31:夢と現実



 彼の声は、それほど大きいものではなかった。
 が、こちらに注目している者たちの耳に入ってくるには、充分な声量だろう。
 いつの間にかダンスの曲が終わっている。だからこそ、余計に響き渡ったように思えるのか。
 ハーヴィーが手を放した。ダンスが終わったのだから、それも当たり前だ。しかし、今のリアムには何よりそれが一番心細かった。会場中の視線がここに集まっているのは、何もリアムの気のせいではないだろう。
 滅多に姿を現さない王子が、壇上から降りない王族が、ダンスフロアを歩いている。目的は明快だ。
 アレスは、少し前から壇上を降り、この戦の功労者フレイツや、妻エイミー、そのほか戦で名を挙げたもの達の元を訪れ、労をねぎらって回っていた。
 次は誰の元へ向かうのだろう。皆がそう思っていた矢先の出来事だった。彼の足が、若者達の集う場所へと向けられたのは。
 ダンスフロアは、大きく三つに分けられる。踊ることよりも、社交目的で立ち話をする空間と、軽食や飲み物が置いてある場所、そして若者達が集まる中央のダンスフロアである。
 まるで注目されるのを拒むかのようにアレスは端の空間を行き来していた。話をしたい相手が社交空間にいたせいもあるだろうが、加えて彼は若い女性に目もくれなかった。興味がないのか、はたまた周りの目を気にしているのか、とにかくアレスが舞踏会で踊ったことなど一度たりともないだろう。王と王妃ですら主賓として一番初めに踊るのに、アレスはその間社交の場で眺めているのみだ。
 そんなときだった。アレスが動いたのは。
 社交の空間から抜け、ダンスフロアへと進む。どうしてそんなところに、と皆の視線はフロアを駆け巡る。が、その先に彼の会話の相手になり得そうな主要人物などいない。
 では、誰に。

「リアム」

 アレスがもう一度その名を呼ぶ。
 リアムの名は、社交界にそれほど知れ渡っているわけではない。アントワーズ家が養女を迎えたことは知っているが、その娘の名までは噂されていなかったのだ。
 リアムとは、誰のことを指すのか。
 疑うように皆が辺りを見回すその前に、リアムは人混みの中に紛れた。ハーヴィーが小さく己の名を呼ぶのが聞こえたが、それすらも無視する。
 自分が大勢の人の注目に耐えられるはずがないと分かっていたし、誰かに迷惑をかけるのも嫌だった。
 大勢の人をかき分け、埋もれる。リアムの心境など分かっているはずなのに、それでもアレスは歩みを止めない。
 不意に圧迫感が途切れた。人混みを抜けてしまったのだ。気づけばリアムは会場の端にいた。中心から抜け出せたことは有り難かったが、まだ衆目の場であることに変わりはない。だが、これ以上どこに逃げれば良いというのか。
 リアムは溜まらず会場から逃げ出した。開放されていた窓からテラスへと身を滑り込ませたのだ。
 外は身を切るように寒かったが、今のリアムにそれを気にする余裕はなかった。慣れないヒールで地面へ降り立ち、果てしなく広がる庭園で右往左往する。
 人の気配は全くなかった。いくら開放されているとはいえ、真冬の今の時期に庭園へ出る酔狂な者はいるわけもないのだから、それも当然だが。
 会場の方を気にしながら、リアムは庭園の奥へ奥へと向かった。少しでも明かりのない場所へ行きたかった。暗い場所は嫌いだが、あの明るい場所よりは、自分にはずっとお似合いのように思えた。
 月が綺麗な夜だった。いつか山奥で見たようにくっきり見えたわけではないし、半分欠けてもいたが、それでも今居る場所を仄かに明るくするには充分だった。
 月に、見とれていた。いや、それしか縋るものがなかったともいえる。会場でのことは忘れたかったし、幸せな夢うつつの中で現実から逃げたかったというのもある。
 だが、腕を強く引っ張られ、リアムは現実に引き戻された。聞き慣れた声が、耳から離れない。

「なぜ逃げる?」

 振り返らずとも彼だと分かった。アレスの顔を、表情を見る勇気が出ず、リアムは下を向いたまま固まった。
 彼の困惑は、声からでも容易に伝わった。本心から戸惑っているように聞こえた。

「どうして来たの?」

 リアムは咄嗟にそう尋ねていた。
 彼が話しかけに来てくれたことは嬉しかった。名前を呼んでくれたことも。しかし、それはあくまで二人きりの時であればという話であって、あのような衆目の場では戸惑いしかなかった。
 不釣り合いであることはすぐに分かった。いずれこの国の全てを統べる王になる人物と、今は令嬢という立場でも、その出自は不明で、親無しの特異な力を持つ娘。

