第一章 偶然か、必然か
08:ゴンドラ観光
朝からサリムの機嫌が良かった。昨夜、ようやくゴーグルができあがったこともあって、嬉しそうに何度も顔に装着したり外したりしていた。とはいえ、浅いタライの中では思うように潜ることもできず、未だゴーグルの使い心地は試せていないのだが。
「じゃあ、仕事に行ってくるね」
「うん、頑張ってね!」
ゴーグルをしたまま、サリムが元気よく手を振る。
――自分以外に同じゴーグルをした人がいるなんて。
セリアは少々不思議な心地だった。
「行ってらっしゃい」
カイルも玄関までセリアを見送りに出た。なんだか新鮮な思いがして、セリアはむず痒くて仕方がなかった。
でも、と、階段を降りている最中、彼女の足は止まった。
――彼らが、この家からいなくなるのも、時間の問題だろう。
今は幸せでも、やがてまた一人になってしまう時が来るのだ。
そう考えると、セリアは顔をくしゃくしゃに歪めた。
*****
ゴンドラ漕ぎの仕事は好調だった。絶え間なく客が現れ、また、その客達の機嫌も良かったため、代金を乱雑に扱われることもなかったのだ。
昼を過ぎると、ゴンドラを小さな運河の端に止め、昼休憩を取った。すぐ側に濁った汚水があるわけだが、慣れたセリアにとってはなんてことない。パンとチーズを口に運びながら、ぼんやり目の前に広がる運河を眺めていた。
「せ、セリア……」
と、突然上から小さな声が振ってきた。聞き覚えのある声に、セリアはきょとんとして顔を上げた。
「カイル? どうしたの、こんなところで?」
今日は買い物は頼んでないはずだ。もしかして気晴らしに出かけたのだろうか、とセリアはぼんやり考えた。
「今、大丈夫? ちょっとこっちに来てくれない?」
「今? ……まあ、お客さんはいないから、大丈夫だけど……」
とはいえ、ゴンドラを歩道に繋がなくてはならないので、少しだけ面倒でもある。しかし、やけにカイルの様子が嬉しそうなので、断るのも忍びなく、セリアはゴンドラを歩道に近づけた。所々に設置されている係留柱に縄でゴンドラをつなぎ止めると、セリアは歩道に上がった。
「こっちこっち」
カイルが導くのは、裏路地の方だ。片側に細い運河が通っているが、反対側は高い壁があるのみだ。高い壁により、日も差さないので、犯罪が横行する場所でもある。あんまり奥へ行く前に、カイルを止めようかとセリアが考えていたとき、その声が耳に飛び込んできた。
「お姉ちゃん、おねーちゃん!」
「ど、どうしてここに!?」
セリアは思わず運河に駆け寄って跪いた。暗く陰る運河からは、サリムがちょこんと顔を出していた。
「えへっ、お兄ちゃんに頼んだんだ。お姉ちゃんがゴンドラ漕いでるところが見てみたいって!」
「随分探したよ……。この街、凄く入り組んでて、もうこの場所がどこだか分からないし。せめてセリアが見つかって良かったよ」
セリアの心配を余所に、兄弟はいたって呑気である。セリアは表情を硬くした。
「でも、危ないんじゃないの? もし他の人に見つかったら……」
「丁度暗くなってきたし大丈夫だよ! もし見つかりそうになっても、ゴーグルをつけて潜ればいいだけだし」
サリムは鼻を高くして額のゴーグルを見せつける。その光景に、セリアはちょっと噴き出してしまった。
「もう、じゃあちょっとだけだよ? 危なくなったら、すぐに隠れてね」
「うん!」
嬉しそうにゴーグルを装着するサリム。その様子を見て、いいことを思いついたとばかり、セリアは喜色満面にカイルを振り返った。
「あ、じゃあカイルは私のゴンドラに乗ってみる? 乗るの初めて?」
「え、あ、初めてだけど……。でも、迷惑じゃ? 仕事の途中だろうし」
「そんなことないよ。どっちにしろ、サリムと一緒に運河を走るのなら、知り合いの方がいいだろうし」
「お兄ちゃん、折角だから乗せてもらいなよ!」
サリムも勢い込んで叫んだ。カイルはしばらく視線を彷徨わせていたが、やがて力なく項垂れた。
「お願いします……。実は、ちょっと乗ってみたかったんだ」
「了解」
いやに素直なカイルがおかしくて、セリアは笑いを堪えながらゴンドラに向かった。
まさか、自分のゴンドラに知り合いを乗せることになるなんて。
