17:価値


 アレス率いる兵団が来て二日目、リアムはハーヴィーの治療の手伝いをしたり、足りない食材やら薬やらを買い出しに行ったり、忙しく歩き回っていた。住み込みのメイドを夜盗には雇ったのだが、それ以上に兵の数が多く、また怪我人も多かったため、リアムも駆り出されるに至ったのだ。
 ただ、そのことに関しては、リアムは何ら支障はなく、むしろホッとしていた。いつも守られてばかりの自分が、何か役立てることが嬉しかったし、やりがいも感じていた。できることならば、ずっとこんな毎日が続けば良いのにとすら思った。
 私室に戻ったのは、もう大分夜も更けた後だ。仕事をしながら、その合間に食事も取ったので、後はもう寝るだけだ。クタクタになるまで働いたおかげか、今はほどよく眠たい。
 そのままベッドに倒れ込みたくなるところをグッと堪え、リアムは寝間着に着替えた。ドレスをクローゼットに掛けていると、コンコンと控えめなノックの音がする。
 このノックの仕方には思い当たる節があった。リアムは仏頂面を隠そうとせず、すぐに扉を開いた。

「何かご用ですか」
「まだ拗ねてるのか?」

 ツンとした話し方に、アレスは苦笑を漏らした。

「別に拗ねてません」
「拗ねてるだろ」

 確信を持った言い方に、リアムはムッと唇を尖らせる。

「誰のせいだと思って……」
「俺のせいか?」

 アレスはさも意外そうに聞き返した。

「責任はどちらにもあると思うが」
「ど、どうして」
「流されたから」
「流され……?」

 言われた意味がよく分からず、リアムは目をぱちくりさせる。しかしアレスはその疑問に答える気はないらしく、話題を変えた。

「それはそうと、部屋に鍵はかけてないのか?」
「鍵? かけてないけど」
「鍵はかけておいた方が良い。疑うわけではないが、今は屋敷にたくさん男がいる。万一ということもあるからな」

 考えすぎじゃないかともリアムは思ったが、大人しく頷いておいた。こういう時のアレスはいつも面倒なのだ。口うるさく念押しするのも一度や二度ではなく、だったらすぐに承諾した方が身のためだ。
 アレスは、興味深げに部屋の中を歩き回った。たくさんのもので溢れているリアムの部屋が、よほど珍しいらしい。

「意外な部屋の様相だな。好みなのか?」
「エイミー様が整えてくださったの。私は好きよ」

 女の子らしいレースのカーテンやフワフワしたカーペット、明るい色のソファに天蓋付きのベッド。その他にも、クローゼットやドレッサー、丸テーブルまである。女の子の理想がそこにはあった。

「そういえば、刺繍を始めたとか言っていたな」

 ソファの上に置いたままの布地を手に取り、アレスは呟いた。

「見ないでよ。あんまり上手じゃないの」

 リアムはサッとアレスの腕から布を取り上げた。くるくると丸め、タンスの中に追いやる。

「刺繍は向いてないみたい。でもね、その代わり、最近パッチワークを教わってるの。エイミー様が得意らしくて」
「その話は聞いたことがあるな。社交界でも有名だ。売り物に出したこともあるとか」
「そうなの?」
「夫人に直接教われるのなら、さぞ腕も上がるだろうな」
「茶化さないで」

 人には向き不向きがあるのだ、とリアムは心の中で言い訳してみた。それに、何よりリアムは覚えたてなのだ。そう簡単に上手になるとも思えない。
 アレスは、次に本棚に近寄った。

「本が多いな。読み書きのためか?」
「ええ。最近はよく夢も見るのよ。楽しい夢ばかりじゃないけど」
「俺が刺客に殺される夢――予知夢で見たらしいな」
「――っ」

 リアムの表情が曇る。アレスは尚も続けた。

「予知夢は、他に何か見たか?」
「いいえ。夢を見るか、夢すら見ずに眠るか。最近はそのどちらかが多いの」
「そうか」

 アレスは小さく息を吐き出した。落胆したのではないかと思い、リアムは焦って付け加える。

「でも、強く意識を持ったらまた予知夢を見られると思うわ。言ってくれたら、何度でも予知夢を見るし、報告だって」
「いらない」

 ゆっくり首を振り、アレスはリアムを見た。

「それじゃ、何のために城から連れ出したのか分からないだろう。ワイアネスに予知夢の力は必要ないと思ったから連れ出したんだ」
「…………」

 突き放されたように感じて、リアムは下を向いた。城にいた頃は、一心同体のようにすら感じていたのに、今はもう味方にすらなれないのか。

「私は、もういらない……?」
「そんなことは言っていない」

 慌てたようにアレスはリアムに一歩近寄った。しかし、対するリアムは数歩下がる。アレスの言葉が空虚に聞こえて仕方なかった。
 いや――違う。そうではない。
 アレスがどうこうではなく、予知夢のない自分には価値がないと、そう自分自身で思っているから、彼の言葉も素直に受け止められずにいるのだ。でも、だってそうだろう。予知夢のない自分に、果たして何ができるというのか。十数年ずっと夢を見てきたリアムには、予知夢しかなかった。
 不意にノックの音が響き、二人は同時に扉を見た。助かったと思った。リアムはすぐに返事をする。

