08:目の前の君
異変はすぐに起こった。
三限目の移動教室が終わった後、伊月が教室に帰ってきたとき、まるで今日の出来事など何もなかったかのように白々しい顔つきで、荻野が教室の入り口で立っていたのである。
「…………」
「ちょっといいかな? 話があるんだけど」
「…………」
無言のまま彼の横を通り過ぎようとしたが、一瞬遅く、荻野に肩を掴まれた。
「もう話しかけてこないでって言ったよね?」
「うん、それは分かってるんだけど。放課後プリントの整理、手伝ってくれない?」
「はあ?」
あまりにも突拍子のない頼みごとに、素っ頓狂な調子になるのも仕方がない。あまりに呆れてしまったせいで、逆に伊月は真面目に対応することになった。一旦窓側に移動し、入り口を開ける。
「友達に手伝ってもらえば?」
腕を組んで伊月がそう問えば、荻野は顔色を変えないまま首を振った。
「友達、いないの?」
「いるにはいるけど、前島さんに頼みたくて」
「なんで?」
「ちょっと話したいから」
「…………」
「これで最後にするから」
つい一週間ほど前に、教室でちょっとした騒ぎがあった伊月と荻野。二人のことが気になるようで、廊下側に面した窓をこっそり開けたり、入り口から堂々とのぞき見たり、クラスメイトはその好奇心を隠そうともしていなかった。いい加減ずっと彼らに見世物にされるのはうんざりだ。伊月はため息をついた。
「分かった。放課後ね。どこに行けばいいの?」
「会議室二に来てもらえる? 生徒に配るための資料作りしないと行けなくて」
「はいはい。会議室二ね」
「よろしく!」
ひらひらと手を振って適当に返事をすると、伊月はそのまま教室に入っていった。クラスメイトからは、何科もの言いたげな視線をふつふつと感じたが、伊月はそれをことごとくスルーし、黙って席に着いた。
*****
放課後、荻野に言われたとおり、伊月は会議室二にやってきた。彼のクラスはまだホームルームが終わってないらしく、伊月は席について待っていた。長机の上に書類が山積みになっているので、きっとこれを整理するのだろう。話をするだけならまだしも、これを手伝わされながら話さなければならないのかと、今からめまいがする思いだった。
「早いね」
伊月が椅子に座って五分も経たないところで、荻野がやってきた。急いだ様子で鞄を下ろし、伊月の隣に腰を下ろす。
「今日はよろしく。これを一枚ずつ、こっちから順に計三枚を一セット。僕がこれをやるから、前島さんは最後に左上をホッチキスで留めてくれる?」
「分かった」
軽く頷くと、伊月は早速黙々と仕事を始めた。あまりの淡泊さに、荻野は面食らったようだが、伊月は軽ーくスルーした。話があるといってきたのは向こうの方なのだから、向こうから口をきくべきだろう。変なプライドから、伊月は絶対に自分から話そうとは思っていなかった。
しばらく無言が続いた。紙がこすれる音と、ホッチキスのカチャカチャいう音だけが響く。
「……あー」
「なに?」
珍しく、荻野は躊躇っているようだ。言葉を選んでいる様子で考え込んでいたが、やがて、面倒になったのか、パッと伊月の方を見た。
「何か、君に変なことでもした?」
「は?」
「僕って、前島さんに嫌われてるよね?」
すぐには返事を返さず、伊月は熟考した。何か、荻野の鼻を明かせるようなきつい返答を。だが、特に頭が良いわけでもない伊月には何も浮かばなかった。仕方なく適当に返事をする。
「自分の胸に手を当ててよく思い返してみれば?」
「え?」
「デートしに行ったあの日。最後になんて言った?」
「…………」
「荻野君さ」
しばらく経ってみても返事がないので、伊月は作業をしながら低い声を絞り出した。
「ちょっと自分勝手なんじゃない? 勝手に私を美化して持ち上げて、それで実際の私は理想と違ったからってさようなら? 振り回されるこっちの身にもなってほしい。要は、実際にデートしてみたけど、以前の私とは違ったから、もういいやってことなんでしょ? そんなの、こっちからしてみれば気分悪い」
伊月にしては珍しく、率直な物言いだった。こんな厳しい言い方、小学生以来だろうか。
しかし後悔はなかった。何せ、相手はあの荻野なのだから。
「――ごめん」
だが、そんな伊月の心境とは裏腹に、荻野はこれまた真っ直ぐに謝罪してきた。まるで、今の伊月の態度が子供っぽいとでも言及するかのように。
伊月は厳しい顔を崩さずに視線だけ彼に向けた。荻野は真っ直ぐに伊月を見つめると、わずかに眉を寄せた。
「そんなつもりはなかったけど、君からしてみれは、いい気はしなかったよね、ごめん」
「…………」
まるで、私が子供みたいじゃないか。
伊月は険しい表情のまま、内心は激しい羞恥に震えていた。
自分に非があれば素直に謝る荻野。対して、謝罪を受け入れず起こったままの伊月。
こんなの、どっちが大人か火を見るより明らかじゃないか!
