05:風紀委員
伊月の高校は、一学年六クラスまである。一組から三組までは一階に教室があり、四組から六組までは二階に教室がある。そのせいもあってか、基本的に階の違うクラスは滅多に交流がないし、唯一合同体育では、一組と二組、三組と四組というように二組ごとにわかれるので、これすらもかち合わないクラスは、文化祭や体育祭などのイベントごとに加え、部活動で顔を合わせることがなければ、基本的に交流がないと言っても過言ではない。
そう、だから、一組の伊月と、四組の荻野では、登下校くらいしか顔を合わせることはないだろうし、その登下校も、優等生の荻野と、普通の生徒の伊月では、登校時間も違うはず。よって、きっとこれからは、早々顔を合わせることなんてない。そう、思っていたのに――。
「おはよう」
「な、なんでここに……」
伊月の言葉は、尻すぼみに消えていった。
もうすぐショートホームルームの予鈴が鳴りそうなくらいのギリギリな時間。登校する生徒の数ももはやまばらな校門前にて、きっちり制服を着こなした荻野律哉が、伊月の目の前に立っていた。
「僕は風紀委員だからな」
キリッと眼鏡を押し上げる姿からは、なるほどという印象しか感じられなかった。
確かに、この人なら似合ってる……。
「――って、そうじゃなくて!」
伊月は頭をぶんぶん振り回して、荻野をジトッと睨み付ける。
「風紀委員だからって、どうしてここに!?」
「今日から校門で風紀検査を始めることにしたんだ。この学校は、進学校の割に風紀が乱れている。僕が率先して指導していくつもりだ」
「な……」
伊月は唖然と目の前の彼を見つめるのみ。驚きのあまり、言葉が出てこなかった。
しかし対する荻野は、そんな伊月をものともせず、ずいっと近寄ってきた。
「……っ、なに」
そしてそのまま伊月の顎に手をやる。くいっと顔を上げられてようやく伊月は正気に戻った。
「な、何して――」
「土曜日の時も思ったけど、もしかしてメイク、してる?」
「そ、れが?」
「校則でメイクは禁止されてる。落として来て」
荻野は涼しい顔でメイク落としを差し出した。どうしてそんなものを持っているの。
伊月の胸の内を透かしたように、荻野は微かに笑みを浮かべた。
「ここの女子はすごいね。みんなメイクしてる。校則を守る気はないんだろうか。先生の言う通り、メイク落としを持って来ていて正解だった」
「め、メイク落とし……」
わざわざ買ってきたんだろうか。男子高校生が、薬局かどこかで。
哀れんだ目で見つめる伊月の視線を無視し、荻野はもう一度ずいっとメイク落としを差し出した。
「早く落として来て。ちゃんと落として来たら、もう一度ここに来てね。チェックするから」
「い、いや」
咄嗟に伊月の口からそんな言葉が出た。しかしその反射的な行動は、伊月を強気にさせるには十分だった。
「どうしてあなたに従わないといけないの? 今までは何も言われなかったし」
無理矢理言い訳を並べ立ててみる。メイクをして通学しても、教師からは何も言われていないし、上級性もまた然りだ。その暗黙の了解とも言える自由な校風を、荻野たった一人にとやかく言われたくはない。
「でも校則ではメイクは禁止されてる。破ると反省文を書かされることになるよ」
「今までは大丈夫だったじゃん!」
「今までは大丈夫でも、今日からは駄目だ。ほら、早く」
まるで親の敵でも見るように、伊月はメイク落としを睨み付ける。その際、手持ち無沙汰な荻野は、伊月越しに他の女子生徒にも声をかけた。
「君たちもだよ。メイクはしっかり落としてきて」
伊月と荻野がもめている中、こそりこそりと侵入しようとしていた彼女たちは、一気にげんなりした顔になった。大人しく荻野の所までやってくる者も、無視してそのまま校舎に入ろうとする者もいる。
「君、名前なんて言うの? チェックするから、名前」
「うっさいなー。もうあっちに行って」
伊月以上に派手なメイクをしている生徒に、荻野は歩み寄った。
校舎までは後十数メートル。これで伊月を阻む者はいなくなった。
「――あっ、ちょ、前島さん!」
荻野の焦ったような声がかかったが、伊月はそのまま走り抜け、校舎の中に入った。二兎追うものは一兎をも得ず。荻野もそう思ったのか、伊月を追うようなことはせず、そのまま派手なメイクの女子生徒の指導に当たることにしたようだ。
「何が前島さん、よ」
