思い当たった。だとすると、気を遣わせてしまってますます申し訳ない。
「本当に大丈夫です。外套はソイルさんが被ってください。ここには毛布もありますし、これで充分です」
「でも」
「私、雨に濡れるのそんなに嫌じゃないんです」
そう顔を綻ばせれば、もうソイルは何も言えない。渋々前を向き、また馬を走らせる。
雨は、なかなか止まなかった。それどころか、まだ日は沈んでいないはずなのに、黒い雲がすっかり太陽を覆ってしまった。暗雲が、これからの天候を物語っているようで、ソイルは一層速度を上げる。やがて、点々と民家が見えてきた。目的地の村にはまだほど遠いが、この辺りで妥協するしかないかと、ソイルは馬の速度を緩めた。
「ちょっとここで待っていてもらえますか?」
外套を頭に被り、ソイルはリアムと目を合わせた。
「この様子じゃ、大雨になるかもしれません。この辺りで泊めてもらえるような場所がないか聞いてきます」
「すみません、お願いします」
「すぐに戻ってきますから」
泥を跳ねさせながら、ソイルは目の前の民家に走って行った。畑が隣接しており、小さいが厩舎もある。裕福な家なのだろう。
穏やかだった雨が、いつの間にか叩き付けるような雨に変わっていた。リアムは毛布で身体を抱え込むようにして身体を温めていた。しばらくしてソイルが戻ってきた。もはや意味をなさないと判断したのか、彼は外套を小脇に抱えていた。
「宿はないそうですが、ここの離れに泊めてもらえるそうですよ」
「本当ですか?」
「はい、優しい人たちで良かった」
そのままソイルは御者台に上がり、厩舎の方へゆっくり進めた。荷台はそのままに、屋根の下に馬をとめると、隣接した家屋に身を滑り込ませる。
離れは、じっとりと湿気が籠もっていた。ソイルはきょろきょろと辺りを見回し、暖炉を見つけると、その前にしゃがみ込んだ。
「暖炉の火もつけて良いらしいですよ。つけますね」
散らかった部屋を手早く片付け、空間を作る。その慣れた手つきを、リアムはまごつきながら見ているだけだった。
リアムのための寝床を作ってから、ソイルはパンパンと手を叩いた。
「馬に飼い葉をあげてきますから、リアム様は、そのうちに服を乾かしておいてくださいね。入るときは声をかけますから」
「ありがとうございます」
ゆっくり閉まっていく扉を見届け、リアムは暖炉に向き直った。荷物を漁れば、着替えはすぐに見つかる。しかし、なんだか億劫で、着替えるやる気が出てこなかった。確かに今見に着けている服はぐちょぐちょで気持ちが悪い。しかし、着替えたところで、髪や身体が濡れていることには変わりない。リアムは結局、何もせずにぼうっと暖炉の火を見つめているのみだった。
「リアム様、入っても良いですか?」
「あ、はい!」
しばらくして、ソイルが声をかけた。リアムが慌てて返事をすれば、少々の間をおいてソイルが離れに入ってくる。
「できたてのスープを頂きました。一緒に食べましょう」
ソイルは小さな鍋を抱えていた。すぐに部屋中にスープの香りが漂ってくる。
「良い匂いですね」
「畑で取れたオニオンスープらしいですよ」
リアムは差し出されたスープ皿を受け取った。陶器越しにじんわりと温かさが伝わってくる。
「おいしい」
「身体が温まりますね」
「本当に。あっ、ソイルさん着替えますか? 私、着替えが終わるまで外に出ていましょうか?」
「いいえ、とんでもない! こんな雨の中また外に出たら風邪引きますよ。それに、どうせ暖炉の火ですぐに乾きますからいいんです。それよりも、リアム様の方こそ着替えなかったんですか?」
「……なんだか面倒で」
苦笑してリアムが答えれば、ソイルは目を丸くし、一瞬の間をおいて噴き出した。
「気持ちは分かりますが。でも風邪には本当に気をつけてくださいよ。殿下にもきつく言われてるんです。空調の効いた部屋で長年暮らしていたせいで、リアム様は自分の身体が強いんだと勘違いされてるって。外に出たときにその思い違いを存分に味わうことになるだろうから、気をつけておいて欲しいって」
「アレスがそんなことを?」
リアムはむっと唇を尖らせた。まるで分かったようなことを言っているので、なんだか釈然としない。
「はい。でもすごいですね。風邪を引いたのも、ここ数年で一度きりだとか。本当なんですか?」
「はい。その風邪も、本当のところ、アレスに移されたようなものなんです」
リアムは得意げに胸を張った。アレスがなんと言おうと、リアムは自分の体調に自信があった。風邪なんて引いてしまえば、予知夢どころではなくなるため、神官達も必要以上に心配していたのがリアムの体調だった。
