07:終わりの一言


 次の日も、伊月が校門に現れるやいなや、めざとい荻野は、すぐに伊月へと近づいてきた。だが、今日の伊月はひと味違う。堂々と荻野の前に立った。

「おはよう。今日は一体どういう風の吹き回しだ?」
「別に?」

 いつもと違って逃げ回らない伊月に、荻野は不信感を抱いているようだ。
 メイクチェックをしようと、彼の目はスッと細められた。伊月はそんな視線にも堂々と耐える。だが、もっとよく見ようと彼の手が伊月の顔に触れようとしたとき、咄嗟に伊月はその手を振り払った。

「触らないでよ」
「……すまない。でもよく分からなくて――」
「顔近づけないで」

 まるで嫌悪するかのように荻野を避ける伊月。そのことに、いささか荻野の方はショックを受けたが、しかし、そのおかげで気づいたことがあった。

「メイク、してるよね?」

 確信的な荻野の物言いに、伊月はピクリと肩を揺らした。

「……してない」
「先生から聞いたよ。ナチュラルメイクっていうものがあるって。見た目にはあんまり分からないけど、多分してるよね?」
「してない! 憶測で人を疑うつもり!?」

 カッとなって伊月は叫んだ。内心、どうしてバレたんだと心臓はバクバクである。そんな彼女の心境など見透かしたように、荻野はそそくさと何かを取り出した。

「じゃあ試しにちょっとこれで拭いてみて。それなら一発で分かるでしょ」

 彼が差し出したのは、シートタイプのメイク落としだった。
 ――昨日まではオイルタイプだったのに。女子がメイク落としに協力的になってくれるよう手軽さを重視するなんて、こいつ、やりおる――って、そうじゃなくて!

「こ、金輪際話しかけないでって言ったでしょ! それにメイクだってしてないし! こっち来ないで!」
「君がメイクしなければ、話しかけることもないよ。……ってか、そんなに僕が嫌いなの?」
「嫌い!」

 若干落ち込んだように尋ねる荻野に、伊月は自信満々に言い返した。荻野は一層肩を落とした。

「僕、何かしたかな? 君とは友人として付き合っていきたいと――」
「ああ、もう! それ以上何も言わないで!」

 余計惨めになる。
 これからは友人でいましょうなんて、まるで告白をことわくときの文句そのものじゃないか!
 伊月は耳を塞いで荻野の横をすり抜けた。彼が何か発言したような気配がしたが、伊月は構わず校舎の中に入っていった。

「なんで私ばっかり……」

 荻野が追いかけてこないのをみてとると、伊月は思わず小さく呟いた。他にもメイクをしている人は山ほどいるのに、どうして彼は、よりにもよって自分にばかり声をかけてくるのか。
 そもそも、風紀検査をしているのも、裏門でただ一人、荻野だけである。そんな中で、誰が彼に従うというのだろうか。

 確かに、校則を破っていると面と向かって糾弾されたときは、申し訳ない思いだったが、しかし、風紀検査をする者が荻野ただ一人で、かつ裏門でしかやっていないとなれば、反発する者も出てくるというもの。それはそうだろう。自分は大人しくメイクを止めても、他の人は堂々とメイクをしているのだから。不公平にもほどがある。
 教室に入って、伊月はこっそり中を見渡した。パッと見ても、女性との八割は、メイクをしていた。この状況で、一体誰が荻野に従うというのだろう。

「あれ、伊月、今日は随分ナチュラルだね」

 伊月が席に着いたのに気づくと、万里子は嬉しそうに話しかけてきた。

「もしかして荻野対策? どうだったの?」
「……なぜかバレた。メイクしてるよねって。もうやだあ……」

 情けない声を上げて伊月は机に突っ伏した。もともと弱音を吐くのは苦手だが、しかし今回ばかりはもうお手上げだった。どうすれば彼を視界から追いやることが出来るのだろうか。

「見るからにしつこそうだもんね、あいつ」
「ほんとに」

 万里子の言葉に、伊月はすぐさま頷いた。しつこいのだ、彼は。だからこそ、今回の風紀検査騒動のおかげで、着実に女子からも反感を買いつつある荻野は、若干哀れで、そして胸が空く思いでもあった。といっても、何より自分が一番彼の被害を被っているのだから、なんとも言いがたいものがあるが。
 なんとかして、この状況を打開せねば。
 伊月は厳しい顔で考え込んだ。
 荻野との接点を取り除くためならば、自分の矜恃を捨てたって構わない。それで平穏が戻るのなら、万々歳だ――。


