22:夜は終わらない


 リアム、ソイルを連れた一行は、バーバドの兵の駐屯地へ向かった。ワイアネスとの国境ギリギリに野営をしているらしいが、やはり馬で行くには日数がかかる。その間、男達のリアムはソイルへの扱いは相当な物だった。
 予知夢のために、睡眠薬でリアムを眠らせることはもちろんのこと、気が短い男達は、予知夢を見た頃合いを見計らい、冷たい水を浴びせて彼女を起こした。強制的に眠らせ、そして強制的に起こす。
 ソイルへの仕打ちはそれ以上に酷かった。少しでもリアムが予知夢のないようについてまごつけば、ロジャー達は遠慮無くソイルをいたぶった。殴る、蹴るは当たり前、剣で切りつけ、鞭を振るうこともあった。
 自分の言葉に、行動に、ソイルの命がかかっている。
 そして、ソイルを助けようとすれば、遠くの地で何百人もの兵が犠牲になってしまう。
 ――私が捕まってしまったせいで。私にこんな力があるせいで。
 リアムは予知夢の力を持って生まれた己を強く責め、また無力さに押しつぶされそうにもなった。心身共に疲弊し、次第に何も考えられなくなっていく。
 バーバドの駐屯地にたどり着いても、事態は好転しなかった。むしろ、敵の懐に入ってしまったという絶望しかない。周りを敵に囲まれたこの野営地から、どう逃げ出せというのか。
 小屋にいたときのように、四六時中監視されるということはなかったが、代わりにリアムは小さなテントに押し込まれた。そこには簡素なベッドと椅子が用意されているのみで、入り口には常に見張りが立っていた。ソイルは彼女とは別の場所に連れて行かれた。そして、リアムの予知夢の調子が良くないときだけ、脅しとして連れてこられるのだ。
 予知夢を見る度、リアムはワイアネスが劣勢に立っていくのをまじまじと見せられることとなった。そうさせているのは自分で、これからもきっとそれは変わらない。悲しい予感だった。
 幸か不幸か、リアムの予知夢にアレスは全く出てこなかった。無意識のうちに、彼の夢は見たくないとリアムが拒んでいるからかもしれない。リアムの予知夢のせいで苦しんでいる彼は見たくなかったし、もしかしたら怪我をするかもしれない瞬間を見るのはもっと嫌だった。
 しかし、その時はやってきた。むしろ遅いくらいだった。戦時であることを鑑みれば、もっと早くにリアムにその話が来てもおかしくはなかったのだから。

「アレス殿下が一人になる時はいつですか?」

 ワイアネスの戦況を伝え、一息ついていたときだった。まだほんの少し前に服用した睡眠薬の効果が残っており、頭が重たい。そんな状況でも、ハーヴィーの言葉は一番に耳に飛び込んできた。

「アレス殿下はいつ一人になりますか?」

 聞こえてもなお、リアムが何も答えないので、ハーヴィーはもう一度尋ねた。
 リアムは頭が悪いわけではない。彼の問いが示す先の行動は、容易に想像がついた。震える手に、爪を立てることで冷静を保とうとした。何か良い方法はないかと必死に考えを巡らせるが、自分の意志とは裏腹に落ちてくる瞼と、感じる閉塞感に、正常な思考は期待できない。

「要求は伝えました。後はもう寝るだけですね」

 ハーヴィーは冷たい声で突き放した。

「睡眠薬は必要ですか? あまり多用すると危険ですから、先ほど飲んだ効果がまだ薄れていないのなら、そのまま眠って欲しいのですが」

 速い呼吸を繰り返すリアムに対し、ハーヴィーは横になるよう促した。目を閉じ、身体を横たえた彼女に、ハーヴィーは告げた。

「分かってらっしゃいますね? 次に目を開けたとき、何を言わなくてはならないのか。私たちの納得がいく報告ができなければ、尊い命がなくなることになります」
「先生はお医者様ではないのですか?」

