第一章 偶然か、必然か

09:受け取り方の違い


 嫌な予感はしていたのだ。
 朝起きたときから、カイル、サリム共にどことなく元気がなかったし、朝食の時の会話も弾まなかった。仕事に行く準備をしようと立ち上がるセリアを引き留めて、二人の兄弟は居住まいを正した。

「セリア、ここ一週間、ここに住ませてくれてありがとう。ご飯も服も用意してくれて、本当に助かった」
「お姉ちゃん、今まで楽しかった。ゴンドラに乗れて観光までできて、すごく嬉しかった」
「……行っちゃうの?」

 兄弟は、声もなく頷いた。つんと鼻の奥が痛み、セリアは咄嗟に下を向く。

「本当に短い間だったね」
「でも、俺たちすごく楽しかったよ。地上で生活するの、初めてだったから、何もかもが目新しくて、な?」
「うん。もう悔いはないよ」

 にこにこと微笑む二人に、セリアは何も言えなかった。
 ずっとここにいればいいのに。それができなくても、また会いに来てくれればいいのに。
 でも、それは言葉にならなかった。彼らの口ぶりから、もう会うことは二度とないのだろうと容易に予見できた。

「見送りに行ってもいい?」
「えっ……と、でも、仕事は?」
「見送りの方が大事だよ! ちょっとくらい休んでも平気」
「そ、そっか」
「迷惑?」

 浮かない顔でセリアは聞いた。ずるい言い方だとは分かっているが、このままお別れはどうしても嫌だった。

「そんなことは! ……分かった。じゃあお願いするよ」
「ありがとう」
「いや、こちらこそ」

 照れっと笑うカイルに笑みを返すと、セリアは外套を身にまとった。二人の見送りの後は、すぐにまた仕事に行かなければならない。――どんなに寂しくても、セリアの日常は変わることはないのだ。そのことが、セリアは無性に虚しいような気がした。カイルとサリムが来たことで、セリアは非日常を味わっていたが、それももう終わり。またいつもの色あせた日常の始まりだ。
 亡くなったセリアの父の外套でサリムをくるむと、カイルは彼を背中に抱えた。セリアはセリアで、先に外を出ると、誰か人が来ないか注意深く見渡した。

「今なら大丈夫」
「分かった」

 こそこそと足音を響かせながら階段を降りると、集合住宅地の隅まで一気に走り、ゴーグルを装着したサリムを運河に下ろした。サリムは目だけを運河から出しながら、カイルとセリアの後を追う。
 一体どこでお別れをするんだろう。
 辺りを窺いながら歩くカイルの背を見ながら、セリアはぼんやりと考えた。
 どうせなら、日が暮れるまで市場を見て回ってもいい。お金は持ってきたから、せめてお別れの印に、何かおいしいものでも奢って――。
 だが、セリアが考えていたよりもずっと早く、お別れのときは来た。なんてことない、人通りの少ない運河の道でカイルはくるりと振り返ると、唇をきゅっと結んでセリアを見た。

「ここでお別れだ」
「……ここで?」

 セリアは物珍しそうに辺りを見回した。これといって何か珍しい場所な訳ではない。まさか、こんな近くに住んでいるわけでもないだろうし。

「俺たちは海の下で暮らしてるんだ。神殿の底で」

 辺りに人がいないのを確認すると、カイルは運河に飛び込んだ。小さく跳ねる水に、サリムはくすぐったそうに身をよじらせた。
 見た目は人間である彼が、海の上に浮かんでいる光景というのは、いささか不思議なものだった。

「そうなの? あっ、でも確かにサリムは人魚だもんね。や、でもカイルは人間だし……。え、呼吸はできるの? 寝るときは?」

 セリアの口からどんどん飛び出す疑問に、カイルは目を丸くすると、明るい笑い声を立てた。

「もちろん、人間の俺たちは空気がないと生きていけないから、神殿の地下で暮らしてるよ。でも、地下からはラド・マイムの運河とも繋がっていて、水の通り道があるんだ。だから、そこでは人間と人魚が共存して暮らすことができる」
「そうなんだ……」

 感心したようにセリアは声を漏らした。といっても、聞きたいことはまだ山ほどあった。どうして人間と人魚が共に暮らしているのか。なぜ人魚は神殿の地下などで暮らしているのか。
 ……だが、きっとそれを口にしても、教えてくれないだろうことは想像にたやすかった。所詮は、セリアは数日同居しただけの知り合いに過ぎないのだ。それも、おそらくもう会うことはないだろうから、ゆくゆくは薄れ行く記憶となってしまうのだろう。

「カイルはどうやって行くの?」

 ――それでも、涙ながらのお別れなんて嫌だ。
 セリアは無理に笑顔を浮かべると、カイルを見た。

「この前も言ったけど、海の中で目なんか開けたりしたら、病気になっちゃうよ」
「俺は目をつむっていくから大丈夫だよ。海の中はサリムが先導してくれるし」
「でも呼吸は? 神殿の地下まで遠いんじゃないの?」
「確かに遠いけど……酸素には困らない当てがあるというか」

 言いながら、カイルは懐から袋状のものを取り出した。セリアはしげしげとそれを見つめる。

「それが当て? それを使うと、呼吸ができるようになるの?」
「えっと、これは……まあ、呼吸はできるようになるというか」

 不器用に言葉を濁すカイルに、セリアは眉を下げた。

「……ごめんね、質問攻めにして」

 聞かれたくないのだろうということは分かっているのに、ついつい別れが惜しくて、引き留めてしまった。
 セリアはしゅんと落ち込むが、なぜかそれ以上にカイルもしょげかえった。