「君も、もう分かってると思うけど」
伊月のそんな心境など知るよしもなく、荻野はそんな前置きから話し始めた。
「僕は、昔から思ったことはすぐ口にするタイプでね。僕としては、間違ったことは言ってるつもりはないんだけど、時々それがあまりにも歯に衣着せない物言いだから、人からもよく敬遠される」
確かに、小学生の頃から荻野は委員長タイプだった。間違っていることは間違っているときっぱり言い切り、例えそれが誰かに不利益を与えることになろうとも、考えを改めることはなかった。
「こんな性格上、僕はよく人に敬遠されるんだ。お前は人を言い負かさないと納得いかないのか、と。でもそうじゃない。僕はただ単に意見を述べているだけであって、自分の意見を押し付けようだなんて思っていない。別にその議論に答えが無くとも、僕は構わないんだ。ただ、いろんな人の意見を聞いたり話したりするのが好きで……。だから、君にも勝手に僕の理想を押しつけてしまった。ごめん」
長い荻野の発言が終わったとき、伊月は咄嗟に口を開いていた。
「私も――」
唐突に出てきた声は、思ったよりもかすれていて、伊月は一旦唾を飲み込んで喉を湿らせた。
「私も、同じこと言われたことがある。友達に」
なぜ彼にこんなことを言っているのが。言ってももうどうにもならないことなのに。
「小六のときだけどね。私が……少し、言い過ぎちゃったことがあって。でもそのことがあってから、萎縮しちゃって、友達ともうまく話せないし」
人よりもワンテンポ遅いとよく言われるのは、言葉にする前に、一度考えてしまうから。
相手と同じ意見だろうか、相手は気を悪くしないだろうか、相手は傷つかないだろうか……。
そうして深々と考えて込んでいるうちに、目の前で繰り広げられている会話はどんどん先へと進み、思うように輪の中に入ることが出来ない。
自分自身の弱さも相まって、伊月は小学生の頃とはすっかり変わってしまったのだ。
「…………」
全く、一体私は何を話しているんだろう。
伊月は急に恥ずかしくなって、照れ笑いを浮かべた。
「荻野君は違うんだね。ちゃんと意見を持ってるし、それを相手に言えることが出来る」
なんて不思議なことだろうか。
つい昨日までは短所にしか思えなかった部分が、今では羨ましいとすら思えるなんて。
……実際、私は彼に嫉妬していただけなのかもしれない。
伊月は情けなくなって顔をうつむけた。
気後れすることなく正論をかざせる彼は、なんて自分に正直なんだろう。自分が正しいと思うことであったとしても、私ならああはいかないだろう。たった一人で、全校女子生徒に立ち向かうなんて、そんなことはきっと一生無理だ。
若干尊敬のまなざしで伊月が見つめると、そのことに気づいたのか、荻野は慌てて首を振った。
「いや。僕もそれからは多少は意識するようになった。自分の知らないところで相手が傷ついてるかもしれないと思って。……だから、今回のことは本当にごめん。悪気はなかったんだ」
