23:攻防
周りを山に囲まれたモンローは、身を隠すには充分な土地だった。バーバドとの国境からは確かに近いが、崖や川で入り組んだこの地は、攻めるには難しく、また寒暖差も激しいため、長期戦には向かない。
そのため、アレス達は、しばらくここで増援を待ち、加勢が来たところで、傷病兵を入れ替わりに、そのまま待機させる算段だった。ところが、アレス達の元にやってきたのは、加勢ではなく敵兵。それも武装に武装を重ねた、明らかにワイアネス兵団を狙いうちにしたバーバド兵だった。
知らせを受けたとき、アレスはすぐにテントの外に出た。フレイツと共に今後の戦況の立て直しを図っていたところだったが、それどころではなくなってしまった。あまりに大きい鬨の声に、並々ならぬ焦りが生じたのだ。
武器を手に外へ飛び出すと、一番に目に入ってきたのは煙だった。火攻めかとアレスは顔を顰めたが、しかしどうやら様子がおかしい。火攻めにしては火の気は少なく、むしろ敵兵は撤収しているようにすら思えた。
一体何がしたいのか、そう不審に思ったとき、アレスはようやく彼らの意図に気づいた。野営地の西方――食料を保管してあるテントを、彼らは逐一火を放ったのだ。火攻めではなく兵糧攻め。いくらワイアネスの地だとはいえ、ここは辺境地だ。救援や物資もそう簡単に届けられないこの地で、長期戦を挑むつもりなのだ。
バーバドも他国の地で長期戦は厳しいはずなのに、なにか勝算があってのことなのか。
兵達は、必死に消火活動を続けていた。が、近くに川もなく、あるのは僅かな飲み水だけだったので、なす術もない。
「鎮火は諦めて、あるだけの食料を運び出してくれ。ここはもう引き払う」
テントへ駆けつけ、アレスは兵達に呼びかける。突然の奇襲――しかも一刻を争う火災に、彼らはアレスの声すらも届かないようだった。焦ったように今では貴重な水を鎮火のために消費していく。
再度声を張り上げようとアレスが息を吸ったとき、彼の隣に並び立つ者があった。
「鎮火は中止だ」
フレイツだった。
歴戦の戦士の声はよく響く。低く、良く通る声だという以外に、過去何度も自分たちを救ってきた将の声だということも大きいだろう。――アレスとは、何より場数も信頼も違うのだ。
一人、また一人と兵達は手を止めてフレイツを見た。それを合図に、彼もまたアレスを見る。続きをどうぞといわんばかりの視線に、アレスは苦笑いを浮かべるしかなかった。
「――鎮火は諦めて、できる限り食料を運び出してくれ。ここはもう引き払って、体勢を立て直す」
「はっ」
一斉に返事をし、それからはもう兵達はすっかりいつもの調子を取り戻した。統率の取れた体制で食料を運び出し、野営をうつる準備を始める。その傍らで、アレスとフレイツ、そして将官達が集まった。
「どこへ向かわれるおつもりですか」
短く問うたのはフレイツだ。眉間に皺を寄せ、アレスを見る。
「難しいところだな。平地ではまず不利だろう。こっちは兵も少ないし、また今回のように弓でも使われたらひとたまりもない」
「ですが、山奥で陣を張っても似たようなものです。囲まれる心配はないですが、逆に逃げ道を失うということでもあります。それに、囲まれたら物資の確保もできない。長期戦になると一層厳しくなります」
「…………」
眉間に手を当て、アレスは深々と息をついた。相変わらずと厳しい戦況に、ため息が止むことはないのだ。
「まるで手の内を見透かされているようでやりにくい。誰か主導者が交代したのか?」
「バーバドは血筋を大切にする国家ですから、実力者が成り上がったとは考えにくいですが。頭の切れるものが頭角を現してきたのかも知れませんね」
こんなことを話していても仕方がないことは分かっていた。アレスはもう一度息を吐き出すと、顔を上げた。
「地の利を取る」
「山へ逃げ込むのですか?」
「ああ。兵力の面でこっちは圧倒的に不利だ。入り組んだモンローで迎え撃つしかない」
「そうですね。何とか持ち堪えて、援軍とで挟み撃ちするしかありません」
将官達も同調するように頷く。しかし、言い出した側のアレスは、なおも浮かない顔で黙り込んでいた。
「何か気がかりなことでも?」
フレイツが機敏にアレスをうかがい見る。しばらくの沈黙の後、彼は首を振った。