行きずりの縁が多いこの職業では、顔見知りができることはほとんどなく、あの貧民街でもまたそうだった。子供一人で住んでいること自体よく思われていないだけでなく、ゴンドラ漕ぎという子供に似つかない職に就いていることも、人を遠ざけている要因の一つなのだ。
「歩道との間、ちょっと隙間があるから気をつけて。ゴンドラに乗ったら乗ったで、少し揺れるし」
「分かった」
頼もしい返事とは裏腹に、カイルは非常に慎重だった。片足をゴンドラに乗せて、もう片方は、揺れないようにゆっくりゆっくりと移動させている。
――乗るのなら、一気に乗った方が楽なんだけど。
セリアはそうは思うものの、カイルの思うようにさせていた。だが、案の定途中で体勢を崩したカイルが、あわあわと両手を振り回した。セリアは慌てて彼の両手を掴む。
「あっ、ごめん……」
「ううん、大丈夫?」
情けない姿をさらしてしまったとばかり、カイルは頬を紅潮させてそっぽを向いた。その先には、ニマニマと嬉しそうに笑うサリムが。
「お兄ちゃん、格好悪い」
「……うるさいな」
「お姉ちゃんの方が格好良く見える」
「うるさいな!」
ぎゃあぎゃあ口げんかをする兄弟を尻目に、セリアはゴンドラを出発させた。初めはゆっくり、だが、次第に流れに乗って速さが出てくる。
「気持ちいいな……」
頬を撫でる風に、カイルは目を閉じた。肌寒くも感じられる冷たさだが、それでも新鮮味があるせいか、心地よく感じられる風。等間隔にギコギコ鳴るオールの軋み音も、慣れればまるで子守歌のようにすら聞こえる。
カイルは、知らず知らずのうちにゴンドラに座り込んでいた。全身の力を抜き、たゆたうように船の揺れに身体を預ける。――不意に、顔に冷たいものがかかり、カイルは反射的に目を開けた。
「サリムか?」
「あたりー。居心地いいからって寝ちゃ駄目だからね!」
「分かってるよ」
いつもとは正反対の立場に、カイルはいささか唇を尖らせた。そうして、オールを漕ぎながら、微笑んでこちらを眺めているセリア目をとめると、彼女に向かって片手を差し出した。
「替わろうか?」
「え? でも、慣れてないと難しいかも」
「大丈夫だよ。セリアは休んでて」
困ったように笑うセリアからオールを受け取ると、それに力を込めた。セリアが漕いでいたときの推進力が残っていたため、わずかにゴンドラは前進する。だが、それもほんのつかの間、すぐにゴンドラは停まってしまった。
「あれ? おかしいな……」
首を傾げながら、カイルは思い切りオールに力を入れる。と、再びゴンドラは動き出したが、それは本来のカイルが望む方向ではなかった。ぐんと右へ進路をとり、目の前に突然歩道が現れたため、カイルは大いに慌てた。
「うわっ、これはどうすれば……」
カイルは再びオールに力を込めるが、その行為は余計に歩道へ近づけさせることしかしなかった。
「せ、セリア、どうすれば――」
ゆっくりゆっくり歩道へ近づくゴンドラをどうしようもできず、カイルはしどろもどろになってセリアに助けを求めた。セリアはへにゃりと眉を下げる。
「そのまま、漕がないでいてくれる? こっちは大丈夫だから」
言いながら、セリアはゴンドラから片足を出して歩道を蹴った。わずかな推進力と共に、ゴンドラは小さく進路を変えていく。
「わあ、お姉ちゃん格好いい……」
セリアの行為自体は大したものではないが、その前に兄の情けない所業を見ていたサリムは、素直に感心していた。弟の考えていることが容易に想像がついたカイルはカイルで、ふっと自嘲の笑みを浮かべた。
「セリア、代わろう。やっぱり俺には無理みたいだ……」
「う……ん、でも、私も最初はそんな感じだったよ? もっと酷かったかも。やっぱり慣れの問題だと思うけど」
「うん。そういうことにしておく」
しょんぼりしてしまったカイルが少々気がかりだったが、セリアはオールを手に再びこぎ出した。再び流れ出す景色に、カイルはホッと息を漏らした。
「市場も、見てみたいなあ。お兄ちゃんに聞いたけど、人がいっぱいいるんでしょ? お店もたくさんあって」
「でも、誰かに見つかったら危険だよ」
今ゴンドラが走っているのは、人の少ない細い運河ばかりだ。それだとどうもサリムの好奇心は収まらないらしい。
「あ」
途端に頭にひらめくものがあって、セリアは喜色満面にカイルを振り返った。