「……別に、もう気にしてないからいいよ」
心からの本心だった。
彼も、かつての自分のように苦しんでいたのだと思うと、それ以上どうこうしようという思いも沸かなかったのだ。
「ありがとう」
柔らかく笑って、荻野はそう礼を述べた。しかしすぐに彼は前に向き直って、組んだ己を手を見つめた。
「東京にいるとき、時々君のことを思い出してたんだ。君といて、すごく心地よかったことも」
荻野の素直な言葉に、伊月もスッとかつての記憶を呼び起こした。
伊月と荻野、二人の親は、どちらも共働きで、二人は毎日どこかで時間を潰さなければならなかった。友人は習い事で忙しそうで、伊月はいつもお気に入りの場所――ジャングルジムの大木の影で、本を読んでいたものだ。そこへ、同じく暇を持て余した隣のクラスの荻野がやってきて、時折話すようになったのだ。約束したわけではないが、放課後になると、二人は自然、そこへ足を向けるようになっていた。
「僕は、その時間がすごく好きだったんだ。たいしたことを話すわけじゃなかったけど、その日あったことを話したり、ドラマで見たことを話したり。時にはお互いの意見が対立することもあったけど、互いに一歩も譲らないその間隔が、すごく心地よかった」
そう……だっただろうか。
伊月は複雑な表情で、内心首を傾げた。
確かに、飾らない言葉で話す彼との時間は気は楽だったが、彼の物言いは時折癪に障ることがあり、子供心に、伊月は彼のことを苦手としていたのだ。――まあ、私も子供故に直接的な物言いをし、彼を怒らせたことは一度や二度ではなかっただろうから、それはお互い様だが。
「四年間の中で、僕もそれなりに人と接していくための術を身につけた。多少は我慢することを覚えた。小学生の頃は人とぶつかることも多かったけど、今はそんなこともない」
……本当だろうか?
ちょっとだけ伊月は疑問に思った。本屋でのことを思うとなんとも言えないのだ。助けてもらったのは事実だし、ちょっとスカッとしたのも内緒だ。でも、あのときはたまたま相手に恵まれただけであって、もし万が一、暴力的な人だったら危険だったはずだ。そのことを思うと、どうも先の言葉に素直に頷けない。
伊月の疑い深い視線には気づかず、荻野は真摯な様で続けた。
「でも、何か自分の言葉を我慢したとき、いつも頭に浮かぶのは君だった。もしここで僕がこう述べたら、君はなんて反論するだろうか? 僕はこんな意見を持ってるけど、君はそれに対してどんなことを言うだろうか? そんなことばかりが頭に浮かんで、そしてようやく気づいた。君といるときの僕が、一番自然体でいられたんだって」
「――っ」
荻野の言葉は、あまりにも自然に伊月の耳に届いた。
自然体。
そんなこと、考えたこともなかった。
ずっと、自分の言動を相手がどう受け取るかばかり考えて、自分のことなんて頭にもなかった。
もし……もしも、ずっと自然体でいられたら、何か私の世界は変わっていたのだろうか?
