25:相互に


 リアムは、はやる鼓動と共に目を覚ました。すぐ直前まで何か嫌な夢を見ていたような気がするが、はっきりとは覚えていない。
 頼りなげに右手を見下ろすが、そこに温かい体温はもちろんない。アレスは忙しいのだ。寝る前に手を握っていてくれたが、起きるときそうでないのは当たり前のことだ。今までだってそうだったのに、今更何を思っているのか。
 テントの中は温かく、よく見れば火鉢が置かれていた。ベッドから抜け出し、そうっと地面に足を下ろす。靴を履きながら、入り口まで歩き、外を覗いてみた。途端に隙間から外気が入り込んで来、リアムは身震いをしたが、顔を引っ込めることはなかった。
 外はすっかり明るくなっていた。空は灰色の雲が覆っているが、雨が降りそうな気配はない。時折顔を覗かせる太陽は真上にいる。丁度お昼頃だろうか。
 何人か兵がリアムのテントの側を通り過ぎた。リアムを見て、彼らは驚いたように頭を下げるか、気づかないかのどちらかだった。
 人通りは至って少ない。活気がないことから、ワイアネス兵の被害が容易に見て取れた。

「リアム様」

 その呼び方に、リアムはハッとして振り返った。瞬間、その顔はがっかりしたものへと変化する。てっきりソイルかと思ったのだ。

「お目覚めですか? お腹は空きました? 朝食をお持ちしましょうか」

 そこにいたのは、一人の小柄な兵士だった。アントワーズの屋敷でもな何度か顔を合わせたことのある人で、スコットと名乗った。リアムはぺこりと頭を下げた。

「おはようございます。朝食があるんですか? 私が取りに行きます」
「いえ、お持ちしますから、ここで待っていてください。殿下にもお世話するように言いつかっているんです」
「そんな。怪我人でもないので、気を遣っていただかなくて大丈夫です」

 リアムは慌てて首を振った。食料や人手が足りない今、ただでさえ足手まといだろうに、リアムはこれ以上迷惑をかけたくなかった。
 知らず知らず強ばった表情になっていくリアムに、スコットもまた困った顔を見せる。

「じゃあ、せめて朝食だけお持ちしますね。外は寒いので、どうか中で待っていてください」

 リアムの返事も聞かずに、彼は走って行ってしまった。仕方なしに、リアムはテントにまた逆戻りをする。面倒をかけて申し訳ないとは思ったが、確かにかっての知らない女が張り詰めた空気の中迷子になったりしたら頂けないだろう。リアムは、大人しくテントの中で待つことにした。
 朝食を届けた後、忙しいのかスコットはすぐにまた出て行ってしまった。リアムは一人静かに朝食をとり、そして食べ終わると、手持ち無沙汰になった。スコットには、アレスからの伝言で、今日は一日ゆっくりしていろと伝え聞いていた。
 確かに、アレスが心配していたように、身体も怠かったし、頭痛もあった。しかし、じっとしていることなどできず、リアムは立ち上がった。そして外に出ようとして、はたと気づく。己の格好に。
 今リアムが身につけているのは、一枚きりの寝間着だった。アントワーズから誘拐されて、一度も着替えることなく、一日中寝たり、水を浴びせられたりしていたので、薄い寝間着はすっかりよれよれになってしまっていたのだ。
 こんなはしたない格好では、外に出ることすらできない。
 しばらく意味もなくテントの中を歩き回っていたリアムだが、ふと簡易式の椅子の上に置かれている籠に目をとめた。心惹かれるようにすすすと近づき、中を覗く。
 中にあったのは、折り畳まれた衣類だった。手に取ってみると、男性用のものらしく、かなり大きい。アレスのだろうか、とリアムは少しばかりワクワクしながら広げてみる。
 これを着ろと言いたくてここに置いていたのだろうか。もしそうでなくても、どちらにせよ、今の格好のまま外に出るわけにはいかない。リアムは有り難くアレスの服を借りることにした。
 着替えた後は、緊張の面持ちで静かに外に出た。相変わらず空は薄暗く、どんよりしている。キョロキョロしながら野営地の中を歩き回る。
 時折すれ違う兵士からは、物珍しい視線を強く感じた。声をかけてくる者もあったが、長く会話は続かず、すぐに別れる。皆、世間話をしようという気概はなく、いつ来るとも分からないバーバドの奇襲に対してピリピリしていた。
 そんな折、ふとリアムは足を止めた。ここ数ヶ月で、すっかり嗅ぎ慣れた臭い――血の臭いを嗅ぎ取ったのだ。その臭いは、すぐ側のテントから漂っていた。中からは複数のうめき声が漏れ出している。
 リアムは全身を硬直させた。中を覗く意気はなかった。自分がしてしまったことを目の当たりにする勇気もまたない。きっとこの中にソイルもいるのだろう。自分のせいで、酷い目に遭っていたソイル。彼に謝罪以外の何ができるだろう。何をしないといけないのか。
 そこから逃げ出すかのように、リアムは足早に過ぎ去った。顔を下に向け、後ろめたい思いでひたすらこの場から逃げた。
 行く宛がなかった。どこに行って、何をすれば良いのだろう。
 しばらく放浪していたら、よっぽど目についたのだろう、スコットがやってきた。

