15:止められない


「ハーヴィー先生、そろそろ夕食を。もうずっと働きづめでしょう? しばらくゆっくり休んでくださいな」

 エイミーがそう声をかけたのは、月が昇り始めた頃だった。気づけば窓の外は真っ暗で、ふと我に返って周りを見渡せば、いつの間にか怪我人の数は少なくなっていた。

「先生のおかげで本当に助かりました。オーランド先生はもう先に食堂で夕食を頂いていらっしゃいます。大したことはできませんが、せめてお腹いっぱい召し上がってくださいね」
「実は夕食を楽しみにしていたんですよ。すぐに伺いますね」

 最後の一人の治療を終え、ハーヴィーは立ち上がった。手や白衣は血で汚れているが、彼の顔は清々しい。

「お嬢様も行きましょう。お手伝いありがとうございました」
「いえ」
「あっ、リアムは待ってくれない? 話があるの。ハーヴィー先生、先に行ってくださいな」
「そうですか? では」

 少し躊躇った後、ハーヴィーは食堂へ向かった。辺りに散らばっている包帯を片付け、リアムはエイミーの元に近づいた。

「リアムもご苦労様。本当によく働いてくれたわね。今日一日で包帯を巻くのが随分上手になったんじゃない?」
「そんな……」

 リアムは眉を下げ顔を俯かせる。大した手伝いもできず、唯一やらせてもらえたのが、薬や包帯をあちこちに届けたり、包帯を巻いたりといった作業だったというだけだ。ハーヴィーは身を粉にして働いていたのに、自分は大した仕事をしておらず、逆に申し訳ない思いだった。

「でもね、悪いんだけど、後もう一仕事してもらってもいい?」
「何ですか?」
「殿下のお世話をお願いしたいの」
「アレス……ですか? どこか怪我してるんですか?」

 思わずリアムは勢い込んで尋ねる。昼に一度見たきりのアレスは、見た目はどこにも怪我をしていないように見えたが。

「腕に少し怪我をしているらしくて。でも、包帯を変えようとしても、他の人を先に手当てしてくれって断られてばかりだそうなの。だから行ってきてくれない? いくら何でも、古い包帯のままじゃ怪我にも悪いわ」
「もちろんです」

 リアムは何度も頷いた。

「すぐに行ってきます」
「あっ、待って!」

 走り出そうとしたリアムの手を、エイミーは慌てて掴んだ。

「慌てすぎよ。包帯を忘れてるわ」
「あ……」

 手ぶらでアレスの元に行こうとしていたリアムは、気恥ずかしそうに視線を彷徨わせる。そんな彼女の手に、エイミーはしっかり包帯を手渡した。

「行ってらっしゃい。夕食はちゃんと残しておくから」
「はい。行ってきます」

 今度こそリアムは部屋を出た。足早に階段を上りながら、はやる思いでその先に見つめる。
 三階はしんとしていた。時間が時間だけに、皆もう寝静まっているのかもしれない。連日の野営も相まって、相当疲れているはずだ。
 もしかしたら、アレスももう眠っているのかもしれないと、リアムは遠慮がちにノックをした。だが、予想とは裏腹に、返事はすぐに返ってきた。

「入れ」
「し、失礼します」

 緊張のあまり、リアムの声が裏返ってしまった。アレスの声が真剣で驚いたのもあるし、よくよく考えてみれば、彼の部屋を訪れるという行為自体初めてであることに気づいたからだ。
 しかし、対するアレスの方はどうということはない。入り口で立ち尽くしている彼女を見、目を丸くした。

「リアム? こんな時間にどうしたんだ?」

 いつもと変わらないアレスの姿を目にし、リアムは調子を取り戻した。さっと部屋の中に入り、扉を閉める。

「包帯を巻きに来たの」
「包帯?」

 目を通していた書類を机に置き、アレスは立ち上がった。

「下の様子はどうだ? 怪我人は」
「お医者様が二人いらしてて、もう大体の治療は終えたわ。あとはアレスだけ」
「本当にお前が巻くのか?」
「悪い?」

 意外そうな口ぶりに、リアムは唇を尖らせた。アレスはふっと笑うのみで、黙ってソファに腰掛けた。

「じゃあ頼む」
「大人しくしててね」

 リアムは、ゆっくり古い包帯を剥がしにかかった。包帯は、乾いた血と共に肌にべったり張り付いているので、その作業には慎重さが必要だ。乱暴にやれば、折角固まった血が再び流れ出すことになるのは想像に容易い。
 包帯を剥がすと、中から痛々しい矢傷が現れた。丁度二の腕に当たるところで、これでは日常動作にも影響があるだろう。せめて利き腕ではなかったことが幸いか。
 軽く手当てをして、リアムは新しい包帯を巻いた。慎重に、丁寧に。

