26:誰かのために
夜の野営地は、昼と見まがうほど明かりが絶えることはない。いつ何時来るかも分からない奇襲に備えて、周囲は常に明るく、そして見張りの兵の数も強化している。囲まれた軍に、一時の気の休まる瞬間はないのだ。
見張りの兵に食事を配った後、リアムは最後に救護用テントを訪れた。傷に苦しむ兵の気が休まるように、ここだけは特別に明かりを消してある。リアムは静かに、誰かの足を踏まないように、慎重にテントの奥へ進んだ。
ハーヴィーは、怪我人達の中に埋もれるようにして仮眠を取っていた。彼の白い服は薄汚れ、おそらく他人が見ても彼が医者だとは気づかないだろう。それほどまでに、顔はやつれていたし、目の下にはクマがある。しかしそれは、ここにいる皆全員同じことだった。まるで挑発するように度々奇襲を仕掛けてくるバーバド。大した戦にはなりはしないが、こちらの体力を消耗させるという点では、非常に功を奏していた。
リアムは、どうしたものかとしばらく躊躇ったものの、やがて意を決して彼の肩を揺すった。睡眠は大事だが、彼はこのところまだ何の食べ物も口にしていない。ここは心を鬼にして起こすべきだ。
「先生、食べるものをお持ちしました」
小さな声でそう囁けば、ハーヴィーはゆっくり目を開けた。リアムに焦点を当てると、パチパチとまだ滝を繰り返す。
「起こしてすみません。でも、食べないと体力も持たないと思ったので。スープもまだ温かいので、早く召し上がってください」
「ああ……ありがとうございます」
寝起きの彼は、ノロノロとした動作で起き上がった。あぐらを掻きながら、スープに手を伸ばす。
「……温まりますね」
「熱々のをお持ちしましたから」
リアムはにっこり微笑んだ。換気のため時々このテントは解放されるので、薄着の彼は随分と寒い思いをしたことだろう。それを少しでも解消できればと思ってのことだった。
食欲が戻ってきたのか、ハーヴィーの食事をする手は次第に早くなってくる。それを嬉しそうに眺めながら、リアムは周囲を見渡した。
「どうですか? 皆の様子は」
「幸いなことに、それほど深刻な様子の方はいらっしゃいませんよ。ですが、薬が底をつくのもあと数日でしょうか。早めに戦が終結すれば良いのですが」
「……そうですね」
それは誰しもが願っていることだろう。このまま無事に家に帰りたいと。――しかし、それが本当に叶うのかどうかについては、あえて考えないようにしているのがほとんどだ。
言葉少なになるリアムに対し、ハーヴィーは不意に口を開いた。
「……ワイアネスは、本当に思いやりのある国ですね」
突然どうしたのかと、リアムは内心首を傾げる。しかしその疑問が口から出ることはなく、代わりに黙って続きを待った。
「バーバドに火攻めにあったと聞きました。にもかかわらず、ワイアネスには薬がまだたくさん残っていました。大して食料も持ち運べなかったでしょうに、薬だけは無駄にあったので。きっと、自分たちの食料よりも、怪我人に重きを置いたんでしょうね。食料に関しても、芋や肉など栄養のつく食べ物は、全部怪我人に回して、自分たちは硬いパンを塩水につけて食べて。――本当、いじらしいものです」
返事など期待していないように見えた。だからこそ、リアムもただ黙って怪我人の世話を始めた。
食事が終わると、リアムは手早く食器を片付けた。休憩は終わりだとハーヴィーがまたも立ち上がったので、彼を手で制する。
「もう休んでください。後は私が」
「いいえ、後は朝用の薬を煎じるだけですから、お気遣いなく。お嬢様ももう休んでください」
「…………」
手を止め、リアムは躊躇ったようにハーヴィーを見上げた。
「ハーヴィー先生、一つお聞きしたいことが」
「何です?」
「あの……ハーブってこの辺りでも取れるものなんでしょうか?」