「ごめんね、こっちこそ、何もかも言わないことだらけで。でも、セリアに感謝してることだけは確かなんだ。サリムを助けてくれた上に、俺たちを家に住まわせてくれて」
「うん。僕もありがとう。お姉ちゃんが買ってきてくれたご飯、どれもおいしかったよ」
「……うん」
「ねえ、お姉ちゃん」

 サリムは歩道に身を寄せた。それを見て、セリアも周りを気にしながら、そっとしゃがみ込む。

「なあに?」
「これ、もらってくれる?」

 そう言ってサリムが差し出したのは、小さく光る何かだった。セリアがそれをまじまじと観察すると共に、彼女の後ろでは小さく息をのむ音がした。

「サリム、それは――」
「別にいいよね? お姉ちゃんだもん」
「だけど、このことが長たちに露見したら――」
「お兄ちゃんが言わなければ大丈夫だよ!」

 うっと盛大に口ごもるカイルを、サリムは得意げに見返した。そのときになってようやく、セリアも手の中のものが何があるかについて気がついた。

「これ、サリムの鱗……!? こんなに大切なものもらってもいいの? 痛くなかった?」
「ちょっと痛かったけど、平気! お姉ちゃんにもらって欲しかったから、気にしないで!」
「でも――」
「セリア、俺が言うのもなんだけど、もらってくれないかな?」

 なおも苦言を口にしようとするセリアに対し、カイルが割って入った。歩道に手をつき、彼は柔らかく微笑む。

「人魚にとって、自分の鱗を渡すのは、親愛の証なんだ。どんな言葉や行動よりも、たった一枚の鱗が、何よりも強い影響力を持っている。……本当は、人間に鱗を渡すのは禁止されてるんだけど、セリアになら俺ももらって欲しい」
「うん……。ありがとう。大切にする」

 じっと鱗を見つめた後、ほんのり微笑むと、セリアは鱗を懐にしまった。きっと、これは一生の宝物になるだろう、と。

「あと、俺からもこれを」

 ちょいちょいとカイルが手招きするので、セリアは一層身をかがめた。さっと首にかけられたのは、ネックレスのようなものだ。

「この前、鑑定してもらったんだ。珍しいものだから、売ったら高くつくって言われたよ。数日間、本当にお世話になったから、そのお礼。生活の足しにしてくれたら嬉しい」
「なっ、カイル――」
「今まで本当にありがとう!」

 引き留めようと手を伸ばしたセリアの手をすり抜け、カイルはパッと運河から離れた。左手にはしっかりと袋状のものを持ち、右手はサリムの腕に掴まっている。

「お姉ちゃん、僕もありがとう! 楽しかったよ!」
「元気で!」

 咄嗟に声も出ないまま、セリアは大きく目を見開いたまま、二人を見送った。ぶんぶん手を振って、彼らが静かに海の中に沈んでいくそのときまで。
 セリアはギュッと胸元のネックレスを握りしめた。わなわなと唇が震える。
 ――ずるい……ずるいずるいずるい!
 全身の血が煮えたぎるようだった。カッと頭に血が上り、それでいて、怒りだけではない他の感情が、胸を締め付ける。
 見返りなんて求めてなかった。にもかかわらず、今までの善意でしてきただけのことが、全部ふいにされたような気がして。
 彼に、そんなつもりはないなんてことは分かっていた。きっと、今までの衣食住がお世話になった分、恩返しをしたいと、そういうつもりなのだろう。
 しかし、セリアは一瞬でも思ってしまったのだ。まるで、お金をポンと渡しただけで、関係が切れてしまうような、そんなゴンドラ漕ぎと客との関係のようだ、と。

「――っ」

 セリアは、咄嗟に海の中に飛び込んだ。自分でもなにが何だか分からないが、とにかく二人を追って、ネックレスを突き返すつもりだった。こんなものなんかいらない! と。
 セリアは大きく息を吸い込んで黒い海の中に身を沈めた。ゴミや汚物に塗れた海の中は、真っ昼間でも暗い。日の光をほとんど通さないのだ。

 セリアは、潜水は得意だ。呼吸を止めるのも。

 だが、さすがに人魚の泳ぐ速さには追いつけなかった。ゴーグルをつけた目を凝らすが、二人の姿はてんで見当たらない。
 やはり、無謀だったのだろうか。感情にまかせて潜ってはみたものの、この有様はなんだ。
 セリアは次第に空しくなってきた。
 ネックレスを突き返したとして、どうだというのだろう。
 きっとカイルは困惑するだけだろうし、セリアにしてみても、ただ気が済むだけ。そのまま変な空気になって別れるだけだというのに。

 セリアの口から、コポッと空気が漏れ出した。無気力にものを考えるあまり、いつの間にか、自分の肺活量の許容範囲を超えていたらしい。
 海の中をかき分ける力も、次第に弱まっていく。

 ……情けない。こんなことになるなんて。

 急いで浮上しなければと思う一方で、もう面倒だとの思いも頭を締めた。
 どうせ、家に帰っても一人なら、ここで事切れても同じことではないのか。
 最後の空気がセリアの口から出ていく。最大限まで空気を押し出したセリアの身体は、不思議と軽い気がした。力を抜けば、ゆっくりゆっくり、その身体は上へと引っ張られていく。

 苦しい。そうは思うのに、まるで眠りにつくような心地でもあった。永遠に目覚めない、永久の眠り。

 しかし気を失う少し前、黒い海の波間が、揺らめいたような気がした――。