19:闇夜の侵入者


 普段アントワーズ家の出入りは少ない。だからこその油断もあったのだろう。
 大勢いる兵団に客室を全て開放し、それでも部屋が足りないので、最後には物置にしていた部屋までベッドを詰め込んだ。彼らがいなくなった後も、掃除や洗濯、ベッドの運び出しなど、元通りにしなくてはならないので、結局忙しいことに変わりはなかった。
 窓を大きく開き、空気を入れ換え、部屋の掃除をし。
 てんてこ舞いになる中、窓の鍵をかけ忘れることなど何度もあった。その上、普段使われていない物置の戸締まりが必要などと、毎夜屋敷の最後の見回りをする執事が思うわけがない。
 鍵をかけるのを忘れたのか、はたまた侵入者の計画のうちだったのか。
 兵団がいなくなってから一週間も経たない頃、闇夜に紛れ、三人の男がアントワーズ家に侵入した。物置部屋から中に入ると、二人と一人に別れ、示し合わせたように散り散りになる。
 屋敷は静まりかえっていた。足音を忍ばせ、一人の男が向かったのは三階の奥の部屋だった。あらかじめ何もかもが分かっているのか、迷いもなく扉を開け、中に身を滑り込ませる。
 部屋の中は、男が予想していた以上に明るかった。昼間かと見まがうほどに照明が部屋を照らし、窓からは月光が差し込んでいる。一瞬部屋の主が起きているのかと焦ったが、何てことはない。『彼女』はベッドの上で穏やかな寝息を立てていた。
 男はゆっくりベッドに近づいた。しばしの間彼女を見つめ、そして起きないことが分かると、徐に彼女の膝裏に腕を差し込み、抱え上げた。一瞬ふわっと無重力に包まれても、彼女は起きない。随分よく眠っている。
 男はそのまま開け放っていた扉から廊下に出た。階段に向かえば、丁度向かい側から男二人と合流した。彼らもまた、一人の眠ったままの男を抱えていた。
 来たときと同じように、物置部屋から外に出る。急ぎ足で門まで向かい、辺りを憚りながら、そこに停めてあった荷車に乗り込み、出発する。迅速な行動だった。
 連れ去られた男女は、荷台に無造作に転がされた。よく眠っているためか、拘束はされない。男達は御者台に集まり、今後のことをボソボソ話し始めた。
 荷車は山へ向かっていた。こんな時間に街道を歩く者などおらず、男達は身を隠す心配もなかった。一つ憂慮を言えば、山道のため、道がでこぼこしていて、身体への衝撃が強いということくらいか。
 そしてそれは、荷台の男女にも同じことが言えた。寝転がっている分、直接的に衝撃が身体に加わり、揺すられる。

「……?」

 今までにない乱暴な衝撃に、リアムは目を覚ました。何が何だか、状況を理解する前に、再び僅かに身体が持ち上がり、そして落とされる。

「――っ」

 顎を強かに打ち付け、リアムは声にならない悲鳴を上げた。男達はゆっくり振り返る。

「おい、この悪路じゃさすがに起きるんじゃないか?」
「睡眠薬を飲んでんだぞ。起きるわけがねえ」
「……それもそうか」

 蹲ったまま、リアムはひたすらに状況を整理していた。男達の会話は聞こえていた。だが、どうして自分がこんな状況に陥っているのかがさっぱり分からない。いつものように、ハーブティーを飲んだ後、ベッドで眠りに落ちたはずなのに。
 伸び上がって、自分が今どこにいるのかこの目で確かめたかった。しかし、そうすれば起きていることにすぐ気づかれてしまうだろう。
 結局、リアムはギュッと目を瞑ったまま、その場で眠ったふりをすることしかできなかった。男達の会話も、悪路の衝撃音でよくは聞こえない。
 やがて、しばらくして荷車が止まった。目的地にたどり着いたのか、男達がぞろぞろと荷台を降り始める。ついにその時が来てしまったのかと、リアムは小さく息をのむ。

「先にこいつから運ぶぞ」

 そう言いながら、男は意識のない身体を持ち上げた。てっきり自分が運ばれるものだと思っていたリアムは拍子抜けする。まさか自分以外にも捕まっている人がいるなどと思いも寄らなかった。

