30:最後の夢
全く、こんな日にどこへ行っていたのとエイミーに呆れられながら、リアムは慌ただしく舞踏会への準備を始めた。お風呂に入って身体を清め、髪を結い、化粧をし、ドレスを着。
屋敷にいた頃も、舞踏会で着るような上等なドレスは一度も着たことがなかったが、幸いなことに、化粧をしたためか、ドレスに着られるようなことはなく、何とか真正面から鏡を見られるくらいにはなった。むしろ、リアム自身驚いたくらいだ。これが本当に私なのだろうか、と。
鏡の前から動かないリアムの背中をポンと叩き、エイミーは一緒に鏡を覗き込んだ。
「さあ、行きましょう。フレイツったら、きっとリアムの晴れ姿を早く見たくてソワソワしてるはずだもの」
彼女の言葉通り、フレイツはリアムを見た瞬間、ピシッと背筋を伸ばした。だが、それとは対照的に、表情は大きく緩む。
「よく似合っているな」
「でしょう? 本当に綺麗だわ」
輝かんばかりの笑みが眩しい。
リアムはスカートを掴み、腰を落とした。
「このドレス、お父様とお母様が見立てていただいたと聞きました。本当にありがとうございます」
「選んでいる間、とても楽しかったわ。リアムにどんなドレスが似合うのか。想像するだけでワクワクしたもの」
「このデザインにして良かったな。妙齢の女性にしては少し地味かとも思ったが、派手すぎず丁度いい」
「あら、私の見立てに間違いはなかったでしょう?」
ふふんとエイミーが胸を反らす。
リアムのドレスは、色合いやデザイン、形など、少し流行遅れで大人しいという印象はあった。しかし、細部に施されたレースや、女性らしいフリル、そして何より今時では珍しいほど控えめな露出は、まだ花盛りを迎えていない少女の成長を思い描かせた。
あくまで主役はリアムなので、身につけるアクセサリーや小物も簡素なものばかりだ。
手に持つセンスや、首元を覆うネックレス、少し肌寒いドレス――何もかもが初めてのことで、リアムは少々高揚していた。そんな彼女のことは良心もお見通しのようで、二人揃って目配せした。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか、会場に」
リアムは頷き、フレイツ、エイミーの後に続いて廊下を歩いた。
城に宿泊した者達が、ポツリポツリ、リアム達と同じように一階の会場へ向かっていた。舞踏会が開かれるまでまだ大分時間はあるが、彼女たちは身分が高いわけではないので、早めに入城しておかねばならない。
「アントワーズ家、ご入場!」
入り口の使用人の声と共に、三人は煌びやかな会場へと足を踏み入れる。途端にあちらこちらからの視線を感じ、リアムは肩を縮こまらせた。
かつて、数多の戦で功をなしたフレイツ=アントワーズの名は、彼が退役してもなお、すさまじい影響力を誇る。彼に率いられ戦に赴いたものは数知れず、そしてその素早い状況判断と冷静に敵を斬り伏せていく姿に、憧れを抱くものも同じく後を絶たない。
そんな彼が、養女を取ったと。名のある貴族からの貰い子ならまだしも、その素性は知れず、噂では孤児だとも言う。
誰もが興味津々だった。男爵位だとはいえ、過去の勇士の発言力は強く、皆が一目置いている。その上国王陛下の信頼も厚く、王子殿下の剣の師ともなれば、尊敬の上に恐れすら追随してくる。
――養女の婿になれば、位は低くても箔がつく。
――いきなり男爵の養女だなんて、うまくやったものだ。
このことは、貴族家の次男、三男には目の色が変える朗報だったし、社交界の噂好きにしてみれば、不愉快で、そして興味津々な出来事だった。
彼らの、国王陛下までの道のりを、皆が一身に見つめる。
「フレイツよ、よくぞ参った」
それが分かっているかのように、王は普段よりもいくらか声を張り上げるようにしている。
「此度の戦では、兵団に屋敷を提供するだけでなく、何よりそなた自身が指揮を執ってくれたとか。アレスから活躍ぶりは聞き及んでいる。本当に良く尽力してくれた」
「いえ、私は何も。むしろ、さしでがましく首を突っ込みすぎかと後悔したくらいです。私がおらずとも殿下はご立派でした。逆境をものともせず、冷静な判断での巻き返しには驚かされました。先陣を切って敵陣に切り込む様は、無謀とも思いましたが、あの場面では、それが最適だったのでしょう。殿下の勇姿に奮い立った兵は、私含め数えきれません」
「後で説教は聞くから……。もうその辺りにしておいてくれ」
