02:分かれ道


 その日アレスがリアムの部屋を訪れたのは、まだ朝日が昇ったばかりの明け方だった。昨夜夜遅くにベッドに横になった彼は、睡眠薬を口にしたが、眠りは浅く、すぐに目覚めてしまったのだ。身体全体が怠く、頭痛が酷い。しかしそれでも政務をしないわけにはいかず、せめて気分を入れ替えるために、リアムの部屋に向かった。彼女の安らかな寝顔を見ていると、不思議と心穏やかになれる。彼女が起きているともっと良い。どちらにせよ、リアムの部屋を訪れるときが、唯一アレスの日常に訪れる平穏だった。
 リアムの扉に常駐している護衛を横目に、軽く扉をノックする。返事は、意外なほど早く返ってきた。

「どうぞ。起きています」
「入るぞ」

 アレスは重たい扉を押し開いた。薄暗い廊下よりも眩しい部屋の照明が、一番に目に飛び込んでくる。目を細めながらすぐにベッドに目を向けたアレスだったが、そこにリアムの姿はない。
 ゆっくり部屋を見渡せば、リアムは意外なところにいた。思わずアレスが目を丸くすると、リアムはおかしそうに口元を緩める。

「なに? その顔。何か言いたそうね」
「動いて大丈夫なのか?」
「私がどれだけ病弱だって思ってるの? 部屋の中くらい歩き回れるわよ」

 リアムは、部屋に唯一設けられている窓の前に立っていた。ガラス窓を大きく開き、朝の清々しい空気を一身に浴びている。

「今日は予知夢もうまくいったし、調子が良いの」
「散歩でもするか」

 ポツリと呟かれた言葉に、リアムは目を瞬かせた。反射的にアレスを見つめる。

「いいの?」
「何がだ?」
「私が……散歩なんて。いい顔されないんじゃないかって」
「散歩くらいなんだ。それくらいで文句を言われる筋合いはないだろ。もしかして、ずっと我慢してたのか?」
「そ、そういう訳じゃないけど……」

 リアムは口ごもる。この塔に移されてから、神官達は自分を幽閉したいのだろうと、そうなんとなく思っていた。外を出歩けば、それだけ聖女たるリアムの存在が漏れるし、また、外の世界へ余計な憧れを持って欲しくないのではないかと薄ら想像していた。それがただの思い過ごしだとしたら――。
 信じられない思いでリアムが立ちすくんでいると、気をもんだアレスが先に動いた。勝手にリアムの衣装ダンスを開け、中を物色する。

「……外は少し肌寒いかもしれないから……と思ったが、碌なものがないな。全部同じ服じゃないか」
「ここは室温が調節されているから、厚着も薄着もする必要がないのよ」

 だから余計に、外へ出る機会を失ってしまったのだ。

「仕方ないな。これでも羽織れ」

 アレスは手早くジャケットを脱ぎ、リアムに手渡す。戸惑いながらも、彼女はそれに袖を通す。

「ここまでしなくても大丈夫だと思うんだけど」
「外に出ても同じ事が言えるか楽しみだな」

 リアムの肩を抱き、アレスは扉へと導いた。自然、リアムの顔は緊張で強ばる。
 扉を開けると、いつものように護衛は二人、扉の端と端に立っていた。二人はリアム達の姿を目にすると、虚を衝かれたように言葉を失った。

「で、殿下っ――と、聖女様!」

 耳元で騒がれ、アレスは少しだけ眉を寄せる。

「少し外を散歩してくる」
「しかし、聖女様は――」
「何か文句でもあるのか?」

 自分たちに注がれる冷ややかな視線に、護衛兵は血の気を失った。口を真一文字に結び、ただ黙って頭を下げる。
 彼らの姿が見えなくなってから、リアムは小さくため息をついた。

「やっぱり、外に出ない方が良かったみたい」
「気にするな」

 アレスは短く返答する。

「それよりも、しっかり捕まっておけよ」
「えっ」

 なにが何だか分からないまま、リアムの身体は突然宙に浮いた。気がついたときには、アレスの顔が随分近くにあった。

「な、なに……?」
「まだ本調子じゃないだろ? この長い階段を降りるには危険だ」
「確かに……。でも、こっちの方が怖いわ」

 見下ろす先には、果てしない螺旋階段。確かにろくに運動もしたことのないリアムにとって、この段数はきついものがある。しかし、それでも抱えられたまま降りる恐怖の方がずっと勝る。
 制止の声を上げようとしたリアムだったが、一瞬遅く、アレスが階段を一段降りる。リアムは小さく悲鳴を上げた。

「戻って! お願い戻って! やっぱり外には行かない!」
「ここまで来て何を言ってるんだ。このくらい訳ないだろ」
「無理よ無理!」

 それ以上階下を見る勇気はなく、リアムはアレスにしっかり抱きついたまま、ギュッと目を瞑った。

「絶対に落とさないでね……」
「無論だ」

 永遠にも思えるその時間は、なかなか終わらなかった。気を利かせて話でもしてくれたら良いのにとリアムが思うくらいには、アレスは静かだ。とはいえ、彼が寡黙なのはいつものことなのだが。