「ハーブ、ですか? 種類にもよりますが。何か必要なのですか?」
「はい……」
リアムは両手を組み合わせながら恥ずかしそうに下を向いた。
「皆さん、痛みで眠れない方も多いので、少しでも落ち着けるように、ハーブティーを作ってあげたいんです。なので、香りが良いものとか、落ち着けるハーブが取れればと思ったのですが」
「まあ……探せばあると思いますが」
「本当ですか!? どんなものか教えていただいても?」
「それは構いませんが――」
ハーヴィーは徐に立ち上がった。
「私も一緒に行きましょう」
それに慌てるのはリアムの方だ。わたわたと両手を振り、彼の裾を引っ張る。
「いえ、大丈夫です。どんなものか教えていただければ、私一人で取りに行きます。先生はお忙しいんですから」
「ちょっとやそっと教えたくらいでハーブの見分けは簡単にはできませんよ。それに、毒草を採ってこられても大変でしょう?」
「…………」
むう、とリアムは唇を尖らせた。確かにそれはそうなのだが、言葉に刺があるというか。
しかし、言い返すほどの自信もなかったので、リアムは仕方なしにため息をついた。
「……では、お願いします。すみません、お手間を取らせてしまって」
「いえ。一息つきたいと思っていた所なので、丁度良かったです」
「ならいいんですけど」
いまいち腑に落ちなかったが、無理矢理納得すると、外に出掛ける準備をした。食器を片付け、外は寒いので外套を着込み、手には籠も持った。対するハーヴィーは、相変わらずの薄い白衣だったが、それほど寒さに弱いわけではないので充分だという。
リアムの疑り深い声と共に、二人は出発した。夜はとうに更け、月は二人の真上にあった。なだらかに続く坂道を登りながら、口数も少ないまま当てもなく歩みを進める。
二人の足が止まったのは、周囲を低い山々で囲まれた草原地帯だった。月の光をさんさんと浴びている小高いその場所は、冷たい空気も相まって、幻想的な風景に見える。リアムはほうっと息をついた。
「この辺りに一番ハーブが群生していそうですね」
草原の中央まで足を進めながら、ハーヴィーは地面を見下ろす。
「お茶にするにはこれが一番でしょうか。いつものよりは味は劣りますが、安眠を促す効果がありますし」
「こんな小さな葉が……。不思議ですね」
ハーヴィーの隣にしゃがみ込み、リアムは近くのハーブに手を伸ばした。
「あっ、それは違います。よく似ていますが、それはただの雑草ですよ。根元をよく見てください。根元から葉が生えているのがハーブです」
「本当だ……」
「私は向こうで薬草を探しますから、何かあったら声をかけてください」
二人は散り散りになり、それぞれ目的のものを探した。離れているとはいえ、なだらかな草原地帯で、互いの姿を見失うことはない。薄暗い月明かりの中、リアムは時折心細さに顔を上げてハーヴィーの姿を探しては、またハーブ探しに戻るのを繰り返した。
しばらく、静かなときが流れる。
ハーブの見分け方を教わったはいいものの、リアムはなかなかにこれがハーブだという確信を持って採集できずにいた。見分けが難しいというのは確かに本当のようで、根元から生えている……ように見えなくもないハーブはたくさんあった。
散々頭を悩ませた結果、もうこれはハーヴィーに直接聞いた方が早いと、リアムは立ち上がった。もくもくと薬草を探す彼の後ろ姿に近寄り、口を開く。
「せんせ――」
足音が止むと共に、声も途切れ。
不審に思いながら振り返るハーヴィー。彼と目が合ったリアムは、少しの間目を丸くしていたものの、途端に弾けるように明るい声で笑い出した。
目が合っただけで笑われたハーヴィーとしては、全くもって面白くない。不機嫌を丸出しで低い声を出した。
「何です?」
「いえ、その、一瞬先生が花を摘んでいるように見えて、おかしくて……」
