29:夢の終わり


 追悼式の翌日には、戦の労をねぎらうため、舞踏会が予定されていた。ワイアネス軍に屋敷を提供していたため、アントワーズ家も招待されていた。リアムはあまり乗り気ではなかったが、式にだけ参加してすぐに帰る、という選択肢は用意されておらず、仕方なしに城に一泊し、舞踏会への参加を余儀なくされることになった。
 リアムにあてがわれた部屋は、一人用の客室だった。すぐ隣がフレイツとエイミーの部屋であり、招待客は、二階から三階まで幅広く配置されていた。一応貴族の娘ではあるが、その内実は養子で、高貴な生まれでも何でもない。そんな身で一人部屋というのは気が気でなかったが、そこがワイアネス城の度量の大きさかも知れない。部屋数も多く、出し惜しみという概念がないのだろう。
 慣れないベッドで早く目が覚めたリアムは、窓辺に立ってぼうっとしていた。窓からの眺めは格別だった。ワイアネス城は丘の上にあるため、都市部が一望できるのだ。かつて暮らしていた塔は、城の中でも閉鎖した場所に設立されていたため、街の光景は見ることができなかった。そのため、一つの都市を上から眺めるという機会は、リアムにとって物珍しい時間だった。距離が離れていて、人々が何をしているかまでは分からない。しかし、その光景はきっと手の届かないものではなく、アントワーズの屋敷に戻れば、リアムもすぐその一部になれるのだろう。
 すっかり窓の外に目を奪われていたリアムは、ノックする音に気づかなかった。その後の、ゆっくりドアが開く音にも。

「失礼します」

 カラカラとワゴンを押し、使用人の女性が入ってきた。一旦ワゴンを押す手を止めると、深く頭を下げる。

「勝手に入って申し訳ありません。ノックをしても返事がなかったものですから、寝ているものと思ってしまいました」
「いいえ、気にしてません。私の方こそぼうっとしていて」

 銀色のワゴンからは、スープのよい香りが漂っていた。リアムの目はついそれに釘付けになる。

「ご朝食をお持ちしました。準備をしてもよろしいでしょうか?」
「はい。お願いします」

 リアムが頷くと、女性はすぐに仕事を始めた。パンを並べ、スープをよそい、お茶を入れ。リアムがソファに座る頃には、すっかり部屋中に食欲をそそる香りが充満していた。

「おいしそうですね」
「ご要望がございましたら、お好きなものをお持ちします」
「これで充分です。ありがとうございます」

 にこりと笑みを浮かべれば、女性は再び頭を下げ、ワゴンを片付け始めた。だが、部屋から退室するすぐ手前で、ふと思い出したように振り返る。

「そういえば、伝言があります。殿下の従者様からなのですが、朝食を食べ終わったら、城門までいらしてほしいと仰っていました」
「ソイルさんですか?」
「さようでございます」

 何の用だろうか、とリアムは内心首を傾げる。ソイルとは屋敷ではずっと顔を合わせていたし、話があるのなら部屋に来れば良いだけのこと。どうしてわざわざ、と思わずにはいられなかったが、伝言を任されただけの彼女をこれ以上引き留めても仕方がない。
 ありがとうございました、と彼女を見送り、リアムは慌ただしく朝食を食べ始めた。どういう要件であれ、ソイルを待たせるわけには行かない。
 折角のお城の豪華な朝食だが、きちんと味わえもせず、リアムは部屋を出た。あまりに慌てていたせいで、外套を着込むのを忘れたが、もはや取りに戻るのも面倒で、リアムはそのまま城門へ向かった。
 城の中は、まるで迷路のようだった。廊下自体は直線のものが多く、迷うこともないのだが、その代わり階下へ降りる階段が全てらせん状になっており、降り立ったときどこへ向かえばで口にたどり着けるのかが分からないのだ。
 すれ違う使用人達に何度も出口を訪ねてようやく城門にたどり着いた頃には、リアムはすっかり疲弊していた。しかし、警備兵が二人いる城門から少し離れた場所、木陰に一人の姿を目に映すと、その疲労が一瞬にしてどこかへ消えてしまう。
 リアムは目を丸くしてただ彼を見つめていた。リアムの到着に気づくと、彼――アレスは颯爽とリアムの方へ歩いてきた。

「昨日はよく眠れたか?」
「ええ……でも、ソイルさんから伝言だって聞いたんだけど」

 アレスの問いにろくに答えもせず、リアムは聞き返した。

「俺が直接伝言すると何かと目立つだろう。だからソイルに。本当はそのままソイルに迎えに行かせようかとも思ったが、一度城の中を自由に動き回るのも良い機会かも知れないと思ってな」
「……そうね。ちょっと気疲れはしたけど、不思議な感覚だったわ」

 伴もつけないで動き回っても、誰にも何も言われないなんて。
 それに、ここがアレスの暮らしているワイアネス城なのかと思うと、妙に感慨深かった。今となってはアレスは雲の上の存在ではあるが、彼が何度も歩いたことのある廊下を、自分もまた通っているのだと。