「……いや、何でもない」
考えすぎだ。それは明らかに。
アレスは嫌な予感を覚えていた。
――まるで手の内を見透かされているようでやりにくい。
自分で言った言葉が、今更ながらに胸騒ぎを起こしたのだ。
まさか、そんなはずがないと思う一方で、今自分たちに降りかかっている窮地の数々が、かつてのバーバドに重なる。リアムの予知夢に従って、バーバドを窮地に追い詰めていたかつてのワイアネス。
リアムのように予知夢を使えるものがバーバドに渡ったのか、それとも本当に頭の切れる者が指揮官になったのか。
そのどちらにしても、アレスは嫌な予感を拭えない。もしこの先の地で待ち伏せをされていたらと想像してしまったのだ。しかし、待ち伏せに踏み切るとしても、バーバドは山と平地とで兵を二分せねばならない。加えて、向こうはモンローの地をまるで知らない。遠くから見た外観に反して、低山含むモンローはかなり入り組んでいて、よそ者が迂闊に入り込めるような場所ではない。待ち伏せを企もうものなら、自分たちが道に迷ってしまって、袋小路に入るのがオチだ。
だが、それでも侮ってはいけないとアレスの頭の奥で警鐘が鳴る。かつて、同じようなことがあったのだ、今とは真逆の立場で。
地理も全く分からないバーバドの地で、兵団を追い詰める作戦に出たとき。リアムの予知夢は非常に良く役だった。バーバドの地を細部に至るまで詳細に語った彼女の予知夢に敵う者など何もなかった。
それが今はどうだ。
予知夢に頼らず、自力でバーバドに立ち向かおうとした途端これだ。
アレスは自分が情けなく、そして申し訳なかった。自分ではない超人的な何かに頼り切りなことも、自分を、国を信じて忠誠を誓ってくれる兵達に対しても。
「殿下、準備ができました」
考え詰めるアレスに、兵が声をかけた。野営地を引き払う準備が整ったのだ。彼はアレスの馬も連れていた。
「――分かった」
暗い思考に蓋をし、アレスは馬に飛び乗った。列をなす兵の先頭まで駆け、フレイツの隣に馬を並べる。
「先頭をいかれるのですか? 殿下は後尾の方がよろしいかと」
「……待ち伏せを想定して?」
「待ち伏せとまではいかずとも、最悪の事態は想定しておかなければ。今のバーバドは油断なりませんから」
「そういうフレイツ殿は先頭を行くのか?」
「国の主となる方と戦陣を退いた軍人とでは比べものになりませんよ」
フレイツの言葉に納得したわけではないが、アレスは黙って後尾へと移動した。これからのことを熟考するには辺りを探る必要のない後尾は最適だったのだ。
兵団はやがて坂道へさしかかった。幸か不幸か、少ない食料のおかげで機動力は申し分なかった。問題は気温だろう。凍える風が吹き付ける山道は、ひどく身体に堪えた。
やっとのことで坂道を登り終えると、入り組んだ山道が兵団を待ち構えていた。葉を全て落とした木々に、今にも崩れ落ちそうな崖の数々。
土地勘のある将官に従って、山道を行く。遠征を度々行っている兵団にとって、これくらいの山道はお手の物だった。だからこその油断もあったのか。周囲に気を配るのが遅れた。
気がついたときには、目の前で、隣で、後ろで悲鳴を上げて倒れる者が数名。身の回りだけでなく、あちこちから苦しそうなうめき声が漏れる。一気に冷える頭が、ヒュッと耳元を何かがかすめる音を捉える。矢だった。火矢がどこからか放たれているのだ。
ワイアネスは待ち伏せされていた。バーバド兵は崖の上から姿を現し、優位なその場所から火矢を放つ。
奇襲に態勢を整える間もなく、ワイアネスは壊滅的な被害を被った。長い列をなして行軍していたせいで、前と後ろでろくに統率が取れなかったのだ。かといって、どちらかが前進、後退したとしても、もう一方が孤立し、バーバドの思う壺になってしまう。
早い段階で、前進するべきとアレスが下した判断は英断だといえよう。後退しても、後ろにバーバド兵が待ち構えている確率は高く、前方の方が、バーバドも囲い込みがしやすいからと判断したのだ。
わずかな兵と共に、アレスはやっとのことで山の麓に陣を構えた。兵達は皆疲弊していた。テントを張り終えた彼らは、束の間の休息をとるでもなく、まるで示し合わせたようにアレスの周りに集まった。何かもの言いたげに、不安そうに各々顔を見合わせる。