リアムには絶賛に聞こえたのだが、アレスにはそうでなかったらしい。苦笑いを浮かべ、止めてくれと言わんばかり首を振った。
「積もる話もあるだろうから、挨拶は軽めに済ませよう。――エイミー=アントワーズ夫人」
コホンと咳払いをし、王はエイミーに視線を滑らせる。
「何かと心労が多い指揮官は、並大抵のものでは務まらない。それでもフレイツが完遂できたのは、何より夫人の支えあってのものであろう。今後とも、変わらずフレイツを支えてやってくれ」
「仰せのままに、陛下」
エイミーは一層膝を落とした。居心地が悪いなりにその様を静かに見つめていたリアムだったが、突然自分にも話の矛先が向いて、ビクッと肩を揺らした。
「リアム=アントワーズ嬢」
「は、はい」
「そなたの働きも耳にしている。屋敷に滞在中、傷病兵達の看護に勤しんでくれたとか。傷ついた兵達にとってどれだけそれが支えになったか。彼らに代わって感謝する」
「い、いえ、滅相もございません」
リアムはひたすらに恐縮した。まさか陛下直々にお言葉を頂けるなど、想像もしていなかったためだ。受け答えの練習などろくにしていなかったので、両親に恥をかかせないよう必死だった。
混乱したリアムは、ただただ恐縮と共に顔を下に向ける。頭を垂れる、という作法の意味を勘違いしているらしく、リアムの表情は壇上からはさっぱり分からない。だが、僅かに覗く耳が真っ赤に色づいていることから、きっと相貌もまた同じ色に染まっているのだろうことが容易に想像がつく。
可哀想なくらいに緊張しているその姿からは、真面目で素直という印象が自然に窺えた。
王はその顔に鷹揚な笑みを湛えた。
「そなたの――塔での働きも聞き及んでいる。長い間、よく国に尽くしてくれたな」
先ほどとは裏腹に、王は急に声を落とした。内容が内容だけに、リアムは僅かに顔を上げた。
「その働きに敬意を表して、一つ、何でも願いを叶えても良いと思っている」
「えっ……」
「今すぐに、といっても思いつかないだろう。いつでもいい。欲しいものがあったら、私の所に来なさい」
「はっ、はい」
緊張している今のリアムには、王のこの言葉がどれほど名誉なことか想像もつかない。
御前から下がってようやく、緊張が引いた。顔のあちこちを触って、熱が引くよう尽力する。
王の言葉はリアムの頭からはさっぱり抜け落ちていた。フレイツ達の方も、あまりリアムが気負っては可哀想だと、先ほどの言葉を蒸し返すようなことはしない。なんといっても、今日は舞踏会なのだ。娘の初参加ともあって、緊張よりも、高揚した気持ちのまま今日を終えて欲しかった。
「リアム、私と踊ってくれないか?」
フレイツはサッと右手を差し出した。突然の出来事に、リアムは固まる。
「私、でも、下手だし……」
「何言ってるの」
フレイツの後ろから、エイミーが顔を出した。
「何事も練習よ。それに、踊りの先生からは良い評価をもらっているそうじゃないの。自信を持って。フレイツったら、リアムと踊ることだけを楽しみにしてここに来てるんだから、付き合ってあげて」
「エイミー!」
恥ずかしそうに、というよりは、情けない顔つきでフレイツは妻を窘めた。そして、まるで言い訳をするようにリアムに向き直る。
「その、私も踊りは得意な方じゃない。見られるのも好きじゃない。それでも、リアムと踊りたくて」
先ほどよりも差し出されたフレイツの手が下に下がってしまっている。リアムは慌てて彼の手を取った。
「お願いします」
「ああ」
ゆったりとしたステップで、会場の開いている空間へと踊り出す。緊張するかもとリアムは思っていたが、いざ踊り出せば、見慣れたフレイツの顔が側にあったので、その他のことは目に入らなかった。
「リアムが綺麗だからかな。いつもより周りの目が多い」
「まさか! お父様が注目を浴びてるんです」
「いいや、自覚してないだけだ。リアムは綺麗だよ」
それ以上否定するのも憚られて、リアムは微笑を浮かべるに留めた。フレイツはそんな彼女を目を細めて見つめる。
「不思議な気分だな。この中の誰かがリアムを妻にと屋敷の門戸を叩く時が来るのだろうか」
「そんな」
リアムは困ったように首を振る。が、今のフレイツには聞こえていないようで、我に返って苦笑した。
「娘ができたと思ったら、もうお嫁に送り出す時のことを考えてしまっている。先走りすぎだな」
「でも、私は」
結婚なんて、想像もつかない。
