01:夢見の聖女


 薄い靄がかかったような浅い夢の中。ぼんやりした意識を手放すことは容易だったし、それがリアムの義務でもあった。しかし、眠らなければと思う意志に反して、彼女の頭は次第に鮮明になっていく。何者かに握られた手から、じんわり熱が伝わって、余計に身体が火照っていくのだ。反射的とも言っていい。この熱の正体をリアムは分かっていた。

「悪い。起こしたか?」

 寝息が途切れたことに気づいたのか、熱の主は優しい声で囁く。リアムはそっと瞼を押し上げた。一番最初に目に飛び込んできたのは、寝台の傍らの椅子に腰掛ける青年。空のような瞳と目が合う。

「……アレス」
「体調は大丈夫か?」
「ええ。今回はぐっすり眠れたみたいで、そんなに頭も痛くないわ」

 リアムは起き上がろうと半身を起こした。が、思いのほか腕に力が入らず、カクッと体勢を崩す。すかさずアレスはリアムを背中から支えた。

「気をつけろ。無理するな」
「ありがとう」

 ベッドの背もたれに背中を預け、リアムはようやく一息つく。アレスは甲斐甲斐しくも、リアムとベッドとの間にクッションを差し込んだ。

「報告を……」

 か細い声が喉に絡みつき、リアムは軽く咳き込んだ。111は素早く水差しに手を伸ばし、リアムにコップを差し出す。

「ゆっくり飲むんだ」

 アレスの言葉に軽く頷き、リアムは緩慢な動作でコップを傾け始めた。痛いくらいに冷たい水が、喉の奥へと沈んでいく。一口二口飲んだだけで、リアムは水を飲むのを止めた。

「予知夢を見たのか?」

 コップを受け取りながら、アレスは躊躇いがちに尋ねる。

「ええ。少しだけ隣国の情勢が見えたわ」
「報告は後ででいい。今はもう少し休め」
「今が良いの。早くしないと忘れてしまいそうで怖いから」
「……書記官を呼んでくる」

 僅かに眉を寄せながら、アレスは立ち上がった。天蓋から垂れるレースのカーテンを閉じ、扉の奥へと消える。
 リアムは、そんな彼の後ろ姿を少しだけ見つめ、目を閉じた。今さっき見たばかりの夢を反芻するためだ。しかし、そう間をおかずにアレスと書記官、そして大神官はやってきた。
 アレスはリアムのすぐ側に腕を組んで立ち、書記官と大神官は、カーテン越しに数メートル手前で立ち止まる。

「隣国ラマの情勢が見えました」

 目を閉じたまま、リアムは細い声を押し出した。

「軍の動きが活発化しています。辺境の村からも徴兵しているようで、食料や物資を調達し、長期の戦を準備しています」

 リアムはそのまま夢で見たままのことを伝えた。兵はどれくらいか、どんな訓練をしているのか、いつ頃動き出しそうか……。
 リアムが口を閉じたと同時に、大神官は勢い込んで尋ねる。

「戦の相手は我が国ですか!?」

 リアムは小さく首を振った。

「すみません、まだそこまでは分かりません」
「そう、ですか」

 明らかに落胆の色を含む声色だ。リアムは申し訳なくなって膝の上で両手を握る。

「後でもう一度眠ってみます。すぐ眠れば、まだ何か情報が掴めると思うんです」
「リアム」

 咎めるような声がすぐ隣から聞こえる。リアムは微かに笑みを浮かべた。

「今日はまだ眠れそうな気がするの。私は大丈夫」
「何かご入り用のものはございますか?」
「いいえ、大丈夫です。それよりも、もう外は夜ですか?」
「はい。深夜を少し過ぎたばかりです」
「そうですか。では、もう少しだけ明かりを大きくして頂ければ嬉しいです」

 リアムは窓へ目を向けた。夜の間、カーテンはいつも閉じているので、それを頼りに大体の昼夜を掴んでいるのだ。もとより、全くと言っていいほどこの部屋から出ないリアムとしては、俗世の時間など把握しても意味はないのだが。

「後で照明を持って参ります」

 一歩下がり、大神官と書記官は恭しく頭を下げた。

「では、私たちはこれで失礼いたします。予知夢の件、どうかよろしくお願いいたします」
「はい」

 二人はもう一度深く頭を下げ、そのまま部屋の外まで下がった。彼らの姿が完全に見えなくなってからようやく、リアムはホッと一息ついた。大神官と話すときは、いつも緊張の糸を張り詰めていたし、何より、長い間眠っていたことで、少しだけ頭痛もあった。
 ――リアムは、幼少の頃より予知夢を見ることができた。その才は、神殿に見いだされてから更に開花した。神殿は、王権とは独立した権威で、独自の機構で形成されている。不思議な力を持つ者を祭り上げ、それを象徴に、王権の手助けをするのが彼らの本望であり野望だった。聖職者で成り立つ神殿は決して表舞台には立たず、しかし裏では王権の糸を引いているのだ。
 だがそれもそのはず、予知夢、千里眼、未来視。神殿はどこからか不思議な力を持つ者を探し出し、利用するのが常だった。リアムもその一人で、気がついたときには、もう既に神殿で暮らしていた。両親の記憶はない。リアムが覚えているのは、予知夢がうまくいかないと、折檻したり、意地悪なことを言ってくる神官達の顔ばかりだ。
 予知夢が安定してくると、リアムは王城に移った。塔の最上階にまるで幽閉されるように暮らし、実際、外に出ることもほとんどないまま今日まで生きてきた。
 リアムの予知夢を頼りに、各国との戦にも勝利してきた自国のため、民衆のため、眠り続けることが彼女の使命であり、義務だった。そして神殿にとって、そんなリアムは、物言う道具と相違なかった。

