04:慣れない刺激


 眠れぬまま夜を明かすのは初めてのことかもしれない。予知夢を見るべきリアムにとって、不眠は大敵で、薬を飲んでまでも眠らなければならないのだから。
 とはいえ、アレスによって解放された今の彼女に、その義務はない。それでも、長年染みついた「眠らなければ」という強迫観念はリアムに纏わり付いて薄れることはない。生理現象として自然に訪れるはずの睡眠は、リアムにとっては苦痛でしかないのだ。
 とっくの昔に眠ることを諦め、リアムは窓辺に立って市井の様子を眺めていた。民衆の暮らしぶりを眺めることは久しくなかったし、そもそも塔から見る景色とは大違いで、人も建物も遙かに大きく見え、何もかもが物珍しかったのだ。目を細めれば、人々の表情までうかがい知ることができ、見ていて飽きることがなかった。
 しばらくそんな風にして時間を過ごしていると、やがてノックの音が響いた。すぐにソイルだと見当をつけ、リアムはドアを開けた。

「おはようございます。昨日はよく眠れましたか?」

 予想に違わず、そこにはソイルがにこやかに立っていた。しかし、リアムを見るなり、その顔はみるみる困ったような表情へと変化する。

「……眠れなかったんですか? 随分顔色が悪いようですが」
「慣れないベッドだったので、眠りが浅かっただけです。お気になさらないでください」
「そうですか?」

 なおも心配そうに窺うので、リアムは微笑んで見せた。

「いつものことなので、本当に大丈夫です」
「分かりました。じゃあ、下に行きましょうか。朝食を食べましょう」

 二人は揃って階下へ降り、食堂へ向かった。
 宿に泊まる者は、総じて夜遅くまで酒を飲み、そして朝はゆっくりしている者が多いのか、昨夜の喧噪とは打って変わって階下は静かだった。リアム達は悠々と朝食をとることができ、何なら宿の主人と軽く会話もできたほどだ。お茶を飲んで一息ついた頃、ソイルがそわそわした様子でリアムを見る。

「どこか行きたいところはありますか? この街、初めてでしょう?」
「でも、急がなくて大丈夫なんですか?」
「余裕を持って到着の日は伝えてありますので、大丈夫ですよ。むしろ、早く着きすぎたらリアム様をお迎えする準備が整っていないかもしれないので」

 一旦間をおき、期待を込めた目でソイルはリアムを見つめた。

「どうです? 気分転換に」
「私は……えっと、お願いします」
「良かった!」

 喜色満面でソイルは立ち上がった。

「じゃあ準備をしたらすぐに行きましょうか。今の時間なら、まだ人も少ないはずですよ」
「あ、はい」

 ソイルの勢いに押されるように、リアムは慌てて部屋へ向かった。大してない荷物から身支度を調え、すぐに外に出る。

「どこか行きたいところは? 劇場に動物園、植物園もありますよ」
「いろいろあるんですね」
「そうなんですよ。城に近いから、結構賑わっていて。あ、買い物はどうですか? 殿下からお伺いしましたが、服もそれほど持ってらっしゃらないとか。新しい服はいかがですか?」
「服、ですか……」

 リアムは困った顔で自分の様相を見下ろした。同じ服ばかり着ていたためか、新しい服と言われても想像がつかない。「自分のもの」がほとんどなかったため、物欲もないに等しいのだ。

「でも、この服が一番着慣れていて動きやすいので、これで充分です。お心遣いありがとうございます」

 リアムは笑顔でソイルを見返す。
 気を遣ってくれているのは分かっていた。素直に甘えられたらどんなに良いだろうとは思うが、彼女の身の上と性格上、それはやはり難しいのだ。

「では、何か食べたいものは? お菓子とか」
「今食べたばかりでお腹いっぱいで……」
「あっ、失礼しました。それはそうですよね」

 途方に暮れたようにソイルは空を見上げる。リアムはリアムで、難しい顔で頭を悩ませた。何か一つくらい欲しいものを挙げなければ、折角のソイルの厚意を無駄にすることになる。
 どうしたものかと視線を巡らせる中、リアムは一筋の希望を見つけた。パッと喜色を露わに、そのものへ向け指を指す。

「あそこに行きたいです」
「あそこは……劇場ですね!」

 豪華絢爛な建物の前に、人々の列がずらりと並んでいる。まだ時間としては早いのにこれだけ並んでいるということは、おそらくそれだけ人気なのだろう。

「劇場って、物語をやるんですよね?」
「そうです。確か、今は丁度女性に人気の悲恋をやってるんですよ。結構評判が良いそうで」
「悲恋?」
「はい。とりあえず行ってみましょう」