「はい」
「お嬢様、ハーヴィーです」
「どうぞ、お入りください」

 ハーヴィーはトレーを抱えて入ってきた。ハーブティーが入っているのだろうティーポットと一つのカップ。
 彼は、アレスがいるのを見て目を丸くした。それはアレスも同じなようで、こんな時間に誰だと、自然に彼のの眉間に皺が寄る。

「誰だ? 医者か?」
「お医者様です」

 小声でアレスはリアムに尋ね、リアムも同じく小さな声で返した。それが聞こえたわけではないだろうに、ハーヴィーは頭を下げた。

「申し遅れました、お初にお目にかかります、ハーヴィーと申します。お嬢様の専属の医者をしております」
「アレスだ。皆の手当をしてくれたようで、感謝する。兵団の中には看護兵がいなくてな。本当に助かった」
「いいえ。医者として当然のことをしたまでです。私などでお役に立てたのなら本望でございます」

 もう一度礼をし、ハーヴィーはようやくリアムに向き直った。

「お嬢様、ハーブティーをお持ちしました。怪我人の手当に時間がかかってしまい、来るのが遅くなってしまいました。こんな時間に申し訳ありません」
「とんでもないです。むしろわざわざハーブティーを持ってきて頂いて申し訳ないくらいです」

 今では、リアムですらハーブティーを作れるのだ。わざわざ忙しいハーヴィーが作らずとも良いのに。
 それでも、彼は折を見てよく作ってきてくれていたのだ。

「それが噂のハーブティーか。屋敷で評判だぞ。香りも良いし、不眠や頭痛にもよく効くと」
「ありがとうございます」

 ハーヴィーは笑みを深くした。

「よろしければ、殿下にもハーブティーをご用意しましょうか?」
「いいのか?」
「はい、ぜひ。すぐにお持ちしますね」

 サイドテーブルにトレーを置くと、ハーヴィーは一礼して辞した。ポッドの蓋を開け、アレスは興味深げに中を見た。

「よく眠れるようになったのはハーブのおかげか。睡眠薬は飲んでいるのか?」
「いいえ、ほとんど飲んでないわ。最近は、ベッドに横になると、すぐに眠れるの」
「それは良かった」

 アレスはカップにティーを注いだ。普通ならば使用人がやるようなことだが、彼の仕草は手慣れたものだ。少々暑さが和らいだ頃を見計らって、アレスはカップを差し出した。

「ほら」
「ありがとう」

 ベッドに腰掛け、リアムはティーを一口すする。慣れた味が口の中に広がった。

「俺のことは気にせず眠れ」
「ええ」

 アレスの言葉に甘え、リアムはベッドに横になった。疲れていた。もう何も考えたくなかった。それなのに、彼女の口は勝手に動く。

「いつここを出て行くの?」
「……しばらく兵達の怪我の様子を見てからになるが、早くても数日後には出て行く。バーバドの動きが気がかりなんだ。早く戦地に戻らなければ」
「また、私は何の役にも立てないのね」
「元気に暮らしているだけで充分だ」
「…………」

 リアムは目を瞑った。毛布を頭から被り、光を遮断する。アレスの顔が見たくないと思ったのは初めてのことだった。
 しばらくして、ハーヴィーが戻ってきた。アレスは顔を上げ、微笑む。

「すまないな。テーブルに置いてくれるか?」
「はい」

 リアムのトレーを片付け、新たにティーポッドを置いた。

「緊張緩和と、不眠用ののハーブをいくつかブレンドしました。お口に合うと良いのですが」
「良い匂いだな」
「ありがとうございます」

 ハーヴィーはふっと視線をずらし、横目でベッドを見た。リアムがいるはずのそこには、こんもりと毛布が盛り上がっている。

「お嬢様は――」
「寝ている。本当にこれは効き目がすごいな。すぐに寝入った」

 毛布を被ってしまったので、顔は見れないが、すうすうと微かに聞こえる寝息で眠っているのだろう事は容易に想像がついた。
 リアムの手を撫でながら、アレスは微笑を浮かべる。睡眠薬などではない、本当に自然な睡眠で眠れていることが、何よりも嬉しかった。この調子ならきっと大丈夫だろう。いずれ、薬などなくてもすぐに寝入るようになる。
 ベッドを眺めながら、アレスはハーヴィーを一口すすった。

「これを飲みきるまで、側にいることにする。もう下がって良いぞ」
「……失礼します」

 ハーヴィーは静かに一礼し、部屋を出て行った。しんと静まる静寂の中、身じろぎする音と、カップの音だけがアレスの存在を主張していた。
 そうして、ティーを飲み終わっても、アレスはしばらく部屋から出て行こうとしなかった。