03:過去の面影
昼ご飯を食べ終わった後、二人はそそくさと店を出た。そのまましばらくの間歓談に耽る手もあったのだが、映画の話以外に話題を見つけることができず、沈黙が辛かったので、伊月が無理に出ようと言ったのだ。
店の外はまだ明るく、さすがに映画を見て、ご飯を食べてはい解散、というのは味気ないような気もする。
「この後はどこか行くの?」
緊張して伊月が尋ねると、荻野は真面目な顔で伊月を見る。
「いや、特には決めてない。伊月さんはどこか行きたい所ないの?」
「あ……そうだね」
完全に、今日のデートを荻野に任せる気でいた伊月は焦った。ここで特に行きたいところがないと答えたら、なんて面白味のない女性だろうと思われないだろうか。
現時点、伊月は荻野に好かれようなどとは思っていないが、しかし悪く思われてしまうのとはまた訳が違うように思う。
散々迷った挙句、伊月は一つの答えを絞り出した。
「本屋……かな」
「本屋?」
躊躇いがちに伊月は頷いた。どこか行きたいところ、と言われても特に思い浮かばなかったが、とりあえず本屋なら無難だろうと思ったのだ。本屋ならば、彼も退屈しないだろうし、何より多少会話が少なくても何とかなる。
「何か買いたいものでもあるの?」
しかしそんな伊月の気遣いをよそに、荻野は不思議そうに聞いてくる。普通、本屋に行きたいと言い出したら、何か買いたいものがあるに決まっているだろう。――いや、今回に関して言えば、確かに伊月は気を使って本屋と言い出したのだが――とにかくこういう場合、普通はあるに決まっている。
「うん……まあ。ちょっと見てみたいかなって」
「……分かった。じゃあ行こう。駅前のあの大きな本屋でいい?」
「うん」
この近くには、映画館や本屋、飲食店、ショッピングモールなど、一通りのものは揃っているため、大抵の人はこの近くで遊ぶことが多い。断る理由など無いので、伊月は何の戸惑いもなく頷いた。
昼下がりの本屋は、たくさんの人でごった返していた。大きな本屋といえど、立ち読みする人が多い今の状況では、人一人がすれ違うだけで精いっぱいだ。
「じゃあ一時間後に入り口で待ち合わせしよう。僕はあっちの方に行ってるよ」
「え……あ、うん」
呆気にとられる伊月をよそに、荻野は迷う様子もなくずんずすっ奥へ進んでいった。伊月はポカンとその様を眺める。
「…………」
いや、別に一緒にいたいとかいうのではないが。
あまりにあっさりし過ぎているようで、伊月は戸惑ったのだ。
普通、こういう場合は一緒に見て回るものではないのだろうか?
それに一時間というのは、些か長すぎるような気もしなくはない。買おうか迷っている本もないわけではないが、十分もあれば買える。残りの時間を一人で見て回れということだろうか。
といっても、伊月の場合がそうだというだけで、荻野は本を見て回る時間はたくさんあった方が良いのかもしれない。ひとそれぞれなのだろう。
悩んでいても仕方がないし。
伊月は早々にそう納得すると、早速目的の場所へ行った。好きな作家の新刊が出たので、暇があれば買いに行こうと思ったのだ。
伊月は一冊本を手に取ると、最初の方を捲ってみる。いつもながら読みやすい文体で、すんなり頭の中に入ってくる。あらすじも面白そうだ。
早速買ってみようか、と伊月はレジを探すが、すぐに思い返して本を戻した。一時間も見て回るのだ。そのうちにもっと買いたい本が出てくるかもしれない。
伊月はそのまま本屋の中をブラブラしていた。雑誌に純文学、児童文学と、色々なコーナーを渡り歩いていく中で、荻野の姿を発見した。天井を見上げてみれば、学術書と書かれた看板がつるされていた。
やっぱり学年一の頭脳は伊達じゃないんだなあと伊月は口元を緩めた。本に目を落としている彼の横顔は、真剣そのものだ。
何を読んでいるんだろう。
