03:自由の身


 優しい温かい手が、リアムの左手に触れていた。少しゴツゴツしていて、しかし繊細で細長いその手はいつものだと、無意識にそう判断を下していた。
 その手は、リアムの手、額、頬に順々に触れていった。くすぐったくて、彼女は反射的に身をよじる。驚いたように手が離れるのを感じた。
『リアム』
 膝の裏に腕が差し込まれ、次の瞬間、リアムは浮遊感を味わった。重力に反して宙を漂っている己の身体は、安定してはいるが、それでも覚束ない。ふわふわとした意識の中、リアムは薄ら目を開けた。
『そのまま寝ていろ』
 光が眩しくて、顔は分からない。だが、もう何度も耳にしたその声は、誰よりも安心感のあるそれだった。
 アレスの穏やかな声に、リアムはすっかり気を許して、再び深い眠りについた。


*****


 異変に気づいたのは、夢のせいだった。始めの頃は何か予知夢を見ていたような気がするのに、途中からただの夢に変わっていたのだ。そのことに関しては、本当に珍しいことだった。リアムの生活は刺激が少なく、そのためただの夢を見たことなど数えるほどしかなかったのに、意地悪な顔をしたアレスに抱えられたまま、何度も塔の階段を上り下りされる夢を見たのは、絶対にリアムだけの責任ではないはず。
 夢の次の異変は、身体への衝撃だった。ガタガタと不定期に訪れる大きな物音と、それに伴う身体の節々への痛み。寝転がっているせいか、余計に身体全体へ痛みが広がる。リアムが目を覚ますのも半ば当然だった。
 目を開けてすぐ視界に飛び込んできたのは、青い空だった。白い雲が左から右へ移っていくのをぼんやり眺めているうち、次第に頭が覚醒する。リアムはハッと身を起こしたが、その瞬間めまいを起こし、またすぐに身体を横たえる。寝起きの直後だったので、リアムはしばらく動くことができなかった。
 しばらくして、ようやく頭もしっかりしてきたところで、リアムは再度身体を起こした。なにが何だか分からないまま、辺りを見回す。
 リアムは、荷車の台に横になっていたようだった。そしてその荷車を操っているのは、一人の青年。

「あ、あの……」
「うわっ!」

 極力控えめに声をかけたつもりだったが、リアムの声は、青年を驚かすには充分だったらしい。あわあわと手綱を握り直し、驚いた顔で振り返る。

「えっと、その、おはようございます」
「おはようございます……?」

 はにかむ青年に悪い印象は抱かなかったが、その顔に見覚えはない。リアムはますます不安になった。

「ここはどこですか?」
「オーラン街道です。もうすぐ隣町に着きますよ」
「はあ」
「悪路ですから、寝にくいでしょう。そこにある毛布は全使って頂いて大丈夫ですよ。ゆっくり休んでください」

 それだけ言うと、青年は再び前を向いた。あまり整備されていない街道を荷車で越えるには、なかなかに苦労を伴うのだ。リアムは申し訳なく思いながらも、再度彼に声をかけた。

「あなたは一体……?」
「ああ、すみません。自己紹介が遅れましたね!」

 青年は明るい声を上げた。

「俺はソイル。アレス殿下の従者をやっていました」
「アレスの?」

 自己紹介をされても、やはりリアムには覚えがなかった。それどころか、余計に分からないことが増えていくばかりだ。リアムは居住まいを正した。

「すみません、何が何だか分からなくて。私はどうしてここにいるんですか? アレスは? アレスは近くにいるんですか?」
「何も――聞いてらっしゃらないんですか?」

 きょとんとした顔でソイルが振り返る。リアムは余計に焦燥感に駆られた。

「何を……?」
「聖女様――あなたは、今から自由の身になれるんです。殿下がそのために尽力してくださったんですよ」
「えっ……?」
「今頃神殿は大騒ぎですよ。あなたの姿が見えないのはもちろんのこと、殿下が神殿を糾弾したんです。殿下は、神殿の今までの悪事を白日の下に晒し、その権威を奪おうとしてるんです」
「悪事って、神殿は何か悪いことをしていたんですか?」
「あ……ええっと、いろいろとあったんです」

 ソイルは、あからさまに話を逸らした。もっと詳しい話を聞きたかったが、しかしそれ以上に気になることがあった。

「アレスは大丈夫なんですか? 私を逃がして、何か言われるんじゃ」
「神殿はあなたの存在を周りにひた隠しにしていましたから、まずそのことが露呈することはないかと。殿下は、神殿の上層部を完全に口封じするおつもりですし、追われの身になる心配もありませんよ」
「神殿に楯突いて大丈夫なんですか? それに、私の予知夢がなかったら、戦争だって」
「リアム様」

 宥めるようにソイルは声を落とした。リアムは思わず口をつぐむ。

「殿下は、先の先まで考えてらっしゃるお方です。思いつきで行動はされませんよ。ご安心を」
「――私に手紙はないのですか?」
「手紙?」
「アレスから……」

 尻すぼみにリアムの声が途切れる。ソイルは眉を下げた。

「すみません、お預かりしていないんです」
「言づても?」
「はい」

 リアムは小さく嘆息した。もしかしたら、これが永遠の別れになるかもしれないのに、あの人は何の言葉も残してくれなかったのか。
 彼の性格を思えば、それも納得だ。しかし、それでも釈然としない。良かれと思って、ただ一方的に連れ出された自分の気持ちはどうなるのが。せめてお別れでもと胸が締め付けられるこの想いの行き場はどこなのか。