「もしかして、殿下をお探しですか?」
「え?」
「案内しましょうか?」

 唐突な話に、数瞬リアムは目をぱちくりさせた。が、すぐに我に返ると、申し訳なさそうに首を振る。

「折角ですけど、遠慮しておきます。アレスも忙しいでしょうから。それよりも、ハーヴィーさんがどこにいるか教えていただいても良いですか?」
「先生ですか? 先生がいらっしゃるんですか?」

 逆に尋ねられ、リアムは詰まってしまった。この様子では、ハーヴィーが実はバーバドの間者であったことを知らないのだろう。となると、まだハーヴィーはどこかに軟禁されているのか。

「先生がいるのなら、救護室にいらっしゃるのでは? でも、先生が来てくだされば百人力ですね。看護兵も少ないので、本当に助かります」

 上機嫌でスコットが去った後、リアムはハーヴィーがいるかもしれないテントを探した。一度裏切ったことを考えて、おそらく野放しはしないはずだ。見張りが立っているテントは少なかったので、探索はすぐに終わった。どのテントよりも、見張りの兵が緊張の面持ちをしているのだから、それは当然だろう。
 彼らに中に入っていいか尋ねると、拍子抜けするほど簡単に了承を得られた。アレスから許可は得ているらしい。
 リアムはそうっとテントの中に入った。捕虜――ではないが、一応敵の者であるハーヴィーを軟禁するには、綺麗な場所に見えた。清潔だし、少しだが家具もある。ハーヴィーは、簡易式の椅子に腰掛けていた。
 訪問者に驚くわけでもなく、彼はチラリとリアムに視線を向けただけだった。

「私を笑いにきたのですか?」

 そして紡がれた言葉には、敵意しかない。リアムは困惑に首を眉を顰めた。

「そんな訳ありません。私がどうして――」

 途中まで言いかけて、リアムは口をつぐんだ。しばらく逡巡した後、肩の力を抜いてまた口を開く。

「行く宛がなくて。皆、やるべきことがあるのに、私は手持ち無沙汰なんです」

 リアムは、疲れたようにしゃがみ込んだ。

「皆に合わせる顔がないんです。どうしたら良いのかも分かりません。私、何も分かっていませんでした。自分の力がどういう影響を与えているのか――バーバドに行って初めて気づきました。私の力は人を殺めるものだったんですね」