 急に元気になったソイルに背を押され、リアムは戸惑いがちに劇場へと向かった。自分で言い出したはいいが、今更ながら気後れしてしまったのだ。こんな見るからに高級そうな場所に自分なんかが行っていいものか、と。
 しばらく列に並んだ後、開場したのか、ぞろぞろと列が動き出した。前に倣ってゆっくり歩みを進める。
 チケット売り場では、ソイルが慣れた手つきで二枚入手した。チケットを片手に劇場の中に入り、席に着けば、いよいよ物語が始まる。
 劇は、長くもあり短くもあった。その間、リアムはずっと手を握りしめ、緊張の面持ちで観覧していた。初めて聞く物語に、熱の籠もった演技をする主演達。加えて雰囲気を盛り上がる演奏に、息をのむような演出の数々。リアムはすっかり物語に引き込まれ――そして、泣き出してしまった。
 今まで、リアムは物語というものに触れる機会がほとんどなかった。小説を読む暇などなかったし、幼少期の読み聞かせというものもなかった。物語に影響され、予知夢ではなく単なる夢を見るのを防ぐためだ。
 そのため、自分ではない他人の刺激的な人生を目の前で繰り広げられ、感極まってしまったのだ。おまけに、劇自体は悲恋を主題にしたもの。切ない最期に、思わずほろりとしてしまうのも無理はない。
 劇が終わった後も、リアムはしばらくその場から動くことができなかった。

「そんなに悲しい話でしたか?」

 ソイルは戸惑ったように周りをチラチラ見た。他の観客を見たところ、リアムほど感極まった者はほとんどいない。ソイルにしても、確かに物語だけを見ると悲しくなってくるような内容だが、終始明るい調子で進んでいたので、それほど悲観的にはならなかった。むしろ、所々にある笑いどころの方が印象的で、涙など吹き飛んでしまう。
 だからこそ、観客の中で唯一泣いているリアムのことが不思議でならない。

「ハンカチをどうぞ」
「あ、ありがとうございます」

 赤く泣きはらしているのが不憫で、ソイルはハンカチを差し出した。リアムは嗚咽交じりに礼を述べる。

「とりあえず外に出ましょうか。また新たに観客が入ってきますから」
「はい……」

 ソイルに背中を押され、リアムはゆっくりと劇場の外に出た。明るいところに出れば涙も収まるかと思ったが、ふとした拍子に劇の最期を思い出して、また涙腺が緩んでしまう。

「うう……」
「お願いですから、どうか泣き止んでください」
「ご、ごめんなさい。でも止まらなくて」

 周りに興味深げに見られていることは気づいていた。が、それでも落涙は止まらない。公園まで歩いてきて、二人はベンチに腰掛けた。時は丁度お昼頃で、公園には多数の露店が並んでいる。リアム達が腰掛けるベンチの隣にももちろん壮年の店主が座り込んでいる。

「痴話喧嘩かい?」
「いえ、そういうのではないんですけど……」

 ソイルは困ったように首を振る。
 喧嘩ではないし、そもそも男女の関係ですらない。しかし、傍から見ればそんな風に見えても仕方がない。

「どうだい、仲直りに髪飾りを買ってあげるっていうのは」

 店主は得意そうに両手を広げた。その先には、多種多様な女性用の髪飾りが並んでいる。ソイルは目を瞬かせ……思わず苦笑を漏らした。

「商売上手ですね」
「そうじゃないと二十年もやってられんよ」

 店主は肩をすくめてみせた。

「で、どうだい。どうせならお前さんが選んでおやり」
「俺が?」

 ソイルは大きく目を見開いた。もしかしたら、リアムが泣き始めたときよりも困った顔をしているかもしれない。
 しかし、泣き止んで欲しいのは事実だ。アレスから頼まれたリアムのことを喜ばせたいというのも。
 ソイルは立ち上がり、難しい顔で髪飾りを見下ろした。女性の好みにはてんで疎いのは、自分でも分かっていた。だからこそ、一生懸命吟味するのだ。
 髪飾りは、ガラス製のティアラのようなものもあれば、木製の棒のような形状のものもある。ソイルは、単純だが、一番キラキラしているガラス製の髪飾りを手に取った。

「リアム様、これはいかがですか?」
「え?」

 ハンカチに顔を埋め、先の物語を反芻していたリアムは、当惑しながら顔を上げた。

「これです。可愛いですよね?」
「はい、可愛いですね」
「どうですか?」
「どうって?」

 リアムはきょとんとしてソイルを見返す。先の彼と店主の会話は全く耳に入っていなかったのだ。

「リアム様にどうかと思ったのですが。いかがですか?」
「私にですか?」

 目をぱちくりさせて、リアムは改めて手渡された髪飾りを見下ろす。
 ガラス製の花がいくつも連なったもので、形状は櫛に似ている。しかし、長らく髪飾りに無頓着だったリアムには、その用法が思い当たらない。形が櫛に似ているからといって、まさか櫛として用いるわけではあるまい。となると、どうやって髪に飾るというのか。