 リアムは微かに目を開けた。

「人の命を助けるお医者様ではないのですか? どうしてこんなことをさせるんです? 先生にだって、大切な人はいらっしゃるでしょう?」
「医者とて、生きていくために必要なものはあるのですよ」

 突き放したような言い方に、リアムは唇を噛んだ。

「私は、屋敷で先生のお手伝いができて嬉しかったです。私でも誰かの役に立てることが分かって嬉しくて」
「誰にでもできる仕事なのに?」
「――あなたにそう決めつける権利はありません」

 静かに言い返せば、ハーヴィーは片眉を上げた。不愉快そうな顔色のまま、視線を逸らした。

「雑談はもう結構です。あなたにはやるべきことがあるでしょう? 包帯を替える仕事などではなく、もっと大切な仕事が。あなたの行動一つで大勢の人の命が左右されるんです。どうかそれをお忘れなきよう」

 ハーヴィーはそそくさとテントを出て行った。彼がいなくなった後も、リアムはなかなか寝付けなかった。眠たい頭とは裏腹に、未だ心が決めかねる。
 ……アレス。
 彼のことが頭から離れなかった。


*****


 半身を覆う冷たさに、リアムは否応なく目を開けた。ぐっしょりと濡れた寝間着は、すぐさまリアムの体温を奪う。あまりにも冷たい水は、しかし寝起きの頭を覚醒させるには充分だった。彼らもそのつもりでいつもこの方法を使って起こすのだろう。
 リアムは身体を起こしながら、睨み付けるようにして彼らを見た。

「どうだ」

 短い言葉で、ロジャーは尋ねる。彼の言わんとしていることは想像がついたが、リアムは答えない。

「見たのか見てないのか。それだけでもさっさと答えろ」
「…………」
「見たんだな?」

 しまった、とリアムは思った。見てないと答えれば、ほんの少しの間でも時間稼ぎができたかもしれないのに。虚言が露呈したときの報復が恐ろしく、リアムは要領よく対処することができなかった。
 後悔に苛まれる間もなく、ロジャーの指示でソイルが連れてこられた。最後に会ったときよりもアザが多い。手足は痩せ細り、血の滲んだ包帯が痛々しい。
 背を押されるようにして、ソイルは床に投げ出された。

「で、アレスはいつ一人になると? 戦争を手っ取り早く終わらせるためには、向こうの希望を断つのが一番だ。アレスには死んでもらう」

 しんと静まりかえる。空気までもがピンと張り詰めた。

「こいつがどうなってもいいのか?」

 ロジャーはソイルを足蹴にした。ソイルは僅かに顔を上げ、リアムを見た。猿ぐつわを噛まされていても、その瞳は語っていた。決して口を開くな、と。
 ロジャーはなかなか口を割らないリアムに、苛立ったように足踏みをし始めた。

「そうかそうか。お前はアレスとこいつの命を天秤にかけた結果、王子様の方を取るわけだ。こっちはどうなってもいいと?」

 剣を抜き、何てことない動作で彼はソイルの肩に剣を突き立てた。その顔に同情も遠慮も躊躇すらない。ソイルはくぐもった悲鳴を上げ、リアムは彼から目を逸らした。
 もうどうしたら良いか分からなかった。アレスの居場所を吐くわけにはいかない。でもそうしないとソイルが殺されてしまう。
 ソイルは脂汗を滲ませながら、苦悶の表情で悲鳴を殺していた。リアムに罪悪感を抱かせないよう、口を閉ざすことを心苦しく思わせないよう、そんな彼の配慮が容易に見て取れる。
 雁字搦めだった。二人とも死んで欲しくない。でもどちらか選ばなければ。
 ボロボロとリアムの瞳から絶えず涙がこぼれ落ちる。板挟みの状況に、心が押しつぶされてしまいそうだった。