塔にいた頃は、誰かと結婚するという話を他人事のように聞かされていたが、その後すぐに塔を出たせいで、その話は立ち消えになってしまった。
結婚……私もいつかするのだろうか。
一瞬アレスの顔が浮かんだが、頭を振って追い出す。彼は、もう手の届かないところにいる。
曲が終わると、リアム達のダンスもまた止まった。元いた場所へと目を向けたが、エイミーは顔なじみの女性数人と話しているようで、なんとなく帰りにくい。
どうしようかとフレイツが考えあぐねているのを見て、リアムは咄嗟に口を開いた。
「お父様」
「どうした?」
「私のことは気になさらないで、お知り合いのところへ行ってきてください」
「いや……。社交界ではそれほど知り合いもいないし、ここにいる」
リアムの申し出に、フレイツはどう断ろうかと逆に困っているように見えた。それが申し訳なくて、リアムは強い口調で続ける。
「いろいろ挨拶もおありでしょう? 私、一人で大丈夫ですから。あちらで飲み物でも飲んでいます」
「……分かった。何かあったらすぐに私かエイミーの所に」
「はい」
食い下がるリアムに、やがてフレイツは諦めて彼女から離れた。歩き出した彼の足は迷いなく、やはり行くべき所があったのだとリアムは安堵した。
とはいえ、これで独りぼっちになってしまった。寂しいわけではないが、居住まいが悪い。フレイツが離れたため、こちらを見やる視線の数は確かに減ったが、それ以上に突き刺さる視線の強さは激しさを増す。単純な好奇心や妬みそねみもあるだろう。フレイツが側にいた時は、彼が壁になってくれたおかげで、全く気にもならなかったのだが、今はどうだ。
つい暗い顔になってしまうのを堪えて、リアムは宣言通り、飲み物が並べられているテーブルへと向かった。とりあえず、今は飲み物を飲む振りをして、この場を凌ぐつもりだった。
しかし、テーブルへと到着する前に、リアム様、と明るく声をかける者があった。
「お久しぶりです。素敵なドレスですね。お綺麗です」
「あ……。こんばんは。ソイルさん」
黒い燕尾服を身に纏い、いつものにこやかな笑みでソイルは頭を下げた。見慣れない正装での対面は目に眩しかったが、彼の笑顔でホッと息をつく。釣られてリアムも口角を上げた。
「ソイルさんも格好良いですね。とっても似合っています」
「ええ……本当ですか? 服に着られてるって皆には笑われましたけど」
いつも動きやすそうな軽い格好をしているので、余計そう言われるのだろう。だが、リアムの言葉は本心だった。そんなことないと否定の言葉を続けようとしたが、一足早くソイルに先を越される。
「早速ですが、リアム様。一緒に踊っていただけませんか?」
「えっ? 私と、ですか? でも私、あまりうまく踊れなくて。ソイルさんに恥をかかせてしまうかも知れません」
「俺も踊りは上手じゃないんです。むしろ、苦手な部類で。でも、今日のは無礼講で、格式もマナーも、上手下手なんて関係ないんです。楽しめればそれで」
ちらりとリアムは周囲に視線を向ける。私と踊ると、彼が変に注目を浴びるのではと、それについても不安だった。
「それに、今日はむしろダンスが目的の行事なんですよ。踊らないと目立ってしようがないんです。ほら、若い人たちは皆入れ替わり立ち替わり踊っているでしょう?」
ソイルの言葉に、リアムはもう一度会場を見渡す。――確かに、立ち話しているのは壮齢の人たちばかりで、若い人たちは皆楽しそうにダンスをしている。
「ほら、行きましょう」
気さくにソイルが右手を差し出した。リアムは、誘われるようにその手に己の手を添えた。
*****
その後は、まるでソイルが何かの合図だったかのように、急にリアムにダンスを申し込む男性が増えた。そうはいっても、知らない人ではなく、屋敷や野営地で、リアムと何度か話したことのある男性ばかりだったが。兵の中には、平民だけでなく、貴族家の次男や三男で、戦にて功を立てようとしていた者も多くいたのだ。
とはいえ、リアムをダンスに誘うのは口説くためではなく、ただの顔なじみへの挨拶であったり、野営地での治療の感謝を述べることが主な目的だったりする。それでも、リアムもそれは承知していた。この世に知り合いがそう多くはない彼女にとって、野営地でできた思いも寄らない知り合い達は、とても大切な思い出の一部である。
一体何人と踊っただろう。
いつしか、リアムの額には玉のような汗が浮かぶ。ダンスの曲目はゆったりしたものが多かったが、こうも連続で踊れば、疲れてしまうのも当然だ。