「おい、そろそろ起きるかもしれないから、手足は縛っておけよ」
「分かってる」

 二人が男を運び、もう一人が山小屋の扉を開ける。三人揃って中に入っていき、しばし静かなときが流れる。リアムは首を擡げた。
 周囲には誰もいない。今なら逃げ出せそうにも思えるが、もう一人捕まった誰かをここに残すことになる。しかし、二人一緒に捕まっても無意味だろう。どちらか一人でも、誰か助けを呼んだ方がずっと助かる確率は上がる。
 後ろめたい気持ちはあったが、リアムは荷車から降りた。足首まである寝間着が今は、邪魔でしかない。フラフラと地面に降り立つと、森の中へ逃げ込んだ。ここがどこなのか、リアムはさっぱり分からなかった。今荷車で来た道を戻れば屋敷に戻れるのだろうが、一本道の街道を歩いていればすぐに見つかってしまう。鬱蒼と茂る森の中に身を隠すしか術はなかった。
 リアムは裸足だった。朝露が、リアムの足を、長い寝間着を濡らした。いつの間にか山の奥から薄らと太陽が顔を出しかけており、次第に辺りも明るくなってくる。辺りに無数とある木に登ることができれば、隠れることなど容易なのだが、生憎とリアムは木に登ったことがなく、また登れる自信もなかった。
 しばらくして、男達の叫ぶ声が聞こえてきた。リアムが逃げ出したことに気づいたのだろう。自然とリアムの足取りは速くなるが、彼らの声が森中から響いているように聞こえ、どこへ逃げ出せば良いのか次第に分からなくなってくる。やがて、その声も聞こえなくなった。男達で意志疎通ができない代わり、リアムに居場所を知られないことの方が重要だと思ったのか。
 途方もなく歩き続けていると、どこからか川のせせらぎが聞こえた。ぼうっとする頭で、リアムの足は自然とそちらに向いた。
 酷く喉が渇いていた。身体が重たく、頭痛もある。逃げることの方が先決なはずなのに、リアムは川縁に近づき、膝をついた。穏やかな川に両手を差し込めば、思っていた以上に冷たい水がリアムを出迎えた。思わず引っ込めそうになるのを堪え、水をすくって口元まで運ぶ。
 一口、二口嚥下すれば、少しだけ頭がスッキリしたような気がした。しかし、ホッとしたのも束の間、近くで葉が擦れる音がした。足音を忍ばせるような音も微かに聞こえる。リアムは息をのみ、屈みながら近くの岩陰に避難した。本当ならば、もっと遠くに逃げたいところだが、その意志に反して身体がふらついてしまうので、それも適わない。
 リアムは岩陰にしゃがみ込んだまま、その場に蹲った。できるだけ身体を小さくして、どこから来るか分からない男からせめて身を隠そうとする。
 眠たかった。いつもなら寝ている時間に動いているからだろうかとも思うが、それにしては言いようのない倦怠感があった。朦朧とする中、ふっと男達の会話が脳裏に蘇った。
『睡眠薬を飲んでんだぞ。起きるわけがねえ』
 そうか、とようやくリアムは理解した。おそらく睡眠薬を飲まされたのだ。しかし、それにしたって、いつ、どこで、誰がそんなことを。
 料理長がそんなことをするはずないし、それを言うならば、食事を運んでくるメイドだってしないだろう。
 そういえば、とリアムは考えを巡らす。
 寝る前、いつものように飲んだお茶がなかったか。いつもは料理長が入れてくれるお茶は、その日は遅くに来訪した彼が――。

「睡眠薬を服用した身体で、よくここまで逃げ出せましたね」

 霞がかっていたリアムの頭が、一気に鮮明になった。ハッとして顔を上げれば、いつもと同じくニコニコした微笑みで、ハーヴィーが見下ろしていた。

「薬が思うように効かなかったみたいですね。でもそれも仕方ありませんね。耐性がついていたんでしょう」
「は、ハーヴィー先生……」

 リアムの声が掠れた。思いも寄らない人物に、彼女の足は逃げるために動き出そうともしなかった。

「どうして……」
「どうしてって、こんなことをする理由は一つしかないでしょう」

 訳が分からず、リアムは目を見開いたまま彼を見つめた。ハーヴィーの口が、ゆっくりと動く。

「あなたの力が欲しいんです。あなたが予知夢を見ることも、その力を使って、ワイアネスを勝利に導いていたことも、みんな知っていますよ」
「あなたは……」

 何者なのか。
 リアムの言葉は尻すぼみに消える。その先に続く言葉に想像はつくのか、ハーヴィーはにんまり笑った。

「バーバド、といえばもうお分かりでしょう」
「――っ」

 リアムは小さく息をのんだ。
 バーバド。
 ワイアネスの隣国。
 そして、今まさにワイアネスが敵対している国。

「なんで……どうして」
「一緒にバーバドに来て頂きます」

 ハーヴィーはリアムの腕を強く引っ張った。リアムはそれに抵抗する力もなく、よろめきながら立ち上がった。
 登り始めた朝日が辺りを照らし出す。
 しかし、今のリアムに、その眩しいばかりの朝日は目に入らなかった。