18:別れのとき


 それから数日間アレスと兵団は滞在した。日に日に怪我人の容態も良くなっていき、屋敷には活気が溢れるようになる。それとは対照的に、リアムの心は暗くなっていった。もちろん、怪我が良くなっていくことは嬉しいことだが、そうなると、彼らが出て行くのも当然の流れになってしまうからだ。彼らというか――彼が。
 示し合わせたわけではないが、朝食は自然に屋敷の皆が同時にとるようになった。兵達は皆早起きだったし、リアム達屋敷側の人間も、客人である彼らに合わせようとすると、自然とそうなったのだ。
 とはいえ、もともと食堂はそれほど大勢の人間が同時に食事できるほど広い部屋でもない。たまたま遅く起き、食堂からあぶれた者は、自室で食事を取ることもままあった。
 そんな中、リアムとアレスが顔を合わせることはほとんどと行ってなかった。食事の時間が惜しいのか、アレスがものを口にするのは大抵自室だったし、それも、他の者と打ち合わせをしながらである。リアムはリアムで、ハーヴィーの手伝いに明け暮れ、折角同じ屋根の下にいるというのに、なかなかゆっくり話す時間も作れなかった。いや、作れたとしても、リアムは素直になることができず、きっとアレスに会いに行けなかっただろう。
 どうせもうすぐいなくなってしまうのだから。どうせもう会えないのだから。
 そう思うと、今多少話したとして、同じ事のように思えた。むしろ、話せば話すほど別れが辛くなるだけだ。
 ――リアムの中ではそう結論を出していたのに。
 たまたま朝食の時間がアレスと重なったとき。たまたまそこにエイミーやフレイツがいたとき。彼らは若い二人に気を利かせた。

「殿下。このところずっと屋敷に籠もりきりでしょう。たまにはリアムに街を案内してもらっては?」
「ハーヴィー先生も、もうお手伝いは大丈夫と仰ってたわ。気晴らしにリアムもそうなさいな」

 リアムとアレスは自然に視線を合わせた。先に目をそらしたのはリアムだった。

「お忙しいのに、無理を言っては気の毒です。それに、先生のお手伝いは私がしたくてやっているんです」

 ようやく食べ終わったので、リアムは席を立った。できるだけアレスの方を見ないようにして一息に言う。

「では、私はこれで失礼します。アレス様も、どうかお身体を休ませて、お仕事もほどほどになさいますよう」

 エイミー達が呆気にとられる中、リアムは足早に食堂を出た。いつもならばすぐにハーヴィーの手伝いをと一階の今は診療所となっている部屋に向かうのだが、今日はどうもそんな気になれない。鬱々とした気分の中、中庭に足を向けた。
 天気はどんよりしていた。ここのところ晴れの日が続いていたので珍しい。そろそろ雨でも降るのか、とリアムは空を眺めながら庭を散策した。