さすがに何か飲み物でも、とリアムはテーブルへと移動した。いろいろな噂話に花を咲かせる奥様方の間をすり抜け、一番初めに目に飛び込んできたグラスに手を伸ばす。添えられていたレモンを見てお酒かと予測し、一口味わう。予想通りお酒だったが、ジュースのように甘いので問題ない。屋敷でも何度か嗜んだことはあったので、警戒することもなかった。
こくこくと喉を鳴らして飲んでいると、テーブルの真向かいの人と目が合った。思わずリアムは固まる。
それは向こうも同じだったようで、しかし、金縛りが解けるのは向こうの方が早かった。呆れたようにため息をつく。
「まるでジュースのようにお酒を飲むんですね、あなたは」
「喉が渇いていたので……。それよりも、先生がここにいらっしゃるなんて驚きました」
失礼なもの言い方かとも思ったが、驚いたのは本心だった。まさか、あのハーヴィーがこんな華やかな場所にいるなんて。
「私も、このような場所は似合わないし、来るべきではないと思ったのですが」
ハーヴィーは後ろめたそうに前置きした。
「昨日の追悼式に参加したら、どうせなら舞踏会も……と言われまして。断るに断れなかったんです」
苦い顔でハーヴィーはグラスを傾ける。彼の顔は少し赤らんでいて、随分な酒量を飲み干したらしい。グラスが空になると、ウェイターがサッと片付けたので、彼が何杯グラスを空けたかは定かではない。ただ、今のウェイターの動きの速さを鑑みるに、ハーヴィーは要注意人物と見なされていたようだ。
「先生、踊れますか?」
今日幾度となく踊りを経験して、リアムはすっかり積極的になっていた。
酔っ払いがきちんと踊れるかについては不安だったが、リアムは構わず彼の手を取る。
「一緒に踊りましょう」
ハーヴィーが承諾する前に、リアムは彼を開いてる空間へと導いた。というより、酒で頭が回らず、単にハーヴィーの返事が遅れただけだが。
「私は踊れません」
曲が始まり、テーブルへの帰路は人だかりで閉ざされ。
そんな状況になってようやくハーヴィーは口を開いた。今更、とリアムはクスクス笑った。
「いいじゃないですか。くるくる踊っていればそれでいいですよ」
実際、リアムは今日既に何度かそういうダンスをした。流れてくる曲に馴染みのないものがあって、そうするしかなかったのだ。しかし、それがリアムだけかというとそうではなく、周りには、定型のダンスに飽きた若者達が、適当に組み合わせて踊ったりする姿も多く見られた。
本来の舞踏会ならこうはいかない。もっと格式張った調子で、誰が誰と踊っただの監視されながら時が流れる。
だが、今日は戦終結の祝賀が目的である。格式張ったダンスなど必要ないのだ。
「今日、先生に会えて良かったです」
くるくる回りすぎて、リアムは目が回り始めた。だが、音楽が明るい曲調なので、止まるに止まれないのだ。
「実は、先生にお願いがあって」
「お願い?」
ハーヴィーは目を丸くして首を傾げた。アルコールが入っているせいか、動作が素直で、リアムは笑ってしまいそうなのを堪えた。
「はい。でも先生、今気分が悪そうなので、また今度言いますね。今言っても、きっと忘れられそうだから」
「そう思うのなら、今すぐダンスを止めてほしいものですが」
「駄目ですよ。一度始めたら、最後まで踊らないと」
ダンスを踊っているのは何もリアム達だけではない。周りの調子を崩すわけにはいかないのだ。
楽しそうにくるくる回るリアムを見て、ハーヴィーは酔いが覚めていくのを感じた。それでも、足掻きとばかり、最後にサッと失言が口を飛び出す。
「私なんかと、踊っても良いのですか」
「どういう意味ですか?」
訝しげにリアムは尋ねる。ハーヴィーは失敗したと思ったが、もう後には引けない。渋々頭の中をよぎった彼の名を口にする。
「いえ。てっきりアレス殿下と将来を誓っているのかと思って」
リアムはサッと視線を逸らした。
「何を仰ってるんですか。私とアレスは――そういう関係ではありません。そもそも、もう会うこともないでしょう。身分が違いますし、彼の邪魔をしたくありません」
「……彼は違うようですが」
カッとリアムの頬に熱が集まる。
何を分かったようなことを、と怒ろうとしてリアムは顔を上げた。が、ハーヴィーは全く見当違いな方向を見ていて、毒気を抜かれてリアムもそちらを見やる。
――こちらに向かってアレスが歩いてくるのが目に飛び込んできた。