「……これ、どうやってつけるんですか?」

 リアムは純粋な疑問をそのまま口にすした。幸か不幸か、恥じらいなどなかった。

「そのまま挿したら落ちますよね? 髪を結ってから挿すんですか?」
「どうって……」

 ソイルは口ごもった。女性なら、髪飾りくらいはつけたことがあると思っていたのだ。まさか飾り方を聞かれるとは思いもよらない。

「どう、つけるんでしょう」

 リアムとソイルは、揃って店主を見つめた。二人の円らな瞳に、店主はグッと詰まる。

「……お、俺もよくは知らないが、髪を結い上げた上で、上から挿すらしい」
「落ちないんですか?」
「しっかり挿したら落ちないんじゃないか?」
「いい加減ですね」

 ソイルは呆れたようにため息をついた。しかし、髪飾りから手は離そうとしない。

「でも、これ気に入ったので買います。リアム様、これでいいですか?」
「え? あの、可愛いとは思いますが、いいんですか?」
「いいんですよ。殿――アレス様のお金ですから、自由に使っても」

 ソイルは何てことない表情で肩をすくめた。

「使い方は、エイミー様にお伺いしましょう。見よう見まねでやってみて壊れてしまってはいけないですから」
「はい。本当にありがとうございます。大切にしますね」
「お礼はアレス様におっしゃってください。別れ際まで随分気にされていたようですから」
「アレスが? 私を?」

 リアムは意外そうに聞き返した。

「はい、もちろんですよ。これからのことを心配されていました」
「……でも、どちらにせよもう会えないんじゃないかしら。アレスと私の接点はなくなったから」

 本来ならば、アレスは一介の少女の手が届くような人ではない。面と向かって話すどころか、姿を見ることすら適わない立場の者なのだ。貴族社会に身を投じることになれば、その序列に否応なく左右されることになるだろう。
 リアムは初めて見せる憂いのある表情を見せた。ソイルは戸惑い、必死に頭を巡らせる。

「あっ、では、何か言伝でもあればおっしゃってください。定期的に殿下に報告書を提出するよう言われているんです。その時にリアム様の手紙もいれることができますよ」
「お気遣い感謝します。でも……それについては大丈夫です」

 リアムは眉を下げて微笑んだ。リアムは読み書きができない。それに、今更手紙で何を言えというのか。
 助けてくれてありがとう? 元気にしていますか?
 リアムが言いたいのは、そんなことではない。まして、手紙で表現できるようなことでもないのだ。
 すっかり大人しくなってしまったリアムを見て、ソイルは手のひらを握りしめた。改めて己の使命を身に染みて実感したのだ。釣られて沈んだ顔になってしまうのを堪え、無理に笑みを浮かべる。

「気分を入れ替えて、どこかに行きましょう。あ、でもそろそろお昼ですね。何か食べたいものはありますか?」
「食べたいもの、ですか?」
「お腹空いたでしょう?」
「そういえば……」

 リアムはお腹に手を当てた。朝食を食べてから随分時間が経っていたので、それなりにお腹は空いていた。

「露店を見て歩きましょう。良い天気ですから、食べ歩きも良いですよ」
「はい」

 丁度昼頃ということもあってか、市場は多くの人でごった返している。旅人がちょっとした食べ物をつまむには丁度良く、様々な露店が建ち並んでいる。そんな中、だんだんソイルもリアムの性格を心得てきたようで、彼女の了承を得ることなく、あれやこれや彼女に食べ物や服、小物を買い与えることが多くなっていた。そんなことをしているうちに、リアムの両手は次第に塞がっていく。ねだることが苦手な彼女は、断ることもまた、苦手なのだ。

「あの、ソイルさん」

 すっかり日が暮れ、そろそろ宿に帰ろうかという時、ようやくリアムは機会を見つけ、ソイルに声をかけた。

「はい、何でしょう?」
「今日は本当にありがとうございました。私のために、色々な場所に連れて行ってくださって」

 リアムは深く深く頭を下げた。ソイルは慌てて両手を振る。

「いいえ、お礼を言われるようなことはしていませんよ。さっも言いましたが、お礼は殿下に。リアム様のことをくれぐれもよろしく頼むと頼まれましたから」
「それでも嬉しいんです。本当にありがとうございます」

 自分のために心を砕いてくれる人がいるというのは、本当に嬉しいことだ。それが誰かに頼まれたことであったとしても、同じこと。

「それなら良かったです。そう言って頂けて、俺も嬉しいです」

 ソイルは目を細めてはにかんだ。思いが通じたようで、リアムも嬉しくなって、同じように笑みを返した。