16:幸せの目覚め
窓から日の光が差し込んでいた。朝日は丁度横向きに寝ていたリアムの顔に当たり、やがて彼女を眠りから解き放つ。瞼を震わせながら、リアムはそうっと目を開ける。
「…………」
視界に飛び込んでくるのは、僅かな調度品と、ソファ。女の子らしくなるようにと、エイミーが試行錯誤しながら用意してくれた己の私室ではない。
なかなか覚醒しないリアムの頭。しかし、やがてそれにも始まりは来る。まるで走馬灯のように昨夜の出来事が脳内を駆け巡った。ハーヴィーの手伝いをしたこと、アレスの部屋を訪れたこと、包帯を変えて、そしてその後は――。
「〜〜っ!」
声にならない叫びを上げて、リアムは起き上がった。恐る恐る隣を見れば、アレスが無防備な寝顔をさらして眠っていた。一瞬可愛いと思ってしまったリアムだが、その際彼の唇に視線が縫い止められ、己の意志に反して顔が熱くなる。
リアムは頭を抱えた。
いつの間に眠りに落ちたのか、それすらも覚えていない。そのまま寝入ってしまったのだろうが、昨夜部屋で寝ていないことが知られてしまったら、もう恥ずかしくて誰とも顔を合わせられない。
幸いなことに、時はまだ早朝だ。皆も疲れているだろうし、まだ眠っているはず。
そう思って、リアムはベッドから立ち上がった。が、グイッと何者かに腕を掴まれ、再びベッドに逆戻りになる。
「今日もまたこっそり逃げるつもりか?」
耳元で囁かれた。ベッドに倒れ込みながら、リアムは冷や汗を流す。
「男の威厳形無しだろ、そんなことされたら」
アレスに見つめられ、リアムは恥ずかしさに横を向いた。だが、それをアレスが許すわけもなく、リアムの頤に手をかけると、正面を向かせる。
「恥ずかしいのか?」
「…………」
「リアム」
「――っ、耳元で呼ばないで!」
恥ずかしくなってベッドから抜け出そうとするも、後ろからお腹に手を回され、抱き締められる。
「リアム……」
うなじに吐息がかかった。ビクッとリアムは身体を揺らし、やがて観念したように力を抜く。
アレスの髪が首に当たり、くすぐったかった。思わず身体を震わせれば、アレスは抱き締める腕に一層力を込めた。
安心感のある体温だった。本格的な寒さが始まった昨今、朝は酷く冷える。にもかかわらず、抱き締められたところから互いの体温が伝わってきて、心地よいまどろみが訪れる。
昨夜はぐっすり眠ったはずなのに、まだ眠たいなんて。
不思議な心地と共に、リアムは目を閉じた。夢と現実の狭間を行き交い、もう少しで眠れそうだと感じた、そんなとき。
はははと声を抑えた笑い声を耳が捕らえた。扉越しに、廊下から聞こえてきたのだ。微かな複数の足音が遠ざかっていく。屋敷が起きだしたようだ。
素早い動きで、リアムはアレスの手を振り切ってベッドから起き上がった。
「もう行くのか?」
「当たり前でしょう!」
アレスの部屋から出てきたところを目撃されるわけにはいかない。昼間ならまだしも、早朝だなんて。
そのままの勢いで扉まで突撃したリアムだが、すんでのところで、己の様相に気がついた。昨夜、着の身着のまま寝てしまったので、ドレスには酷い皺ができていた。気に入っていたドレスなだけに、衝撃も大きい。
とりあえず手当たり次第生地を伸ばしてみたが、夜中折られたり潰されたりした皺は、なかなかに頑固だ。
リアムの心境などいざ知らず、アレスはリアムが一人奮闘しているのを見て遠慮なく笑っていた。
「無駄だろう。大人しく店に出した方が良い」
「…………」
リアムはムッと唇を尖らせると、抵抗するのを止めた。抵抗するにしても、少なくともアレスの前でやるのを止めたのだ。
アレスのことは無視して、リアムはそうっと扉を開けた。僅かな隙間から、さっと廊下を見渡す。しんとしていて、人の気配はない。
「諦めてここで休んでいったらどうだ。一緒に朝食を食べよう」
「…………」
「廊下は寒いだろう? 暖炉に火をつけるか」
「…………」
「リアム――」
「静かにして! 音が聞こえないじゃない」
「――リアム様?」
ビクッと背筋を伸ばし、リアムは固まった。聞こえてはならない――聞こえたくなかった声を耳が捕らえたのだ。
「あの……」
悲壮感を漂わせながら振り返れば、そこには困惑した表情のソイルが立っていた。
「ここって、アレス殿下の部屋ですよね? あれ、俺間違えたかな……」
「…………」
ソイルは所在なげに立っていた。なぜ彼がここに――いや、今はそんなこと考えている場合ではない。言い訳をしなければ。
「ま、間違えてますよ。私は、エイミー様に頼まれて、空き室の準備を……あっ、違います。アレスが」
自分でも何が言いたいのかが分からない。スッと言い訳が口にできれば良いのに、場数を踏んでいないせいで、どう対処すれば良いのか分からない。
「リアム」
焦りが焦りを産む子の状況下、アレスがポンとリアムの肩に手を乗せた。
「どうした? 何かあったのか? ああ、ソイルか。どうかしたのか?」
「えっと……」
アレスの登場に、もちろんソイルは彼に目を向ける。――そして、あんぐりと口を開けた。はだけたシャツに、けだるそうな所作、そして何より、気を引くのは、二人の行動だ。人の前だというのに、意地悪そうな顔でリアムにちょっかいをかけるアレスと、顔を赤くしてそれを避けようとするリアム。
どう見ても知り合い以上の関係が匂ってくる二人の様子に、ソイルは愛想笑いを貼り付けるしかなかった。
「はは、あははは……」