 ハーヴィーは眉根を寄せ顔を上げた。物言いたそうに僅かに口を開くが、結局そこから言葉が出てくることはない。

「ワイアネスにいた頃は、民の命を救っていると思っていた力は、立場が違えば、殺戮にしかならない。私の力は、人の命を左右するものだったんです」

 リアムはぼんやりハーヴィーを見つめた。

「ハーヴィーさんが羨ましいです。あなたは人の命が救える。その力がある。バーバドでもワイアネスでも、それは変わりません」

 羨ましかった。それだけの力があるのに、皆の役に立てるのに、何もしないなんて。

「私にそのお手伝いをさせてくれませんか?」

 無意識のうちに、リアムは前のめりになった。一方で、ハーヴィーは身をのけぞらせる。

「私にワイアネスの手助けをしろと?」
「はい」

 間髪を入れずリアムは頷いた。真剣な瞳だった。

「ワイアネスでもバーバドでも、同じ人間に変わりはありません。国境なんて関係ありません。あなたは何のために医者になったんですか?」

 煮え切らない態度に業を煮やし、リアムはハーヴィーの腕を掴み、無理矢理立たせた。

「行きましょう」

 ハーヴィーは、驚いたような、怪訝そうな表情を浮かべた。

「手当をするには、縄を解いてもらわないと。でも私は捕虜ですよ。許してもらえるわけが――」

 テントを出たところで、ハーヴィーの声が止む。思いも寄らない人物が目の前に立っていたからだ。

「アレス……」

 アレスは、リアムとハーヴィーとを目にしても、別段驚いた様子はなかった。悲しそうにリアムを見つめ、そして優しく彼女を抱き寄せた。

「アレス?」

 ただ戸惑うようにリアムは再度彼の名を口にした。が、やはりアレスは反応せず、ただリアムの頭をポンポンと叩いた。

「俺はいつでもお前の味方だ」
「……ありがとう」

 アレスの腕の中は落ち着いた。高ぶっていた感情が少しずつ冷やされていく。

「アレス、先生に手当てをしていただいてもいい?」
「元々そのつもりで連れてきたんだ。当たり前だろう」

 リアムを離すと、アレスは剣を抜いた。手早くハーヴィーの縄を切る。あまりにもあっさりした言動に、ハーヴィーは目をパチクリさせた。

「逃げるかも知れませんよ」

 ハーヴィーは素っ気なく言い放つ。視線を下に向け、投げやりな口調だ。アレスは呆れた顔で見下ろした。

「お前は捕虜じゃないから、逃げるなら逃げろ。こちらとて追う気もない」
「…………」
「お前次第だ」

 ハーヴィーは目を見開いたまま何も答えなかった。
 リアムはしばらく待ったが、ハーヴィーが動かないのを見て取ると、彼の腕を掴んで外に出た。真っ先に向かうは、医務室代わりのテントだ。先ほどとは打って変わって、心の準備はできていた。それでも、怪我人が大勢いるであろう中に入るには勇気がいる。リアムは、震える手でテントの膜を押し上げた。

「…………」

 誰も、今し方入ってきたリアム達に目を向ける者はいなかった。皆、己のことに手一杯だったからだ。うなされる者、怪我に苦しむ者、彼らの手当に悩殺される者――。
 リアムはその場に立ち尽くしていた。彼女の瞳にはしばらく何も映らなかった。ただ頭の中に懺悔と後悔の文字だけが繰り返し巡る。
 どうすればよかったのだろう。私がいなければ良かった? 自害でもしていれば?
「リアム様?」

 リアムの硬直をといたのは、一つの声だった。ハッとしてその声が聞こえた方向を見れば、途端に彼女の表情はくしゃりと歪む。

「――ソイルさん」

 彼は、大勢いる傷病人の中の一人だった。腕や足には青あざがあり、そして何より、脇腹に巻かれている包帯には痛々しく血が滲んでいる。

「本当にごめんなさい」

 顔を背け、リアムは両手を握りしめた。爪が肌に食い込んだが、リアムは気づきもしない。

「私のせいでごめんなさい。すみません……」

 胸が押しつぶされそうだった。自分のせいで怪我を負った人を、彼女は今日初めて目にした。ソイルだけではない。ここにいる全員が、リアムの力による被害者だった。申し訳なさとやるせなさで、どうにかなってしまいそうだった。
 背中を丸め、消えてしまいそうなほど小さくなってしまったリアムに、ソイルは手を伸ばした。

「謝らないでください。むしろ、俺の方が申し訳ない。リアム様の護衛を言いつかっていたのに、まんまと捕虜になるなんて。本当に情けないです」
「…………」
「リアム様は何も悪くありません」

 笑みさえ浮かべて、ソイルはそう口にした。その顔を見れば、彼が本心でそう言っているのだとすぐに分かった。だからこそ、一層居住まいが悪くなる。
 彼は何も悪くないのに、どうして謝るのだろう。――いや、謝らせているのは自分だ。私のせいで、彼は謝っている。私の存在が、余計に彼を――彼らを苦しめているのでは?
 リアムは咄嗟に立ち上がった。何をしよう、どこに行こうなどと考えてはいない。とにかくここではないどこかに行きたかった。ここから逃げたかった。

「どこに行くのですか?」

 後ずさろうとするリアムに、ハーヴィーは背を向けたまま声をかけた。リアムは、冷や水を浴びせられたように身体を硬直させる。ハーヴィーの声は淡々としていた。

「メソメソしている暇なんてありませんよ。自分のせいだと仰るなら、何か行動を起こしたらどうです。泣いたって現状は変わりません。さっきの気迫はどうしたんですか」

 ハーヴィーはゆっくり振り返り、リアムを真正面から見据える。

「怪我人の士気を下げるだけなら出て行ってください」

 一瞥すると、ハーヴィーはすぐに身を翻し、リアムに背を向けた。それ以上は何を言うでもなく、ただ黙って怪我人達の治療を行う。
 咄嗟に応えられないリアムに対し、いち早く反応を示したのはソイルだ。

「なぜ……」

 始めは驚いたように目を見開いたソイルだが、やがてその瞳には剣が宿る。

「なぜあなたがここに? 捕虜として連れられたのですか?」
「…………」
「裏切っておきながらよくもまあ平気な顔をしていられるものですね。この有様を見て――」
「私が頼んだんです」

 凜とした表情でリアムは顔を上げた。ようやく心が決まったのだ。

「――私は何をすれば良いですか? 手伝います」

 ハーヴィーはチラリとリアムに視線を向けた。視線が絡まったのはほんの一瞬だった。再び前を向くと、静かな声で指示をする。

「……清潔な包帯と湯を持ってきてください。あと、寒いでしょうが、テントの入り口も開けておいてください。ここは空気が淀んでる」
「はい」

 しっかり頷くと、リアムは駆け足で入り口まで歩み寄ると、幕を開け放った。肌寒い空気が途端に身を切るように入ってくる。怪我人達がうめき声と共に身を震わせる。今まで死んだように反応がなかった彼らの、人間らしいようやくの反応だった。
 目が覚める思いだった。ひんやりとした空気を身体中に取り込み、今一度心を決めると、リアムは走り出した。