*****


 翌日、伊月は再び裏門に立った。荻野に会いたくなければ、正門に行けばいいだけの話だが、いつまでも逃げていたって仕方あるまい。それならば、いっそ、根源から接点を取り除いた方が、すっきりするといもの。
 厳しい顔つきとは裏腹に、伊月は鞄で顔を隠しながら、コソコソと学校へ足を踏み入れた。明らかに挙動不審なこの態度、あの荻野が気づかないわけがない。

「前島……さん?」

 予想通り、彼から声がかかったが、伊月は返事もせず、スタスタとそのままの体勢で校舎へと向かう。

「そんなことしてもバレバレだから。今日こそはメイクを……」

 グダグダと何やら荻野が言うが、伊月はものともしない。そのまま素知らぬ顔で後者へ向かう伊月の肩に、ついに荻野が手を置いた。

「ちょっと、前島さん――」
「なにかな?」

 至って普通の口調で伊月は振り返った。ついでに顔を隠していた鞄も取り去る。そこからのぞいたのは、すがすがしいほどのすっぴん顔。

「残念でした! もう私はメイクしてないから!」

 喜々としてそう叫ぶは前島伊月。彼女は、ここ数日間続いていた荻野によるメイク落とせ攻撃に、うんざりしていたのだ。もはや、荻野の言うとおりにするなんて情けないなどといっていられない。彼との接点を無くすため、プライドなんてかなぐり捨てた伊月だった。

「これで話しかける必要もなくなったでしょ?」
「…………」

 伊月は髪の毛を掻き上げた。

「あー、清清する。もうこれからは絶対に話しかけて――」
「メイクしてない方が可愛いよ」
「――っ」

 伊月の反撃などものともせず、荻野は言ってのけた。伊月はその場で固まった。

「これからはそのままで来なよ。そうしたら朝もうちょっと早く来れるだろうし。メイクしてて遅刻なんて馬鹿みたい――」
「馬鹿はそっちよ!」

 伊月は力の限り叫んだ。
 なんなんだこの人は。さんざんこっちを振り回しておいて、その自覚もない。

「しつこくしつこく自分の信念を掲げて、相手のことはちっとも考えようとしない。そんなだとね、いつか絶対友達無くすから!」
「えっ……」
「私だってあんたのことなんか大っ嫌いだから! もう金輪際話しかけてこないで!」

 言い切った、と思った瞬間、伊月はダッシュをかました。そして一旦校舎の手前で振り返ると、恥も外聞もなく、舌をべーっと突き出した。

「このバーカ!!」

 最後にもう一度大きく叫ぶと、伊月はすぐに校舎の中へ入っていった。きょとんとした顔の荻野、そしてそれを目撃した生徒たちだけが後に残されたが、伊月はもうどうでもよかった。これで全てが終わったんだと、胸のすく思いでもあった。

「伊月……」
「ああ、おはよう、万里子ちゃん」

 ちょっとだけすっきりした顔で、伊月は席に着いた。どことなく落ち着いた様子で万里子は伊月に顔を向けた。

「なんか、哀れになってきたわ」
「……? 哀れって誰が?」

 不思議そうに伊月が尋ねると、万里子はゆっくり腕を上げて……伊月を指さした。

「な、なんで!?」
「精神年齢が低すぎて……。大丈夫? 荻野のせいで、頭のネジ吹っ飛んだんじゃない?」
「こ、怖いこというの止めてよ……。私は普通だよ」
「普通の女子高生は、あんなに喜々としてパーカって叫ばないよ……」
「見てたの!?」

 顔を赤らめて伊月が聞き返せば、万里子は至極真面目な顔で頷いた。

「ホント……だんだん変な子になってきちゃったね。ちょっと前までは大人しかったのに」
「も……別にいいじゃん! これで全部終わったの! 全部元通りだよ!」
「そうかしらねえ」

 達観したような視線で呟く万里子。彼女のその様子を見て、つい先ほどまで最高潮だった伊月の自信が揺らぎ始めていた。