「ほら、もう階段は終わったぞ」

 からかうようにアレスは腕を揺らした。リアムは目を瞑ったまま唇を尖らせる。

「……アレスなんて嫌い」
「嫌いで結構。それよりも、折角外に出たのに、何もせずに帰るつもりか? 俺は別にこのまままた塔を登っても良いが」
「……降りる」

 すっかり拗ねた口調で、リアムはそれだけ言った。アレスは笑みを堪え、リアムをゆっくり地面に下ろす。言動とは裏腹に、慎重な手つきだ。
 地面に両の足がついてようやく、リアムは人心地ついた。ついで、思い出したように顔を上げる。真っ青な空と、白く輝く太陽が目に飛び込んできた。

「眩しい……」
「あまり直視するな。目を痛めるぞ」

 上からアレスの右手が降ってきて、リアム専用の日よけを作る。

「外に出たのは久しぶりだわ。こんなに気持ちよかったのね」

 清涼感ある朝の空気は、とてもおいしかった。胸いっぱいに取り込んだ空気を吐き出すのがもったいないほどに。

「これからはもっと外に出れば良い。階段が怖ければ俺が抱えてやる」
「それはちょっと勘弁して欲しいけど」

 リアムは苦笑を返した。いつもいつも抱えられて階段を降りては、自分が子供にでもなったような気分だ。せめて、自分の力で降りられるようになるまでは、部屋の中で運動でもしてみようと思った。

「歩くか?」
「ええ」

 アレスに支えられながら、リアムは一歩一歩足を踏み出す。靴の下で、芝が音を立てるのが爽快だった。朝露を含んだ芝に、リアムの靴はすぐに濡れていったが、自然な現象に、むしろ嬉しくもあった。閉ざされた部屋に閉じこもっていると、何者にも翻弄されることはないが、こうして一歩外に出れば、リアムの意志とは裏腹に髪が舞い上がり、スカートが揺れる。外にいるのだと、何よりもリアムが実感できる瞬間だった。
 塔のすぐ前の庭は、王城の大庭園に続いているらしい。しかし、その小道にはどうしても足が向かなかった。大丈夫だとどんなにアレスに宥められても、彼の居ないところで怒られてしまうのではとリアムは乗り気になれない。
 結局、小庭を数周する程度に収まった。たったそれだけで、リアムの息が切れてきたのだ。

「ちょっと疲れたかも」
「部屋に戻るか?」

 すぐに出された提案に、しばしリアムは逡巡する。確かに疲れたが、部屋に戻るには、少しもったいない気もする。何より、次いつここへ来られるかということを思うと、余計にだ。
 リアムが黙ったまま塔を見上げているので、アレスは勘違いをしたらしく、口元を緩めた。

「安心しろ。また抱えてやる」
「……ありがとう」

 その瞬間、リアムはもういいかと思った。確かにこの庭は魅力的だが、リアムが真に望むのは外の世界ではないのだ。
 アレスは塔に向かって歩き出した。シャツ一枚の様相が少し寒そうだ。リアムは反射的に手を伸ばし、彼の裾を掴んだ。

「――もう聞いた?」

 要領を得ない問いにアレスは振り返り、不思議そうに首を傾げる。

「何がだ?」
「私、結婚するんだって」

 瞬間、アレスの瞳が陰る。その様から、彼はもう聞き及んでいたのだとリアムは見当をつけた。

「子供を作らないといけないらしいの」

 ――女が子を宿すのは、お腹らしい。
 リアムはお腹に手を当て、ゆっくりと撫でた。
 母の存在も知らないのに、母になるのだ。まだ自信がないからと、怖いからと断ることは許されない。

「私の力を後世に伝えるため、らしいけど、本当に遺伝で伝わるのかしら。もし伝わったとして、私の子供も同じような暮らしを強いられるのかしら。……普通の暮らしがどんなものかは分からないけど、少し寂しいわ」

 そして顔を俯かせ、一言加える。

「……それに、アレスと一緒に過ごす時間も少なくなるもの」

 寝ているときは今まで通り予知夢を見、起きているときは夫と共に。そこにアレスが入ってくる隙はおそらくないだろう。夫となる人が嫌がるかもしれないし、そもそもアレスが遠慮するかもしれない。そうしてきっと疎遠になっていくのだ。思い返せばいつもすぐ側にあるかつての記憶。孤独だった日常。

「戻りましょうか」

 寂しいと感じるようになったのは、アレスと出会ったから。彼と出会わなければ、きっとこんな人間らしい感情すら抱かなかったのだろう。感謝と、それを上回るほどの後悔。リアムの内情は複雑だった。