「それにしても、そんな薄着で寒いだろ」

 言いながら、アレスは己の上着をリアムの肩にかける。

「ちょっと外に出るだけだと思ったから。何か話があるんでしょう?」
「何て伝言を聞いたんだ? 俺は街へ出るつもりだったんだが」
「街?」
「ああ。街へ行こう」

 アレスは悪戯っぽい笑みを浮かべた。よくよく見れば、確かにいつもと少し様子が違った。簡素なシャツに、動きなすそうなスラックスと、至って地味な格好をしている。

「街って……怒られないの?」
「誰に怒られるって言うんだ?」

 肩をすくめ、アレスは不敵な笑みを浮かべた。そして堂々とした様子で城門へと向かう。待ち構えていた門兵はもちろんアレスとリアムとを見比べ、あっと驚いたような顔をする。が、すぐに隣の門兵に脇腹を小突かれ、ピシッと背筋を伸ばした。隣の門兵の方は、リアムも見たことがあった。直接話したことはないが、先日の戦で何度か見かけたことがあるのだ。それは向こうも同じのようで、アレスとリアムにぺこっと頭を下げる。

「お出かけですか?」
「ああ」
「夕方までには戻ってきてくださいよ。またソイルさんに怒られますから」
「分かってる」

 面倒くさそうに答えると、アレスは二人の間をすり抜けた。リアムも落ち着かない様子でその後に続く。小走りに追いつくと、気づいたアレスは足取りを緩めた。

「……ソイルさんに怒られるって」
「今日は出掛けることは伝えてあるから大丈夫だ」
「今日は? 内緒で抜けだしたことがあるの?」
「舞踏会なんて柄じゃないからな。明るい場所は疲れる」
「そう」

 心がざわつくのを感じながら、リアムは頷いた。なんだかアレスが遠い世界の住人のように感じた。舞踏会が頻繁に開催されるような世界に彼は住んでいるのだ。小さな塔の寝室で、リアムの手を握ってくれていた彼はもういない。

「行きたいところはあるか? 好きなところに行こう」
「好きなところ……?」

 言われて、リアムは悩み始める。が、それもすぐに諦めた。行きたい場所と言われてすぐに思い浮かぶほど、リアムはまだ世俗に溶け込めていなかったのだ。

「アレスと一緒にいられるところなら、どこでも」
「そうか」

 リアムの素直な返答に、アレスはとくに嬉しそうな顔もせず、ただ微笑みを浮かべた。

「だったら散歩がてら歩こう。気になるところがあれば入れば良い」
「ええ」

 二人は、しばらく喧噪の中連れだって歩いた。その間に流れる空気は静かだ。しかし、居心地が悪いと言うことはない。何を話さなくとも、ただ隣に彼が、彼女がいるだけでそれで良かった。

「そういえば」

 何てこと無い口調で、アレスが顔を上げた。

「一緒に街へ行くことができれば、連れて行きたい場所があった」
「どこ?」
「ここをまっすぐ行ったところだ」

 明確な答えは口にせず、アレスは足を速めた。そんなに急がなくとも、まだ時間はあるのにと、リアムはクスリと笑った。
 アレスが足を止めたのは、大きな建物の前だった。長い列をなす人々の光景に、ピンと思い当たる場所があった。

「劇場?」
「ああ。物語が好きだったろ?」

 なんとはなしに思いついた名前を口にすれば、アレスは即座に頷いた。

「ええ、確かに好きだけど」
「じゃあ行こう。丁度昼公演の時間だ」

 列に並び、二人揃ってチケットを買う。その時になって初めて、今公演している劇が、以前ソイルと見たものと同じものだとリアムは気づいた。しかし、それをアレスに言えるわけもなく、また、とくに二度見ることに対して抵抗はなかったので、彼と共に劇場へ赴いた。そして――やはり泣いてしまった。

「そんなに感動したのか?」

 劇場を出てもリアムが泣き止まないので、さすがのアレスも呆れたような口調だ。リアムはこくこく頷いた。

「自分でもよく分からないけど、見てると切なくなってきて」
「そういえば昔からそうだったな。特に悲しい場面なんてないのに、読み聞かせが終わるといつも泣いていた」
「昔のことはいいでしょ」

 拗ねたようにリアムはそっぽを向く。アレスの良いようだと、まるで泣き虫のようではないか。

「私はただ……」

 登場人物達が皆、一生懸命生きようとしているところに心を動かされるのだ。自分が無為に生きていたからこそ余計に。

「何か食べるか」

 リアムの機嫌を損ねないよう、アレスはさっと話の方向を変えた。鼻をすすりながら、リアムはこくりと頷く。

「お腹空いたわ」
「行儀は悪いが、歩きながら食べよう。実は少し憧れだったんだ」

 どことなく嬉しそうにアレスは言った。こんな彼は珍しい。
 いろんなものを食べ歩きしながら、リアム達は街を散策した。
 お腹が膨れた後も、通りをブラブラして、互いに疲労を感じ始めたところで、ベンチで休むことにした。一度座ってしまえば、立ち上がろうとするのも憚られて、二人でずっとベンチに腰掛けていた。
 これといって当たり障りのない話を、ポツポツ口にする。目の前の夕日が沈めば沈むほど、自分たちに時間がなくなっていくのを感じた。
 ――ほら。
 つい先ほどまで、差し込む夕日が眩しくて、目を伏せていたのに、今はもうそれも必要ない。
 夜が来たのだ。
 夢の時間は、もうおしまい。現実に戻る時間だ。

「行きましょう」

 立ち上がるしか、なかった。
 このままずっとここにいても、怒られることはないだろう、私は。でも、アレスは違う。アレスは、華やかな舞踏会にいるべき人物だ。

「ソイルさんに怒られるわ」
「リアム――」

 アレスが何か言いかけた。しかし、歩き出したリアムにはもはや届かない。

「行きましょう」

 もう一度リアムがそう言った。