「やれ」

 ソイルはうつ伏せに転がされた。男達に四肢を押さえつけられたまま、彼は身動きができなくなる。ロジャーはその首に剣をかけ、リアムを見た。

「それがお前の答えか」

 ロジャーは剣を振り上げた。鈍く光る切っ先に、リアムはもうじっとしていることができなかった。

「やめてっ!」

 咄嗟に飛び出すと、リアムは蹲るようにソイルの上に覆い被さった。リアムよりもずっと体格もがっしりしているはずなのに、今のソイルは、小さく、頼りなく感じられた。彼を偽性にすることなどできなかった。

「夜……」

 押し殺したような声がリアムの口から漏れる。

「満月の夜に、山奥で……。周囲は崖に囲まれています」
「山奥の崖だと? どこのだ?」
「モンローですね? 今ワイアネスが野営している」

 ハーヴィーが口を挟む。リアムは力なく頷いた。

「本当にアレスは一人なんだな?」
「はい……」
「満月まであと七日とありません。ワイアネスが強気でいられるのも今のうちかと」
「そうか」

 ロジャーは満足そうに頷いた。

「すぐに報告に行くぞ。おい、そいつは連れて行け。死んだら困る。手当もしておけよ」
「はい」

 立つ気力もないソイルを抱え、ハーヴィーはチラリとリアムに視線を向ける。リアムは脱力し、うつろな瞳で床を見つめていた。
 男達がいなくなってもなお、リアムは微動だにしなかった。何も考えられない。視線の先に微かにうつった椅子が、僅かにリアムの興味を引く。
 死にたい。
 ふとリアムはそう思った。生きているだけで誰かに迷惑をかけるようなら、速やかに命を絶った方が良いのではないか。私がいなければ、ワイアネスの兵が苦しめられることも、ソイルが虐げられることも……アレスが死ぬこともなかった。
 ――アレス。
 溜まっていた涙が再び頬を滑り落ちる。リアムは立ち上がった。よろよろとベッドに近寄り、シーツを剥ぎ取る。丸めて縄のようにすると、梁の下に椅子を置いた。簡易的なテントだが、一日取り分の重さくらいには耐えられるはず。
 リアムは椅子の上に立ち上がった。シーツで輪を作ると、反対側を梁にくくりつける。体重を支えられるようしっかりと結ぶにはなかなか手こずったが、やがて準備を終えた。
 リアムは、無感動にシーツの縄を見つめた。ほんの少しの辛抱だ。ほんの少しの苦痛で、楽になれる。怖くないわけではない。しかし、自分の命を持ってして誰かが助かると思えば可愛いものだ。自分のせいで誰かが苦しむことほど辛いものはなかった。
 震える手で縄を捕まえ、己の首にかける。歯の根が合わず、カチカチと響く。怖かった。恐ろしくて、あと一歩の勇気が出ない。アレスの顔が頭をよぎる。アレスに会いたいと思った。
 両脚で蹴った椅子は、音を立てて床に転がった。瞬間、一気に喉を圧迫され、リアムは苦悶に顔を歪める。視覚も聴覚も閉ざされ、静かな闇だけが広がる。苦しみの先の安寧は、もうすぐそこにあった。
 不意に息苦しさが止んだ。食い込んでいた縄は緩み、浮遊感がなくなった。反射的にリアムの頭は酸素を欲し、口を大きく開けた。咳き込みながら、むさぼるように酸素を取り入れる。

「馬鹿なことを……!」

 生理的な涙で視界を滲ませ見上げた先にはハーヴィーが。彼はリアムを宙から下ろし、地面に横たえた。怒りの表情でリアムを見下ろす。

「諦めてください」

 彼は淡々とリアムに向かって言う。

「心を殺してください。もうどうあがいても無理なんです。アレス殿下のことは忘れるのが一番です。あなたはもうバーバドの手の内にいるんです」

 梁からシーツを解き、短く裂いた。後ろ手にリアムの手を縛り、ついで猿ぐつわも噛ます。自害防止のためだろう。

「困りますよ、こんなことをされたら。あなたが死んだら、ソイルさんがどうなるか。分からないわけではないでしょう?」
「…………」

 リアムは力なく項垂れた。もう駄目だ。
 目を開けているはずなのに、彼女の視界に光は入ってこなかった。