「リアム」

 後ろから呼びかけられた声に、リアムの足は止まった。しかし振り返りはしない。硬直したようにその場に立ち尽くす。

「一人になりたかったのに」
「俺はお前と一緒にいたかったが」

 顔を背けたまま、リアムは応えなかった。まるで顔色を窺うかのようにアレスは彼女の前に回り込んだ。

「街を案内してくれるか?」
「忙しいんじゃないの?」
「少しくらいなら大丈夫だ」
「…………」

 口をへの字に曲げ、リアムは下を向いた。
 アレスの言葉は嬉しかった。しかし、素直に頷けない自分がいる。

「案内っていっても、私、それほどこの街のこと知ってるわけじゃ無いけど」
「一緒にいるだけで充分だ」

 アレスが微笑んだのが気配で分かった。

「乗馬ができるようになったんだろ? 俺に成果を見せてくれ」
「笑われそう」
「自信が無いのか?」

 かうかうような口調についリアムが顔を上げれば、すぐにアレスと目が合った。縫い止められたように、彼から目が離せなくなる。

「……ええ」
「だったら俺の後ろに乗るか?」
「それも楽しそう」
「俺の馬は国で一番早いからな。振り落とされないようにしろよ」
「何それ」

 リアムは思わず噴き出した。真面目な顔で言うので余計おかしい。

「おい、何を笑ってるんだ。冗談だと思ったのか?」

 なかなかリアムの笑い声が止まないので、アレスはくいっと彼女の頬をつまむ。

「本当に国で一番早いんだぞ」
「国中の馬を集めて競わせたわけじゃないのに? 子供みたい」

 一体何を根拠にそう言っているのか。子供のように早い早いと繰り返すので、アレスが妙に可愛く見える。

「競わせてはいないが、早いに決まってる。俺の馬だからな」
「もう止めて……っ」

 ムッとアレスは言い訳をするが、更に燃料を投下したに過ぎない。更にリアムが笑うので、アレスは両手でくいくい頬を引っ張る。

「もう、止めてよ。子供じゃないんだから」
「子供みたいって言ったのはお前だろ?」
「揚げ足取らないの」
「――殿下」

 突然低い声が割って入り、リアム達はハッとして身体を離した。
 慌てて声の方を向けば、兵達から将軍と呼ばれていた男が立っていた。気を利かせ、なるべくリアム達を見ないように視線を下に向けている。

「お話し中申し訳ありません。緊急の報告がございます。お時間よろしいでしょうか?」
「…………」

 アレスはチラリと彼に目を向け、その後気がかりな視線をリアムに向けた。行ってとリアムが頷くと、アレスは申し訳なさそうな顔で兵の元へ歩いて行く。
 難しそうな顔で二人が話を始めると、聞いてはいけないかもしれないと、リアムはわざと離れた場所まで歩いた。
 こういうとき、もどかしいとリアムは思った。何もできない自分は、アレスの役に立てないのだ。学もない自分は、彼に助言することも話を聞くこともできない。
 俯いてただ時間が過ぎるのを待っていると、やがて二人の話を終わった。深刻そうな顔で、アレスは口を開く。

「リアム」
「どうしたの?」

 嫌な予感がした。

「悪い。もう行くことになった」

 どこに、とは、聞かずとも分かった。もうその時が来てしまったのだ。

「――気をつけて」

 それだけ言うのが精一杯だった。もう一度会いたいなんて贅沢は言わない。せめて、生きていてくれたら。それだけで充分だ。

「ああ。お前もたくさん食べてたくさん寝るんだぞ」
「何よそれ、子供じゃないんだから」
「――リアム」

 ふわっと引き寄せられ、気がついたときには、リアムはアレスの腕の中にいた。

「元気で。身体に気をつけるんだぞ」
「アレスの方こそ。ちゃんと眠って」
「分かっている」

 出立はすぐだった。昼食を食べる間もなく、兵団はポーチに集まる。簡単に別れの挨拶をしてから、それぞれ馬に飛び乗り、列をなして門まで常歩で行く。
 リアムは離れた場所からその光景を見守っていた。あまりにも早い事態に、どこか夢の出来事のようにも思えていた。

「リアム、殿下にご挨拶をしなくて良いの?」

 いつの間にかエイミーが隣に立っていた。リアムは僅かに首を振る。

「先ほど挨拶はしました」
「でも、最後にもう一度」
「お忙しいのに、私のせいで時間をとってしまっても申し訳ないです。いいんです、もうこれで」
「でも――」
「エイミー、リアム」

 なおも何か言おうとするエイミーを遮って、フレイツが声をかけた。アレスを伴って、屋敷から出てきたところだった。

「私も殿下とご一緒させて頂くことにした。屋敷はしばらく留守にする」
「そんな突然……」

 エイミーは衝撃を受けた顔で、口元に手をやった。しかしそれも当然だ。最前線で戦うには少々厳しい年齢となったことから、一年前戦場から退くことを決めたフレイツ。これまでの戦績から土地と爵位を授かり、ようやくここアントワーズでのんびり暮らせると思っていた矢先、またも戦場に赴くことになるとは。