「傷、痛む?」
「今はそれほど」

 嘘を言っているようには見えないが、痛みに慣れているだけで、きっと想像以上に痛いはずだ。
 包帯を巻き終わると、アレスは腕をぐるりと動かした。

「うまいな。仕事の支障にはならなさそうだな」
「動かさないで。安静にしててよ」

 慌ててアレスの腕をとり、リアムは睨んだ。調子に乗って傷が悪化したらどうするつもりなのか。
 包帯を片付けながら、リアムは小さくため息をついた。

「それよりも、夕食はもう食べた? 何か飲み物はいる? 持ってきましょうか」
「立場がすっかり逆転したな。いつもそれは俺の台詞だったのに」
「茶化さないで」

 言いながらリアムは立ち上がる。その拍子に、カシャンと何かが落ちる軽快な音が響いた。二人の視線が地面に向けられる。

「これは?」

 アレスが拾い上げたのはアレスからもらったガラス髪飾りだった。今日はずっと走り回っていたから、取れかけていたのだろう。

「ソイルさんにもらったの。私にどうかって」
「そうか、ソイルから――ソイルから? 自分が欲しくて買ったわけじゃなくて?」

 アレスは意外そうに聞き返した。リアムはきょとんとしながら首を傾げた。

「欲しいからって言うより……ご厚意で頂いたの。あ、でもお金はアレスからもらったって聞いたわ。ありがとう、アレス」

 曇りのない笑顔で礼を言われ、アレスは苦虫を噛み潰したような顔になった。

「妙に釈然としないな……」
「どうして?」
「いや」

 短く返事をし、アレスはそれで話を打ち切った。ソファから立ち上がり、ベッドへと向かう。

「少し眠くなってきた」
「寝た方が良いわ。疲れが溜まってるはずだもの。そうだ、ハーブティーを入れてきましょうか。不眠用のものなんだけど、私もよく飲んでるの。結構よく眠れるのよ。どう?」
「いや、大丈夫だ」

 頭を振り、アレスはベッドに寝そべった。身体を横にすれば、リアムの視線が交錯する。

「お前が側にいてくれたら、自然に眠れる」
「……本当、前とは真逆の立場ね」

 苦笑を漏らし、リアムは傍らの椅子に腰掛けた。いつもとは正反対の光景だ。アレスはリアムを見つめながら、口元を緩めた。

「手は握ってくれないのか?」
「馬鹿にしてるの?」

 どこかからかうような口調に、リアムの眉間に皺が寄る。心外だと言わんばかりに、アレスは目を丸くした。

「そんなつもりはないが。寝るとき、自分は手を握ってと頼むくせに、俺にはしてくれないのか?」
「…………」

 こうまで言われては、無視するわけにはいかない。
 リアムは不承不承アレスの手を握った。自分から握るとなると、意外に羞恥がこみ上げる。いつもは握られる立場なので、心づもりがなっていなかったのだ。それはアレスも同じなようで。

「なるほど、こんな気持ちなんだな」
「早く眠って」

 握った手に力を込めると、アレスは笑い声を上げて目を瞑った。

「ここでの生活はどうだ」
「え?」
「楽しく暮らしてるか?」

 質問の意味に気づくと、リアムは大きく頷いた。

「ええ、とっても。乗馬をしたり、刺繍をしたり。最近は、エイミー様に読み書きも教わっているの。毎日が刺激的で、疲れるくらいよ」
「それは良かった。俺も、久しぶりに会って驚いた。随分顔色が良くなっていたからな。今日だって、いろいろ屋敷中を動き回っていたと聞いている」
「それくらいしかできなかったから」

 城から出たリアムには、普通の人のような――いや、むしろそれ以下のことしかできないのだ。
 無力を痛感し、リアムの手には力がこもった。アレスは、手を握り返すことで反応を返した。

「ありがとう」
「私の方こそ。アレスには、感謝してもしきれないくらいだわ」

 城から出してくれたことに対するものではない。ただ、アレスが側にいてくれたから。ただそれだけで、単調なリアムの生活に、笑顔が、楽しみが、欲が湧いたのだ。これほど嬉しいことはなかった。
 しばらく沈黙が続いた。アレスの顔を眺めるうち、呼吸が長く、深いものになっていき、おそらくは眠りについたのだろうことが窺えた。
 無防備な寝顔だった。見る者によっては、あどけないと称する者もいるだろう。普段はいつもしかめっ面をしたり、難しい顔をしているのだから、余計にそんな印象を抱く。
 穏やかな寝顔だった。見ているだけで、心が洗われるような、くすぐったくなるような、愛しい気持ちがこみ上げてきそうな。
 リアムの手は勝手に動いていた。アレスの前髪を払う仕草には母性が、握る手には感謝が、彼を見つめる瞳には愛情が宿る。
 可愛い、愛おしい――そんな感情の延長での、半ば無意識な行動だった。
 ベッドに手をつき、そっとアレスに覆い被さる。息を潜め、日に焼けたその頬に優しく口づけをする。
 ほんの僅かな出来事だった。ハッと我に返り、リアムは目を開ける。なんてことをしてしまったのだと、羞恥の色が顔に集まる。しかし、しでかしてしまったことの重大さを理解する間もなく、青い瞳と視線が交錯する。――アレスだ。アレスと、目が合った。
 その瞬間、リアムの身体がぐるりと反転した。彼女の身体はいつの間にかベッドに縫い止められ、その上にはアレスがいた。

「――っ」

 言葉を交わす間もなく、アレスは噛みつくようなキスをした。口を塞がれたまま、リアムはギュッと目を瞑る。
 手が、身体が――顔が。
 触れている所が燃えるように熱かった。
 息苦しい。頭が真っ白になって、何も考えられなくなる。

「はっ」

 一瞬顔が離れた。その隙にようやく酸素を体内に取り込むが、アレスは容赦なかった。すぐに角度を変えてリアムの口を塞ぐ。

「んんっ」

 鼻にかかったような声が飛び出し、リアムは顔を赤らめた。腰に手が回され、より一層身体が密着する。
 誰とも分からない汗が、額を滑り落ちた。
 いつの間にか、顔が離れていた。わずか数センチの距離で、リアムとアレスは互いを見つめる。
 何も言葉は交わさなかった。その代わり、アレスはリアムの後頭部に手を、リアムはアレスの背に腕を回した。
 もう何度目か分からない、深いキスだった。漏れる吐息は熱く、ただ愛おしさがこみ上げる。幸せで、切なく、止められないキスだった。