「何か食べるか?」

 椅子に腰掛け、アレスはリアムと目を合わせた。口元にほんのり笑みを浮かべ、リアムは首を振る。

「いいえ、そんなにお腹は空いていないから大丈夫よ」
「飲み物は?」

 問いかけながらも、アレスはもう水差しを手に持っている。リアムは堪えきれなくて笑ってしまった。

「何がおかしい?」
「だって、初めて会った頃とはまるで別人みたい」

 クスクスとなおも笑い声を漏らしていると、アレスはばつの悪そうな顔になった。

「あれは……本当に悪かったと思っている。寝不足でイライラしていたし、思うように情報が行き届かずもどかしかったんだ。完全に八つ当たりだった」

 珍しくしゅんとしているアレスを見て、リアムはようやく笑うのを止め、かつての記憶を昨日のことのように思い起こす。
 ――リアムとアレスの第一印象は、互いに最悪だった。許可なくリアムの天蓋に押し入り、怒りを堪えた表情で静かにアレスが詰め寄ってくる様は、リアムに恐怖しか生み出さなかった。対するアレスも、予知夢がうまくいかないことを、神官達からリアムが怠惰だから、我が儘だからと吹き込まれていたため、彼女に悪い印象を持つのも仕方がなかった。
 誤解はなかなか解けなかった。リアムはいつも怒ってばかりのアレスが怖かったし、アレスは、己の嫌味をただ静かに受け入れるリアムに苛立っていた。
 二人は、いつもいつも顔を合わせていたわけではない。アレスが部屋に押しかけても、リアムは予知夢のため、大抵深い眠りについていて、出鼻をくじかれることがままあった。
 リアムの穏やかな寝顔に毒気を抜かれ、頭が冷静になったアレスは、やがて落ち着いて彼女と話せるようになってきた。
 二人が顔を合わせるのは、一日のほんの僅かな時間だ。しかしたった一瞬でも、積もれば山となる。
 今の二人の関係性を形作ったのは、そんなささやかな時間からだった。

「笑ったら頭も大分スッキリしたわ」
「それは良かったな」

 どこか不機嫌にも思える口調に、リアムは再び笑ってしまいそうなのを堪えた。長い息を吐き出し、心を落ち着かせる。――気分転換は終わりだ。頭を切り替えないと。

「もう一度眠るわ」

 淡々とした声に、アレスは顔を上げた。

「またか? 少し休んでからにした方が良い」
「まだ少ししか分かっていないから、もう一度寝てみて、もっと詳しい情報を集めないと。薬を取ってくれる?」

 リアムはサイドテーブルに目を向けた。催眠効果のある薬は、いつもベッドの脇に置いてあるのだが、アレスがやってきたときはいつもサイドテーブルに移動している。乱用を防ぐため、せめてもの抵抗なのだろうか。
 アレスは、渋々といった様子で小瓶から二錠薬を取り出した。

「……こんなもの、本当は飲ませたくないが」
「私よりも、アレスの方が心配よ。またくっきりクマをつけたまま。全然寝てないんでしょう?」

 コップを受け取り、リアムは薬を飲んだ。遅効性のこの薬は、効き目が出てくるにはもう少し時間がかかる。

「忙しいのなら、ここへ来るよりもむしろ自分の部屋で休んで。あなたはこの国にとって大切な人なんだから」
「ベッドに横になっても眠れない。頭が冴えて眠れないんだ」
「……薬は?」
「飲んでいる。飲んでようやく眠りにつける。だが、あれは駄目だ。薬を飲んだ翌日は、うまく頭が働かず、日中はいつも身体が重たい」

 リアムとアレスが飲んでいる睡眠薬は、共に同じものだった。強い催眠効果があり、その分依存性も強かった。日常的に服用すれば、筋肉が弛緩し、身体のふらつきが多なり、記憶障害も起こる。
 睡眠薬が手放せない生活を送っているからこそ、二人はその副作用もよく分かっていた。分かっているからこそ、目の前の相手には薬を飲んで欲しくない。
 しかし、それが許されないことは、どちらも分かっていた。義務と使命が、相手の身には重くのしかかっているのだから。

「もう寝るか?」
「ええ。今日は効果が早いみたい」

 アレスに支えられながら、リアムはベッドに横になった。明るい照明が目に飛び込んでくる。目を閉じても尚、瞼に突き刺さってくるほどにだ。

「忙しいのは分かっているけど、側にいてくれる? 私が眠るまで」

 アレスの返答は行動だった。いつものようにリアムの左手を握り、
安心感から、リアムは眉を下げた。

「……ごめんなさい」
「何がだ?」
「怖いの。目を閉じたら、もう二度と目覚めないんじゃないかって。眠ったら、そのまま死んじゃうんじゃないかって。いつも迷惑をかけてるのは分かってるけど」
「迷惑じゃない」

 握られた手に力が込められる。握り返す力も口を開く気力ももう残っておらず、リアムは微笑みだけを返した。

「ゆっくり眠れ」

 ――予知夢などではない、幸せな夢を見るために。  アレスは、リアムの左手を優しく撫でた。