「今回の戦だけだから安心してくれ。それに、もうこの年だ、前線では戦わない」
「じゃあどうして」
「リアムの予知夢が気になって」

 ピクリとリアムは肩を揺らした。皆の視線は、彼女に集まっていた。

「私が来たからと行って、刺客が来る未来が変わったとも限らない。予定を変更して、また殿下を襲いに来るかもしれない。もしその時は、私が殿下をお守りしたいと思って」
「俺としても、フレイツ殿に来て頂けると助かる。フレイツ殿の登場で兵達の士気が上がったのは一目瞭然だからな」

 この国に、二十年以上ワイアネスの名の下に最前線で戦い続けたフレイツの名を知らない者はいない。

「とはいえ、フレイツ殿と一緒にいたら行動が制限されそうで考え物だが。初めて刺客のことを聞かされたときも、わざと一人になって囮になった方が効率的だと言っても頑として頷かないし」
「リアムから頼まれましたから。殿下のことをよろしく頼むと」

 リアムは目を見開いた。確かによろしくとは言ったが、まさか直接それをアレス本人に暴露するとは。大した内容ではないが、大いに慌てていたその時のことが思い出され、なんだか妙に恥ずかしい。
 リアムが顔を上げられずにいると、アレスはチラリとリアムに目を向けた後、フレイツに顔を戻し、苦笑を漏らした。

「すっかり優先順位が変わってしまったな」
「それはそうでしょう。生意気な主君と素直な娘、どちらが可愛いかと聞かれれば答えは一つです」

 したり顔でフレイツは言ってのけた。リアムはますます下を向く。アレスはおかしそうに声を上げた。

「リアムが素直なのは認めるが、俺が生意気だと? どこがどう生意気なのか聞かせて欲しいな」
「そういうところです。リアムも分かるだろう?」

 不意に自分に話が飛び、ハッとしてリアムは顔を上げた。気づけば、アレスとフレイツとエイミー、皆が自分を見つめていた。反射的にリアムは口を開く。

「アレスは……時々意地悪です」
「ははっ」
「ふっ」

 フレイツとエイミーが同時に噴き出した。くくくと笑いを堪えながら、エイミーは目尻の涙を拭き取る。

「なんとなく想像がつくわ。きっとリアムがあまりに素直だからいじめたくなるのね」
「子供じゃないですか」

 思わずそうリアムが呟けば、再びフレイツが噴き出す。アレスの眉間にみるみる皺が寄っていった。

「リアム……その辺にしておかないと、後でまたいじめられるぞ」
「二人きりの時に何されるか分かったものじゃないわ」

 危険だと口ではそう言っているのに、フレイツとエイミーは故意か無意識にか、アレスの挑発を止めない。

「……はあ」

 三対一のこの状況に、アレスはため息をついて自身を落ちつかせた。この状況で何を言ってもおそらく無駄だろう。
 コホンと咳払いをし、ソイルに馬を用意するよう合図をする。彼はすぐに二頭の馬を連れてきた。

「もうあまり時間もない。行くぞ」
「はい」
「くれぐれも気をつけてください。殿下、フレイツ」

 エイミーはフレイツの側に駆け寄り、別れの挨拶をする。馬に乗ったフレイツに腕を伸ばし、手を握ったのだ。
 その光景を見つめた後、アレスはじっとリアムに視線を向けた。リアムもゆっくりゆっくり彼に近づいた。

「リアム」

 アレスの指がリアムの頬に触れる。リアムは目を細め、やがて頷いた。

「気をつけて」
「ああ」

 名残惜しそうに手を離し、アレスは馬に飛び乗った。フレイツもその後に続く。

「行ってくる」

 片手を挙げ、アレスはきびすを返した。駆け足で進めば、一気に門の所まで到達し、そしてやがて姿が見えなくなる。
 あっという間だった。息つく暇もなく行ってしまった。
 リアムは目を細めながらアレスの消えた先を見つめていた。心ここにあらずといった様子で、ずっとその場に立ち尽くしていた。