「分かるでしょう?」

 夢を見ても報われない空しさと、夢から覚めてしまうことの怖さ。

「ずっとあのままで良かったのに」

 思わずポツリとリアムは呟いた。頭の中に浮かぶのは、塔での穏やかな生活。自由はなかったが、自由を知らなかったからこそ一概に不幸だとはいわない。むしろ、今の胸を引き裂かれるような痛みに比べれば、なんと幸せな暮らしだっただろう。

「私を道具として使って良いから」

 むしろそうして欲しかった。そうすれば、彼の側にいられる理由ができるから。

「――本当にそう思っているのか?」

 ようやく口を開いたアレスは、寂しそうだった。言葉を選ぶように、ゆっくり繋げていく。

「俺だって何も考えてないわけじゃない。道具として扱えるわけがない。だから自由にした。本当は……」

 ごくりとアレスの喉が動く。

「手放したくなかった」

 リアムの瞳が僅かに見開いた。

「だが、一緒にいればお前が苦悩する日が来るだろう。戦はこれからも起こる。俺が頼まなくとも、もし自分の力を使っていれば無駄な犠牲を払わずにすんだかも知れないのにと。そんな余計なことを考えさせたくなかったから、俺は――」

 アレスは顔を歪め、言葉を切る。

「本当にそんなことで良いのか? 何かしたいことはないのか?」

 まるで縋るように見つめられ、リアムはおろおろした。必死に考えたが、思うように答えがまとまらず、そのままを言葉にした。

「そんなこと急にいわれても……私、考えたことなかったもの。でも、今日アレスと街を歩いたのは楽しかった。いろんなものを食べたのも。劇も面白かった。感動したわ」
「なら」
「でも、そういうことは全部アレスがいてこそなの。アレスがいなかったら意味がない。だから私はアレスだけでいい」
「リアム……」

 俯くリアムの肩にアレスが手を置く。
 リアムとアレスは向かい合っていた。だが、その視線が交わることはない。

「でも……」

 ふっとリアムは視線をあげた。

「外に出て、少しだけ思ったの。ハーヴィー先生みたいに、人を助けることができたらって。具体的に何がしたいっていうのはないけど、病気や怪我で苦しんでる人を手助けしたり、親を亡くした子供を支えたり。……私がしてもらったことを返したいし、してしまったことの償いがしたい」
「いい夢じゃないか」

 アレスは微笑んだ。ようやく見せてくれた笑顔だった。嬉しくなって、リアムはアレスに身を寄せる。

「リアムなら、きっと叶えられるな」
「本当に?」

 リアムは目を瞬かせた。

「ハーヴィー先生、私を弟子にしてくれるかしら」
「……あいつの弟子になるのか?」
「もし許可がもらえるのなら」
「…………」

 アレスの顔は苦い。なぜ彼がこんな難しい表情をしているのか、リアムにはてんで見当もつかなかったが、しかし、妙におかしかった。ふふふと思わず漏れる笑い声を堪え、下を向く。アレスは目を細め、そんなリアムを抱き込んだ。

「俺だけのために生きるな」
「え……」
「お前の夢は、俺の夢だ」
「夢……?」

 リアムは小さく呟いた。

「私の、夢」

 現実味を帯びない言葉だった。夢なんて、そんな大層なものじゃない。ただの願望だ。そうできたらと思っただけだ。
 それでも、その言葉が、妙に熱を持ってリアムの中にストンと落ちてきた。

「ここは冷える。戻ろう」

 リアムの肩に腕を回し、アレスは言った。

「二人で? 注目されるわ」
「注目されるのは嫌か?」
「当たり前でしょう」

 リアムはすぐに応えた。嫌じゃなかったら、寒いのにわざわざこんな所にいない。

「だったらここで踊ろう」
「えっ」

 思いも寄らない言葉に、リアムはまじまじとアレスを見た。しかし、そんな彼女以上にアレスは驚いたようだった。

「なんだ、俺とは一回も踊らないつもりだったのか?」
「そういう訳じゃないけど……」
「俺も、正直踊るのは好きじゃない。音楽に合わせるのは苦手だし、ましてダンスなんて柄じゃないからな。……でも、ソイルやハーヴィーや、その他いろんな男がリアムと踊ったのに、俺は一度もないなんて癪だろ」
「そうかしら?」
「そうだ」

 軽く咳払いをし、アレスはリアムと向き直った。

「お手を」

 余裕綽綽とアレスは右手を差し出した。負けていられないと、リアムも澄ました顔で右手を重ねた。
 月明かりしかない、薄暗い庭園。
 二人の影が重なり、そしてダンスが始まる。音楽すら聞こえない場所だったが、それでも二人はくるくる回り続けた。曲などなくても、相手がいれば充分だった。
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