その反応に慌てるのはもちろんリアム。
勘違いしてもらっては困ると、大慌てで両手を振る。
「ちっ、違うの! 朝、あの――アレスの包帯を替えようと思って、ここに来ただけで!」
「こんな時間から……ですか?」
「早くに目が覚めたから!」
「…………」
しばらくの沈黙の後、ソイルはにっこり笑った。――明らかにぎこちない笑みで。
「そうですか。それなら出直してきた方が良いですね。朝食を食べてからまた来ます。失礼しますね」
「えっ、あっ、ソイルさん――!」
はははと乾いた笑い声を残し、ソイルは姿を消した。彼を引き留めきれなかったリアムの右手だけが、もの寂しく宙を彷徨う。
リアムは、わなわなと震えだした。元はといえば、全部アレスが悪い。それなのに、彼は悪びれもせず、リアムの肩に腕を回そうとする。リアムは彼の手を振り払った。
「そもそも、どうしてそんな格好で出てきたの! ソイルさんにきっと誤解されたわ」
「誤解って、何をどう?」
「――っ」
リアムは咄嗟に喉を詰まらせた。まさかそう切り替えされるとは思ってもいなかったのだ。
リアムは、長年社交とは無縁の生活を送っていたし、物語からも遠ざけられていたので、ほとんどと言って良いほど物事を知らなかった。だからこそ、エイミーから、読み書きのみならず、世に流行している物語や小説、そして礼儀作法などを日々教えてもらっているのだ。そのおかげで、多少世事に疎くても、致命的な間違いは犯さずに済んでいる。
にもかかわらず、まさかこんな事態に陥ろうとは。
物事を知らないなりにも、リアムは昨夜してしまったことがいけないことだとは分かっていた。以前、エイミーに異性と部屋に二人っきりになってはいけないとか、そう簡単に身体を許してはいけないとか、それとなく言われたことを覚えていたのだ。
身体を許すという意味はよく分からなかったが、リアムは主導権を握られてはいけないという意味に捉えていた。
だからこそ、頬に口づけをしたり、キスをしたり。
神聖だけども、後ろめたいという感情は感じていた。注意されていたことを破ってしまった申し訳なさと、でも内側から溢れてくるこの感情を、リアムは持て余していた。
きっと、アレスはリアムの複雑な心境を見透かしているはずだ。そして、リアム以上にリアムのことを知っているに違いない。にもかかわらず、意地悪な質問をしてくるなんて。
「俺の知らないうちに、いろんなことを学んだようだな。俺にも教えてくれないか?」
アレスは意地悪だ。むうっとリアムは頬を膨らませた。だんだん彼が憎らしく思えてくる。
「もう知らない」
「リアム?」
「話しかけないで!」
キッと睨み付けると、リアムはすぐに外に出た。頭に血がのぼって、外の様子を確認するのを怠ってしまったが、幸いなことに、廊下には誰もいなかった。急いで私室に戻り、ドレスを着替え、髪型を整えてから、ようやく何事もなかったかのように食堂へ向かった。アレスと時間が被ることだけはどうしても避けたかったのだ。
食堂には、もう既に何人か先客がいた。数人で集まり、朝食をとっている。
「おはようございます」
一番にリアムに声をかけたのはハーヴィーだ。彼の姿を目にし、リアムは少々驚いた。
「おはようございます。昨夜は泊まって行かれたんですね?」
「はい。ご厚意に甘えさせて頂きました」
昨夜休んだのも遅かっただろうに、彼は随分早起きらしい。
席についてゆっくり朝食を食べていると、次にエイミーが起きてきた。皆に挨拶をしながら、リアムの隣に腰掛ける。
「リアム。昨日は夕食食べなかったのね」
「えっ」
ギクリとリアムは肩を揺らした。そういえば、と昨夜のことを思い出す。夕食は残してあると彼女は言っていた。にもかかわらず、リアムは食堂に姿を現さず。おまけに、エイミーはその直前、リアムがアレスの部屋に行っていたことも知っている。
もう気づいているのだろうか。それとも鎌をかけようとしているだけなのか。
リアムはパンを喉に詰まらせながら、必死に声を出した。
「食欲がなくて……」
「そう。でも、ちゃんと食べた方が良いわよ。昨日はあんなに働いていたんだもの」
「はい。次から気をつけます」
再び場が沈黙になる。やり過ごせたのか、はたまた見過ごされただけなのか。
いっそのこと、直接言われた方がマシだとリアムは思ったが、自分から墓穴を掘る気にもならない。
リアムは針のむしろのような時間を必死に耐え、立ち上がった。ようやく朝食を食べ終えたのだ。
先客よりも早い食事に、彼女はいささか注目を浴びたが、それもすぐに終わる。食堂に新たな客が入ってきたのだ。
「おはようございます」
「おはよう」
食堂で団らんしていた男達は立ち上がり、アレスに向かって頭を下げた。アレスも涼しい顔で挨拶を返す。
リアムは、彼を見て苦い顔になった。なぜこの時間にわざわざ来たのか。少しは時間をずらそうなどという考えはなかったのか。
不自然に見えないよう、リアムは小さく挨拶をしながら、そのまま通り過ぎようとした。が、すれ違いざま、軽く手を握られる。ハッとしてリアムが顔を上げれば、意地悪な顔でアレスがニヤリと笑う。
皆に気づかれたらどうするんだと、リアムはすぐにその手を払った。クスリと小さく笑う声が聞こえたが、それも無視して食堂を出て行く。
朝食を食べ終わっていて良かったとリアムは思った。知らず知らず顔が赤くなるのは、リアム本人にも、もうどうにも止められなかったから。