「荻野君は、私にがっかりしたんだよね。私は小学生の頃の私じゃなかったから。だから――」
「いや、そんなことはない。確かに、あの頃とは変わった部分もあるけど、だからがっかりしたなんてことはない」
「嘘だよ」
きっぱりと言い切った荻野に、これまた伊月は言い切った。
「がっかりしてる。デート中、そんなに楽しそうじゃなかったし、呼び方だって、前島さんなんて他人行儀に戻ったじゃん」
「そ、れは……」
詰問するかのような鋭い伊月の視線に、荻野は言いよどんだ。視線を逸らし、言いづらそうに口ごもる。
「ごめん。あのときは、確かにちょっとショックだった。小学生の頃とは変わったんだなって。嫌な言い方もしてしまった」
自覚はあるんだ、と伊月は少々溜飲を下げた。それで怒りが静まるわけではないが。
「でも、今は違う。だってそうじゃないか。デートの時はあんなに大人しかったのに、風紀検査の時は元気だったし、僕だって動揺したよ。なんでこんなにも態度が違うのかって」
「それはそうだよ! だって腹が立ってたんだもん! じゃあなに、荻野君は大人しい私よりも元気な方がいいって!?」
「そうだよ! 僕は! 間違ったことは間違ってるとはっきり言える君のことが好きなんだ!」
「ば、馬鹿じゃないの!? 今はもう荻野君が望むような性格じゃないし!」
「そういうことを言ってるんじゃない!」
一際大きな声に、伊月はびくりと肩を揺らした。自身もらしくないと気づいたのか、荻野は空咳をした。
「別に、君に僕の理想通りの人になってくれなんて思っちゃいない。確かに、小学生の頃とは違う君を見て、ショックを受けたのは認めるけど、でも今は……過去の面影を探してるつもりはない。今は目の前の君だけを見てる」
「…………」
呆れでもなく、照れでもなく。もはらそれらの境地を超えていて、伊月は今感心していた。
「ほん……と、平然とくさい台詞言えるんだね……」
彼の言葉は、告白に近いものを感じたが、しかしどうにもそう思えないのは、彼の性格故だからだろうか。
伊月の的外れな返答に、荻野は再び調子を狂わされたのか、小さくため息をついた。
「それに、君は自分のこと変わったって言ってたけど、変わってないところもあるよ。特に、言い返せなくなったら罵倒し始めるところとか」
「ばっ……!」
荻野の言葉に、伊月は瞬時に赤くなった。まさか今になって持ち出されるとは!
「もしかして今朝のこと言ってるの!?」
「うん。ちょっと懐かしかった」
「べ、別にあれは……ただ、荻野君に腹が立って……!」
「昨日もすごかったな。触らないでとか、近づかないでとか」
「あれは、あのときはすごく嫌いだったし――」
「でも、あのときから君らしいなとは思ったよ。言いたいことを我慢するより、ハッキリ言ってくれる方が、僕も好き――」
「――っ、このドM!」
やけになって伊月は思いきり叫んだ。
彼は一体どうしたいのだろう。私とどうなりたいのだろう。
確信的な言葉を避け、好きだとしか言わない彼。その『好き』という言葉すら、彼が口にすると、ただの純粋な言葉にしか聞こえない。
なぜ自分がここまでムキになっているかは分からなかった。
いや、もしかしたらもうすでに分かっているのかもしれない。ただ、自分から行く勇気がないだけで――。
「荻野ー、終わったか?」
そのとき、唐突に会議室の扉が開いた。そこから顔を出したのは、荻野のクラスの担任である。
「なんだ、まだ全然進んでないじゃないか」
素っ頓狂な顔で彼が見たのは、長机の上だ。いつの間にか伊月達の作業の手は止まっており、机にはまだまだ山積みの書類の山があった。
「お前らしくもない」
その言葉に、伊月はチラッと荻野に視線を向けた。確かにと思ったのだ。彼ならば、話しながら作業することだって出来ただろうし、むしろ、先生から言われたことがきちんとできなかったことの方が、彼にとってはずっと悔しいだろう。にもかかわらず、彼は作業を終わらせることが出来なかった。いや、あまりに話すことに夢中で、作業のことをすっかり忘れていたと言った方が的確か。
「ふっ」
なぜだかは分からないが、伊月と荻野はゆっくり顔を見合わせたかと思えば、思わず噴き出していた。
「あははは……!」
荻野は口を押さえ、伊月はお腹を押さえ。
「な、なんなんだお前達……」
担任は困惑したようにぱちくりと瞬きを繰り返した。しかしそれでも二人の笑い声は止まない。
そういえばと、二人の視線は、示し合わせたように互いへ向いた。
こんなに笑った顔、初めて見たかも。
かつて小学生だった頃の記憶にも、こんなに笑ってる姿は見たことがなかった。
柄にもなく歯を見せて、目を細めて、爆笑している姿。
――これからも、きっと新しい君を好きになる。
咄嗟にそんな予感がして、二人は一層大きな笑い声を立てた。