アレスは無意識のうちに口を開け、そしてまた閉じた。唾を嚥下し、静まりかえった周囲をゆっくり見渡す。
「――どうやら、バーバドはこれまでのバーバドと違うようだ。俺たちは今までにない苦戦を強いられている」
兵達の顔が曇る。改めて言葉にされることで、不安が募ったのだろう。
「だが、俺はそれでもこの苦境を乗り越えられると信じている。ワイアネスの連戦に驕ることなく、真に訓練に身を投じてきた皆の姿を知っているからこそ、自信を持って言える」
彼らは皆、予知夢の存在を知らない。ただ指揮官が有能だとだけ思っているはずだ。そしてその腕と頭脳を疑いもせず、自分たちを勝利に導いてくれる指揮官のためにも、国のためにも、一層訓練に身を捧げてきたのだ。
ワイアネスがこれまでずっと不敗を誇ってきたのは、何も予知夢だけの力ではない。ワイアネス兵団の、ただがむしゃらに国を、指揮官を、民を思うからゆえの結果である。それをアレスは誰よりも確信していた。誇っていた。だからこそ、予知夢から自立する決断ができたのだ。
「これから長期戦になるだろう。食料も残り少ないし、怪我人も多い。助け合いが必要になるだろう。それでも、俺についてきてくれるか?」
アレスが口を閉じると、場は再び静寂に包まれた。しかしそれはほんの一瞬のことで、次の瞬間には、割れんばかりの歓声に包まれていた。
いつもの半数もない部隊とは思えない声量である。そして、アレスがさっと手を挙げると、その声はすぐに止んだ。
「各自、今夜はゆっくり休んでくれ。向こうは長期戦をお望みだ。おそらく今夜は襲撃はないはずだ」
――俺だったらそうする。
かつての慢心を思い出し、アレスは軽く目を瞑る。彼の中で、一つの疑念が首をもたげたのだ。以前から疑ってはいたが、こうもバーバド側に有利な状況が続くと、さすがに『それ』を想定しないわけにはいかない。
だが、今ひとつ確証に欠けていた。そのことを裏付ける証拠がなければ、アレスは動けない。
会合を終えた後、アレスは早々にテントに引き上げた。フレイツや将官達と先のことについて話したいのはやまやまだが、今の彼には生憎と余裕がなかった。
無謀だとは分かっていたが、深夜、アレスは一人野営地を抜け出した。囲い込みをしかけているバーバドを突破するのではなく、崖に沿って一人夜の山道を歩く。
一種の予感と賭け。幸か不幸か、こういうときの彼の予想は当たるのだ。
アレスは、離れたところから自分をつけている者がいることに気づいていた。足音は忍ばせているが、隠しきれない息づかいが六つ。自分もなめられたものだとアレスは鼻で笑う。
ただ指揮するしか能のない指揮官と思われているのか。いや、もしかしたらそれすらできない飾り物の王子と侮られているのかも知れない。
やがて、アレスは行き止まりにぶち当たった。周囲を崖に囲まれ、逃げる道は今来た道しかない。しかしそれすらも、バーバドの刺客六人に阻まれている。
彼らは、奇妙に思わないのだろうか。王子ともあろう人物がこんな所で何をするつもりなのか、と。
しかし、彼らの気持ちもよく分かった。要は、思考が停止してしまっているのだ。予知夢が示してくれた答えに間違いはないと。予知夢に従ってさえいれば、間違うことはないと。
過信は、アレスもかつて経験していた。確かに、予知夢に間違いはない。しかし、予知夢が示す意味、原因、そして何より、今から起こる出来事が本当の現実なのだということを理解しない限り、足下をすくわれることにもなり得る。今のように。
「バーバドの刺客か?」
アレスは声を張り上げる。六人の刺客は、声に従い、やがて姿を現した。皆黒ずくめの格好で、闇夜に溶け込んでいる。
彼らはすらりと剣を抜いた。話し合いをする気はさらさらないらしい。それはアレスも同じことで、黙って剣を抜く。
――最悪なことに、予想が当たってしまった。
これでアレスは確証を得たことになる。リアムか、それとも他の予知夢ができる誰かが、バーバドにいる、と。
アレスの瞳が冷たい火を宿す。
決して手を出してはいけない人に手を出した。
バーバドがそのことに気づくのは、一体いつになるのか。
夜はまだ長い。今のアレスには、そんなことを考える余裕すらあった。