伊月はブツブツ言いながら靴を履き替えた。何故だか無性にイライラしていた。
「この前は下の名前で呼んでたくせに」
バンッと下駄箱の扉を閉めると、伊月は足音も荒々しく教室へ向かった。
*****
予鈴が鳴り終わってすぐ、伊月は教室に入った。
「おはよー」
「おはよう!」
楽しそうに話している万里子と香奈恵に挨拶をすると、そのまま険しい顔つきで伊月は席に着く。二人は困惑した顔つきで伊月の元にやってきた。
「伊月、遅かったね。寝坊?」
「荻野君に捕まってたの。二人も会ったでしょ?」
「え、なにそれ」
すぐに荻野への不満が爆発するものと思っていたが、彼女たちの返答は、思いも寄らないものだった。
「風紀検査してたでしょ? 校門で」
「正門ではやってなかったけど」
「伊月って、裏門だっけ?」
「うん、裏門……」
言いながら、伊月は再びちょっとした怒りがこみ上げていた。
なぜ裏門でだけ風紀検査なんだ、と。どうせなら、正門と裏門同時にやって、全ての女子生徒から反感を買えば良かったのに、との思いもあった。
「でも、なんで急に風紀検査?」
「荻野のことだから、校則破ってることが気になったんじゃない?」
「あり得るー」
香奈恵は深々と頷いた。伊月はぶすっとした顔を隠そうともせず再び口を開いた。
「それに荻野君、なぜか一人でやってたし、風紀検査。せめて違う人だったら良かったのに」
「他の風紀委員からも山道得られなかったんじゃない? もうメイクは暗黙の了解みたいなもんだし、朝早くからメイクチェックなんて、風紀委員にとってもしんどいでしょ」
「よくやるよね、本当」
やれやれと万里子は首を振った。
「でも、なんで裏門だけなんだろうね」
「普通やるなら正門だもんね。正門の方が生徒も多いし、やりがいもあるだろうに」
「…………」
万里子と香奈恵は、まるで示し合わせたかのように、同時に伊月を見た。伊月はビクッと肩を揺らす。
「……案外、伊月に会いたかったからだったりして」
「風紀検査は本心でも、わずかに残ってる下心が、正門より裏門を選ばせたりして」
「あり得るー」
茶化したような物言いに、伊月は声と視線を鋭くした。
「変なこと言わないで」
ピシャリと言い切ると、気圧されたように二人は黙った。伊月はすぐにハッとして二人を見上げた。。
「あっ、ごめ……」
「ううん、別に気にしてないけど」
さして気にした様子もなさそうに万里子は首を振るが、伊月はそれでも納得がいかない。
「でも、ちょっと感じ悪かったかなって――」
「だから気にしてないって」
うだうだと落ち込む伊月に、香奈恵はピシャリと言った。
「伊月の気持ち分かるし。荻野むかつくーって気持ち」
「だから気にしないでよ。それに、今の伊月の方が、さっぱりしてて好きだし」
万里子は香奈恵を振り返った。
「ね?」
「うん。あたしも率直な伊月の方が好き〜」
呆気にとられたように、伊月はしばらく二人を見つめていた。
万里子と香奈恵は、高校生になってから初めての友達だ。二人は、もともと中学からの友人だったらしく、いつもピッタリ息が合っていた。そんな二人に、伊月は時折申し訳ない思いを抱くことがままあった。二人で楽しく話してるときに、自分が割って入ってもいいものか。気を悪くしないだろうか。もともとの心がけも相まって、伊月は今まで以上に二人の顔色を見て行動するようになった。二人の意見には逆らわないように、まるで気が合っているかのように、同調して、相づちを打って。
そんな生活ばかりしていた伊月は今、少しだけ救われたような気がした。自分は我慢してでも、他人に合わせるのが伊月のモットーでもあったが、この二人の間では、多少、自分に素直になってもいいのかもしれないと。
伊月はゆっくり顔を上げた。
「……ありがとう」
ようやくそれだけ言うと、そのすぐ後に本鈴が鳴った。パタパタと他の生徒たちが席に着く中、万里子は、まるでたいしたことないようにポンと伊月の背中を叩いた。
「はいはい」
香奈恵も頷いて、そのまま自分の席に帰って行く。あまりにもあっさりした行動だったが、それが逆に伊月の心を落ち着かせた。
きっと、二人には想像もつかないことなんだろう。自分の意見を口に出せず、内に秘めてばかりの人間の気持ちは。きっと理解も出来ないはずだ。きっとわかり合えない。でも、だからこそ、二人の何でもない言葉、行動は、今の――今までの伊月を救うには十分な存在だった。