「――私は、これから先どうなるんですか?」

 溢れる感情に蓋をし、リアムは機械的に尋ねた。ソイルは前を向いたまま答える。

「アントワーズ男爵家の養女になられるんです。先の戦争で武勲を立てたお方で、殿下とも懇意になさっていたんです。とても気さくで、優しいご夫婦ですよ。リアム様もすぐに仲良くなれるかと」

 ソイルは流れるように続けた。

「殿下から、いくらかお金も頂いているんです。折角自由の身になったんだから、欲しいものは全て買えと申しつかっています。ですから、何か欲しいもの、やりたいことがあったら、遠慮なくおっしゃってくださいね」
「……はい」

 リアムは、ようやくそれだけ返事をした。力のない声なのは、リアムが疲れているからだとソイルは判断し、それからはもう彼は話しかけなかった。リアムは空を見上げながら、ぼんやり思考に浸っていた。
 ――自由の、身。
 そう言われても、リアムには実感が湧かなかった。自由の身になることを夢想したことは、今までほとんどなかった。物心がついたときから神殿で暮らしていたし、外に出ず、部屋にいることが常だった。その暮らしは王城の塔に移ってからも同じで、自分が外に出られるなんて思いも寄らなかった。塔を降り、あの小さな庭を散策するだけで、自分には過ぎた行為だと思っていた。
 睡眠と食事と湯浴み、そして少々のアレスとの会話。
 それがリアムの日常だったのに、これからは全てが自由になるのか。しかしリアムには分かっていた。全てが自由になっても、そこにアレスただ一人はいないのだということを。彼はもう、リアムの日常に溶け込むことは決してない。
 途中で休憩を取りつつ、夕日が傾き始めた頃には、街にたどり着くことができた。広い車道を荷車のまま押し進め、大きな宿の前で停止する。

「少しここで待っていただけますか? 空きがあるか見てきます」

 宿の中へ入っていくソイルを見送り、リアムは荷車の中で辺りを見渡す。
 初めて見る外の世界は、物珍しさで溢れていた。一度にたくさんの人を見るのは初めてのことだったし、人それぞれ着ている服が皆違うのも興味深かった。足早に歩き、気が向くままに話し、いろんな荷物を持ち。
 そこにあったのは、民衆の日常だった。自分の感覚が人と違うのは重々承知していたので、自分も同じようにこの中に溶け込むことができるのか、リアムは非常に心配だった。
 目まぐるしく変わっていく光景に、いつしかリアムが疲れを感じ始めた頃、ソイルは戻ってきた。

「リアム様、お待たせしました。二つ部屋が取れましたよ。夕食は下で一緒にとりましょう。降りれますか?」
「あっ、はい」

 多少ふらつきながらも、リアムはゆっくり荷車から降りる。荷車は店員が引き受け、二人は宿の中へ入っていく。
 まだ夕方だというのに、中は随分賑わっていた。ソイルは人の波をかき分け、リアムは彼の後を精一杯追いながら、何とか奥のテーブルを確保する。
 ソイルは、すぐに慣れた様子で料理を注文していった。手持ち無沙汰なまま、リアムはその様を眺める。

「何か食べたいものはありますか?」

 不意にソイルがリアムにメニュー表を差し出した。リアムはそれにしばらく目を通したが、やがて困ったように笑い返した。

「よく分からないので、お任せします」
「分かりました。じゃあ一緒に食べましょう」

 ソイルは微笑み、メニュー表をテーブルに置いた。
 料理はすぐにやってきた。混み具合に反して、料理を注文しようとする者は少なく、実際は飲んだり話したりする者の方が多いようだ。
 しかし、二皿も食べないうちに、リアムの手を止まる。ソイルはすぐに顔を上げた。

「もう食べないんですか?」
「あまり食欲がなくて」

 折角目の前にたくさんの料理が並んでいるのだが、リアムのお腹が減ることはなかった。あまりに大勢の人、酒の臭い、そして慣れない環境に酔ってしまったというのも大きい。

「じゃあもう部屋に行きましょうか」
「でも、ソイルさんはまだ途中ですよね? 待ちますから、ゆっくり食べてください」
「いえ、俺もそれほどお腹は空いてないんですよ。悪路に酔ってしまったみたいで」
「……すみません」
「リアム様が謝ることでは」

 柔らかく微笑み、ソイルは首を振る。それでもリアムは身体を縮こまらせた。
 食事が済むと、二人は二階の部屋へ向かった。突き当たりまでリアムを誘導したところで、ソイルは振り返る。

「ここがリアム様のお部屋です。俺は隣の部屋にいますから、何かあったら呼んでくださいね」
「はい、今日はありがとうございました。お休みなさい」
「とんでもありません。お休みなさい」

 小さく会釈をして、リアムは部屋に引っ込んだ。部屋に入って彼女が一番にしたのは、部屋の明かりを点すこと。日が短くなるにつれ、太陽が沈むのも随分速くなってしまった。その分、夜になるのも早く、街に到着したのは夕方だったというのに、今ではもうすっかり夜も更けていた。小さな窓から、わずかに月明かりが差し込んでいるが、たったそれだけでは落ち着かない。
 リアムは暗い場所が苦手だった。幼い頃はまだそれほどでもなかったが、大きくなるにつれ、眠ること――視界が閉ざされることに恐怖を抱くようになった。起きている時間よりも、眠っている時間の方が圧倒的に長いから、いつか眠ったまま死んでしまうのではないか。そう思うと、眠ることも、暗い場所にいることも、そのどちらも苦手になってしまったのだ。
 服を着替え、リアムはとりあえずベッドに横になるが……眠れない。薬がないせいもあるだろう。薬を飲まずに寝たことなど、遙か昔のことだ。いつしか薬によって強制的に眠らせられるようになってからは、睡眠は義務になっていた。
 何度も寝返りを繰り返しながらも、結局その日、リアムは一睡もすることができなかった。