だからこそ、初めてリアムが風邪を引いたときは大混乱だったことを覚えている。普段は王族しか看ない医師を連れてきたり、珍しい果物を食べさせてもらったり。
この日ばかりは、アレスも意地悪なことを言わず、優しかった。熱と吐き気でなかなか眠れないリアムに対し、読み聞かせをしてくれたのだ。その時は分からなかったが、彼が持ってきたのは子供用の本で、内容も年端もいかない少女が好むようなものだ。確か、王子と庶民の娘が恋をする物語で、二人の仲を邪魔する魔女が出てきたような気がする。
リアムは、幼少の頃より一切の物語を制限されていた。絵本や小説などは、予知夢を遠ざけ、何の意味もなさない夢に影響する事が多いのだ。
だからこそ、初めて聞く物語に、リアムはいつしか吐き気も忘れ、一心に物語に聞き入っていた。読み聞かせが終わった後は、睡眠薬がなくてもいつもよりぐっすり眠れたし、それどころか、何年ぶりかという夢も見た。内容はもちろん寝る前に読み聞かせしてもらった物語と酷似したもので、リアムは魔女として、そしてアレスは、少女という役回りで登場した。顔も体つきも男の子に違いないのに、なぜか周囲に女の子として扱われている光景は、目が覚めてからしばらく、リアムに息ができなくなるほどの笑いを与えてくれた。その話を生き生きとアレスに伝えたときの顔も、今思い返してみても、おかしくて仕方がない。
ふっとリアムは口元を緩めた。あの頃が懐かしかった。自由を知らずに、でも充分幸せだと感じていたあの頃。
*****
食事が終わった後は、二人は早々に寝床に身を横たえた。長旅の疲労で知らず知らず身体も疲れていたのだ。
相変わらず外は雨が降り続いていて、止みそうな気配はまだない。雨の音が邪魔で……というわけではないが、リアムは今日も眠れなかった。目を瞑る努力もせずに、すぐ側の暖炉や天井、調度品を、寝返りを打ちながら観察する。
「眠れないんですか?」
仄かに明るい向こう側から突然声が発され、リアムはピクリと肩を揺らす。僅かに顔を動かし、向こう側を見てみれば、気遣わしげな表情でソイルがこちらを見つめていた。
「身体の具合が悪いとか?」
「いいえ、ただちょっと眠れないだけです。よくあることなので、気になさらないでください」
「……余計なお世話でなければ」
ソイルは躊躇いがちに身体を起こした。
「殿下からお伺いしていたのですが、リアム様は、誰かに手を握られるとよく眠れるらしいですね? もしリアム様が良ければ、俺が手を握りましょうか?」
「――えっ? あっ」
一瞬の沈黙の後、リアムはようやく理解した。
カーッと熱が顔に集まるのを感じる。なぜ、どうして知っているのか。手を握る。誰が? ソイルさんが。
「いえっ、大丈夫です!」
瞬時にリアムはそう答えていた。彼の顔が見られない。しかし、彼が面食らっているのは容易に想像がついた。
「でも、眠れないのは辛いでしょう?」
「本当に大丈夫です。ソイルさんに悪いですし」
「俺は別に気にしませんが」
「私が気にするんです……」
蚊の鳴くような声で言うと、リアムは毛布を首もとまで被り、背を向けた。
――恥ずかしかったし、哀しかった。二人だけの秘密が、秘密じゃなくなったようで。
塔で暮らしていた頃、睡眠薬は身体に良くないからと、たびたびアレスに制限されていた。とはいえ、睡眠薬がなければ、リアムは全く眠ることができなくなってしまう。そんなとき、彼に手を握ってもらえば、不思議とよく眠れることがあったのだ。誰かがすぐ側にいてくれているという安心感からか、それともそれ以外の要因があるのか。――それは、リアム自身が一番よく分かっていた。
彼の訪れを心待ちにしている自分が、彼と話していると自然と緩む頬が、彼の笑顔にざわめく心が、唯一の女の子らしい我が儘を口にしてしまうのだ。眠れないから手を握って、と。
雨が屋根に叩き付ける音が、まるで子守歌のようだった。普通の人ならば、眠りの妨げになってしまうであろう雨が、リアムにとっては心地よい。
リアムは、世界にたった一人きりのように感じてしまう状況が嫌いなのだ。暗闇、静寂、誰の気配もしない部屋。だからこそ、リアムは今の空間の方がずっと居心地良かった。同じ部屋にソイルの寝息が聞こえ、雨の音がし、暖炉の日が周りを照らし。
――今日は幸せな夢を見られるだろうか。
リアムは、重たくなる瞼と共に、そんなことを考えて眠りに落ちた。