言葉は悪いが、ハーヴィーと花という光景は、少々不釣り合いに見えた。まるで可憐な乙女のように草原に膝をついて一心に花を集めている様。
リアムが言わんとしていることに気がついて、ハーヴィーは慌てて両手一杯に持っていた白い花を地面に置いた。
「この花の花粉は神経を麻痺させる効果があるので、痛み止めに最適なんです。花に用はありませんよ」
「分かってるんです、分かってるんですけど、おかしくて」
「こっちは真面目にやってるのに、それを笑うとはどういう了見ですか」
「ごめんなさい」
リアムは素直に謝った。生理的な笑いが収まれば、後は理性だけが残った。
「馬鹿にしたわけじゃないんです。ただ、あまりに唐突だったので驚いて」
「言い訳は無用です」
「怒らないでください」
「怒ってません」
ふいと向こうを向いたハーヴィーが拗ねているように見えて、リアムは再び笑いそうになった。が、その気配を感じ取ったのか、またギラリとハーヴィーが睨んでくるので、慌ててどうにかして声を飲み込む。
頬の内側を噛み、笑いを堪えている彼女を見て、ハーヴィーはあからさまに大きなため息をついた。もはや何を言っても無駄と思ったのか、それ以上何を言うでもなく、代わりに白衣のポケットから小瓶を取り出した。傍らの花一輪ずつを手に持つと、おしべの先から葯をそうっと引き抜く。その顔は先ほどとは打って変わって真剣そのもので、まるで施術を施しているかのよう。手慣れたように一輪、また一輪と葯を抜き取り、小瓶に詰めていく。
「何をなさってるんですか?」
彼が集中しているのは分かっていたが、リアムはつい反射的にそう尋ねる。ハーヴィーは気を悪くした様子もなく、ただ手元から視線は外さなかった。
「花粉を採取しているんです。持ち帰るときに花粉が飛んでしまっては元も子もないですから」
「私も手伝いましょうか?」
「もう終わるので結構です」
その言葉通り、彼の作業はすぐ終わった。元通り小瓶にコルクで蓋をすると、徐に立ち上がる。――が、何故だかまたすぐにしゃがみ、放置されたままだった花を集めた。もうからかうつもりはなかったが、彼の手にこんもりと集まる白い花に、ブーケのようだなと思った。
「――差し上げます」
「え?」
ぼんやりしていたリアムは、思わず聞き返した。
「花粉さえ手に入れられればとは思っていましたが、それで用なしでは可哀想でしょう。差し上げます。部屋にでも飾ったらいかがですか」
しばらく困惑に目を瞬かせていたリアムだが、やがて口元を緩めると、元気よく頷いた。
「ありがとうございます! きっと皆喜びますね。テントの中って、いつも殺風景ですから」
「……はい」
リアムの言葉に、ハーヴィーは戸惑いがちに相づちを打った。勘違いをされたようだが、今更それを正すのも気恥ずかしい。
ハーヴィーは再びしゃがみ、今度は違う薬草を探し始めた。リアムも、本来ならまたハーブ探しに戻らなければならないのだが、なんとなくそれではもったいない気がして、草原に座り込んだ。手の中の白い花々に微笑みを向けた後、ハーヴィーの背中に焦点を当てる。
「先生、やっぱり今の方が生き生きして見えます」
「……唐突に何ですか」
「急にそう思って。先生、悪いことには向いてないと思います」
「馬鹿にしてるんですか?」
不機嫌そうな様子を丸出しに、ハーヴィーは振り返った。それがあまりに単純に見えて、リアムは一層笑みを深くする。
「そんな訳ありません。私、嬉しいんです。なんだかんだ言って、一生懸命皆の治療をしてくださいますし。先生のお手伝いができて嬉しいです。私にもやるべきことができて、本当に嬉しいんです」
リアムの素直な言葉は、すんなりハーヴィーの心に入ってきた。何の返事も返さないまま、ただ黙ってリアムを見つめる。
「あなたは――」
