32:いつかの夢
広々とした寝室に、包み込むような温かさを備えた夕陽が差し込んでいる。日の光が部屋中に行き渡るよう計算し尽くされたその寝室には、余すことなく日が差し、けれどもベッドには直接光が当たらないような設計になっていた。
西日が照らすのは、柔らかそうなラグや、上品な調度品、ゆうに五人は横になれそうなベッド、そして、窓に背を向ける形でソファに腰掛ける一人の女性である。熱心に繕い物をしているようで、始めた頃はまだ真上にあった太陽が、今や地平線に沈み始めていることにまるで気づかない。
ついで、コンコンと小さなノックの音が響く。中の人を気遣ったようなそのノックでは、女性が気取ることはなかった。返事がないことに痺れを切らし、扉の外の人物は、そうっとドアを押し開いた。
入ってすぐ、彼はすぐにソファに女性が座っていることに気がついた。彼女が縫い物に夢中で、おそらく己のノックの音に反応しなかったのだということも。
驚かせるつもりはなかったのだが、女性があまりに真剣なので、その集中をそぐことを忌避して、彼は無意識のうちに足音を忍ばせた。
「……リアム」
少し躊躇った後、そう声をかければ、女性の肩は面白いくらいぴょんと跳ねた。
肩越しに振り返ったリアムは、恨めしそうに声をかけてきた人物を見やる。
「驚いた。急に声掛けないで。手元が狂っちゃったわ」
「一応ノックはしたんだが」
「だからって、こんな近くで声をかけることないじゃない。本当に驚いたわ」
「悪いな」
笑いを噛み堪えたアレスは、軽く謝る。リアムは納得しきれないようだったが、なおも笑う彼の姿に毒気を抜かれ、もはやどうでもよくなってしまった。
再び前を向き、縫い物を再開しようとしたところで、リアムはハッと手を止めた。以前にもこんな光景を見たことがあるような気がしたのだ。しかし、微かな記憶をたぐり寄せても、思い当たる節はない。
「どうした?」
リアムを見つめるアレスの瞳は優しい。リアムはすぐに表情を和らげた。考えても詮無きことだと思ったのだ。
「いいえ、なんでもないわ」
口元に笑みを浮かべると、今度こそ本当に手元に注意を戻した。
「それよりも、こんな時間にどうしたの? もうお仕事終わったの?」
こんな時間にアレスが寝室に戻ってくるのは珍しい。
朝食は寝室で一緒に食べ、そこからアレスは執務室へ向かうので、夕食まで会うことはないのだ。昼食は別だし、アレスは日中ずっと執務室か会議室に閉じこもっている。ただ、ほんの時折、身体を動かすため部屋を出ることがあり、その道中、孤児院や救診療所へ向かうリアムと顔を合わせることがあった。非常に稀な出来事ではあるが、そんなとき、リアムは本当に嬉しくなった。それはアレスも同じなようで、ばったり遭遇した時に、夕食の時に話せばいいものを、二、三話し込んでしまうこともままある。
ただ、そういう日常の中の些細な幸せが、多忙の中では余計に嬉しかったりするのだ。
アレスは、もうすぐ戴冠式だった。
その準備で忙しく、アレスは朝から晩まで動きっぱなしだ。当然以前のように二人で街へ出かける機会などなく、ゆっくり休日を過ごす時間もない。酷い時には夕食を共にとる時間もなく、リアムが眠りに落ちた後、疲れたようにアレスがベッドに倒れ込むのもしばしば。
だが、それでも。
毎朝一緒にご飯を食べて、同じベッドで寝て。そんな平凡をどれほど望んでいたことか。
今までで一番幸せな一時だった。アントワーズの屋敷からは時々エイミーが会いに来てくれるし、アレスよりは頻繁にフレイツとは城内で遭遇し、たくさん話もする。ソイルも遊びにきてくれるし、訓練場へアレスの勇姿を見に行けば、以前よりもずっと仲良くなった兵達が話しかけてくれる。
毎日が充実していた。何より、目的ができた。孤児院へ行って、自分と同じような子供達とふれあい、自分がしてもらったように、字を教え、裁縫を教え。ハーヴィーが営む民間のための診療所では、怒られたり嫌味を言われながら、ハーブや治療の知識を吸収している。
仮にも王太子妃という身分であるにもかかわらず、こんなに自由に動けて、アレスや護衛のソイルには深く感謝していた。
「まだやることはあるが」
アレスの声が、リアムの意識を引き戻す。
「たまには早く休んでもいいだろうと思ってな」
「ソイルさんに怒られるわよ」
「夕食前の一時くらい、可愛いものだろ。それよりも何を作ってるんだ? 俺の膝掛けか?」
「ああ、そういえば作って欲しいって言われてたわね」
「忘れてたのか?」
恨みがましい目つきで見られ、リアムはクスクス笑った。
「そうね。忘れてたわ」
「俺の希望よりも優先されるのか。さぞ大切な人へ贈るものなんだろうな」
アレスの言葉に、リアムは一瞬きょとんとして、そして。
大きく笑い声を立てて笑ってしまった。笑われると思っていなかったのか、アレスは驚きを通り越して困惑していた。
「アレスよりも大切な人……そうね、ちょっと正しいかも」
ますます意味が分からないと言った顔になるアレスに、リアムは早々に答えを言い渡すことにした。アレスと違って、リアムに人をからかう趣味などない――。
「この子の分よ」
そういってリアムがお腹に右手を乗せれば、その場の時間が止まったように感じられた。目の前のアレスが珍しくポカンとした顔のまま固まったのだから無理もない。いつもは難しい顔をするか、悪戯っぽい顔をするかのどちらかなのに。
――ひょっとしたら、アレスのこんな顔、今までで一番面白いかもしれない
面白かったが、リアムは微笑みを浮かべるのみだった。おかしいよりも先に、幸せという感情が先立ったのだ。
今までで一番という表現が、日々上書きされてくことの幸せ。
胸がムズムズして、温かくなる。この想いを、一体今まで何度味わえてきただろうか。
「リアム――っ」
アレスの感情は、言葉にならなかったらしい。
声もなく、二人の影が重なる。影の境目が薄くなり、暗闇が忍び寄り始めている時だった。
もうすぐ夜がやってくる。
アレスの体温を感じながら、リアムはふとそう思った。
だが、怖くもなんともなかった。
この上なく幸福な気持ちに包まれながら、リアムはアレスの胸に顔を埋めた。
だって、いつも傍にはアレスがいるし、何より今のリアムは、一人ではないのだから。