伊月は無意識のうちに足を踏み出していた。どうせあの彼のことだ、小難しい本でも読んでいるんじゃないかと思う一方で、その予想を覆すような何かを読んでいないかとの期待もあった。
高い本棚の曲がり角を抜けたところで、伊月は不意に右側から衝撃を受けた。と同時に、何か冷たいものが右腕にかかった。
「っぶねーなー」
すぐ上から男の声が響き、伊月は反射的に頭を下げた。
「す、すみません……」
「ったく、どこ見て歩いてんだよ。服が汚れただろ」
男は缶コーヒーを持って歩いていたらしく、確かに上半身と下半身、どちらも黒いシミが出来ていた。伊月がこそっと己の服を見下ろせば、彼女の方も、右腕とズボン両方にシミが出来ていた。どちらが走っているわけでもなく、普通に歩いていて曲がり角でぶつかったのだから、お互い様ではないのかと伊月は不満に思ったが、口には出さない。事なかれ主義なのだ。
「どうかしたんですか?」
苛立たしげに騒ぐ男の声を聞きつけたのか、荻野がやってきた。伊月は反射的に渋い顔になった。彼の登場で、事態が穏便には済まされない気配を感じたのだ。
「こいつが急にぶつかってきたんだよ。大方よそ見でもしてたんじゃないか?」
「本当?」
事の真偽を問うような視線が伊月に向けられた。そのまま頷くのも癪に障るし、かといって本当のことも言う勇気はないしで、伊月は結局お得意の愛想笑いを浮かべた。しかし逆にそれがかんに障ったのか、男は本棚を右足で蹴りつけた。
「なんだよその態度は。俺が悪いってのか?」
「え? いえ、そんなことは……」
「ハッキリ言えよ!」
「ではハッキリ言いますが」
伊月と男との間に、なぜか荻野がずいっと割って入った。
「店内は飲食禁止のはずですが。なぜ飲みかけのコーヒーを?」
「うっ」
「どちらも被害は同じほど。僕から見れば、どちらが悪いとは言い切れないと思いますが。どちらが悪いかハッキリさせて欲しいというのなら、強いて言えば飲食禁止の場で飲みかけの缶コーヒーを持っている方が悪い――」
「お客様、どうかされましたか?」
伊月にとっては天からの助けとも思える書店員が現れた。真面目な顔で淡々と私見を口にする荻野に、おそらく中立の立場の店員。自分に不利になると察したのか、男は舌打ちしながら去って行った。地面のコーヒーの汚れはそのままだったが、とりあえず伊月はホッと息をつく。
「すみません、ちょっと人とぶつかってしまって。何か拭くものって……」
「あ、すぐにお持ちいたしますね」
書店員が奥へ引っ込むと、伊月はこっそり荻野を見た。彼は未だ、去ってしまった男の方を不満そうに眺めていた。きっと、中途半端なまま終わってしまった出来事に不服なのだろう。
「……ありがとう」
一応伊月は礼を述べた。過程がどうであれ、何事もなく無事に事が済んだことは確かだ。
「……いや。それよりも大丈夫か? 火傷とか」
「ううん、大丈夫。アイスコーヒーだったみたいだから」
「そうか」
その後、店員がやってきて、一緒に掃除をした後――といっても、ほとんど手伝えるようなことはなかったが――結局二人はすぐに店を出た。そのままそこに居づらかったというのが一番の理由だが、伊月としては荻野が気がかりだった。何か本を買いたかったのではないかとも思ったが、しかしそれを口にしたところで、あそこで騒ぎを起こした身でむざむざ戻れるわけもない。今となってはそのことについて言及する気力もなく、結局伊月は口を閉ざしたままだった。
外の大通りを歩いていると、荻野が伊月に顔を向けた。
「シミ、ちょっと目立ってるけど、どこかで着替える?」
「いや、洗うだけで大丈夫。待たせると思うけど、少しお手洗いに行ってていい?」
「じゃあそこで待ってる」
荻野が指さしたのは、すぐ近くの公園だ。トイレもあるし、近くにはベンチもある。
「分かった。すぐに行ってくる」
伊月はトイレに駆け込み、急いで意味抜きを始めた。こんなことで待たせるのは忍びないと、伊月は少々情けない思いだった。