何を言おうとしていたかは、ハーヴィーは全くもって意識していなかった。本人ですら分からなかったのだから、相対するリアムはもってのほかだ。途中で邪魔が入らなければ、その続きが明らかになっただろうが、今となっては真実は闇の中。
辺りに響く蹄の音に、リアムとハーヴィーは同時に振り返った。夜空には似ても似つかない音に、突如今は戦時中なのだという自覚が沸き起こってくる。が、暗闇から現れたのは、一頭の騎馬だった。それも、馬の背から颯爽と降り立ったのはアレス。バーバドの兵ではないことに、二人はホッと胸をなで下ろした。
だが、安心したのも束の間のことで、アレスの険しい表情に、再び焦りが生まれる。アレスは真っ直ぐリアムに詰め寄った。
「少しは警戒心を持ったらどうだ」
「え?」
「こんな夜中に二人きりで出掛けるなんて。何かあったらどうするつもりだ」
リアムは目をぱちくりさせた。アレスの言うことももっともだが、しかし。
「さすがにこんな所にまでバーバドは来ないでしょう? ワイアネスの野営地を抜けないと来られない場所なんだし」
「そういう意味じゃなくて――」
アレスはハーヴィーにチラリと視線を向ける。が、結局は何も言わず、頭をガシガシと掻いた。
冷静ではないアレスは珍しいので、リアムは困惑するばかりだ。彼女が立ち上がれば、手の中から白い花びらが一枚舞い落ちる。動くものに気を引かれ、アレスは花に目をやった。
「それは?」
「先生にいただいたんです。部屋に飾ったらどうかって」
「…………」
険しい表情はとかれたものの、相変わらずアレスは眉根を寄せている。なぜこんなにもアレスの機嫌がよくないのか、リアムにしてみたらさっぱりだった。彼の顔色を窺うように首を傾げる。
「心配をかけたのは悪かったわ。でも、皆のためにできることをしたかったのよ。次からはちゃんとアレスに声をかけていくから」
何がアレスの熱を下げるに至ったかは分からないが、とにかく徐々にアレスは眉間の皺をといた。
「籠を。俺も手伝おう」
アレスは、半ば奪うようにしてリアムから籠を受け取る。と、その拍子に互いの手が当たった。アレスは、リアムのその意外な手の冷たさに、またも。
「手が冷たいな。一体どれだけここにいたんだ」
「まだそれほどよ。ハーブだってまだ全然採集できてないもの」
手伝おう、と再びそう口にしようとする雰囲気を感じ取って、リアムは手で制した。
「駄目よ。疲れてるでしょう? すぐに戻って寝た方が良いわ」
「それはお前も同じことだろう」
「お言葉に甘えたらどうです」
リアム達の会話を余所に、一人黙々と作業を続けていたハーヴィーがついに口を開いた。
「殿下は言っても聞かないでしょう。となれば、ここで言い争っている方が無駄ですし」
「…………」
アレスは黙ってリアムを見やる。もう何も言っても自分が動くつもりは毛頭ないようだ。
「ありがとう」
これ以上言っても無駄かと、リアムは微笑むだけに留めた。それに、彼の身体は心配ではあるものの、久しぶりにアレスの顔を見て、ホッとしたというのもある。彼は司令官として忙しく、そしてリアムもまた、ハーヴィーの手伝いに走り回る毎日で、このところ全くと言って良いほど顔を合わせなかった。
アレスのやつれた顔が、今はひどく痛ましく感じる。おそらく、自分も同じような顔をしているのだろう。示し合わせたように、無理矢理二人は笑った。
「よく眠れるハーブティーを作りたいの。根元から葉が生えているものを集めてくれる?」
「これか?」
「それは雑草よ。これが本物」
そんな会話をしながら、二人はハーブ集めに精を出した。とはいえ、雑草とハーブの見分けもできない者が一人増えたところで、時間短縮に繋がるどころか、逆に足を引っ張る始末。
結局、大してハーブも取れず、呆れたような顔のハーヴィーに、リアムとアレスはひたすら項垂れるしかなかった。