「カイル、寒いだろうけど、上着を一枚脱いでくれない?」
「えっ、な、なんで?」
「サリムをゴンドラの中に引き上げて、尾ひれを隠しちゃえば、人魚だって分からないでしょ? ね、ちょっとサリムを引き上げるの手伝って」
セリアはサリムの上半身を抱え上げた。カイルもゴンドラから身を乗り出すと、弟の足を支えた。
「よっこいしょっと」
いささか古くさいかけ声で、二人はサリムをゴンドラに引き上げた。反射的に彼の尾ひれが何度か跳ねる。
「ちょっと居心地悪いかも知れないけど、私の上着着てくれる?」
「うん。でもいいの? 寒くない?」
「このくらい平気だよ」
セリアの上着は、サリムには少々大きいようだが、上半身はすっぽりと覆われた。二人の視線は、今度はカイルに向けられた。
「カイルもお願い」
にっこりセリアが微笑むと、やがてカイルは観念したように上着を脱いだ。セリアはそれを受け取ると、今度はサリムの尾ひれにそうっと乗せた。
「これで大丈夫、かな」
「人魚に見えない? これで僕も行ける?」
「うん。上着が動かないよう、じっとしていてね」
「うん!」
サリムの弾んだ声と共に、ゴンドラはゆっくりと大きな運河に向かった。ラド・マイムで一番の大運河で、片側の歩道は市場で大盛り上がりの場所だ。その分運河と歩道では高低差があるのだが、サリムも上着を着込んでいるため、上半身を精一杯伸び上がれば、ギリギリ見えそうだ。
「あ、あのさ、ちょっと行きたいところがあるんだけど、いいかな?」
市場を横目に運河を走っていると、カイルがセリアに声をかけた。
「どこ? ゴンドラで行けるところなら、どこへでも行くよ」
「あ、や……その、一人で行きたくて」
相変わらずカイルは歯切れが悪い。
「悪いんだけど、サリムのこと見ててくれる? 俺一人だったら迷子になるかもしれないし、できればここで待っていてくれると有り難いんだけど……」
「うん、いいけど」
あっさりした返事に、カイルは大げさに胸をなで下ろした。
セリアの器用なオール捌きで、ゴンドラは歩道へ近づいていく。
「この辺りでいい?」
「できるだけすぐ帰ってくるから」
「はーい」
歩道へ上がると、そのままカイルは一直線に市場の方へ向かった。セリアとサリムは、興味深げに彼の後ろ姿を視線で追う。
「お兄ちゃん、どこへ行くんだろう」
「あっ、宝石商、かな?」
すっかり小さくなってしまったカイルは、宝石商の扉を押し、中に入って行ってしまった。こういっては失礼だろうが、彼には似つかわしい場所だったので、二人は目を丸くした。
「何か買いたいものでもあるのかな?」
「え、でもお兄ちゃん、お金なんて持ってないはずだし」
二人の疑問はぐるぐる頭の中を駆け回ったが、そうしていて何か答えが見つかるわけでもない。
「カイルが戻ってくるまで、もうしばらく市場を見ていく?」
「うん! もっと見たい!」
わっと歓声を上げるサリムが可愛くて、セリアも自然と相好を崩した。そうして、サリムの要望に合わせ、何度も行き来を繰り返した。時にはすぐ側まで歩道に近づけたこともある。目の前でたくさんの足が歩いているのを見て、サリムは瞳をキラキラさせていた。
だが、それにもやがて限界が来る。辺りが暗くなってきて、思うように観察することができなくなってきたのだ。サリムはその小さな頬を膨らませた。
「お兄ちゃん、遅い」
「そ、そうだねー」
セリアも困った顔で同意した。確かに、あれから結構な時間が経っているが、カイルがあの宝石商から出てくるような気配はない。一体中で何をしているのだろうか。
「お兄ちゃん、僕たちのこと忘れてるんじゃないの?」
「それはないと思うけど……」
「そうかなー」
それでもサリムは不満そうだ。確かに、日が暮れてきたこともあって、辺りは冷え込み、セリアもそろそろ帰りたいと思っていたところだった。思い切って立ち上がると、歩道に上がった。
「サリム、ちょっとここで待っててくれる? 私、カイルを呼んでくるよ」
「いいの?」
「うん。ちょっと行ってくるね」
サリムに小さく手を振って、セリアは宝石商を目指した。宝石商なんて、セリアの年頃、身分では一生お目にかかれるような場所ではないが、それでも行かないことにはカイルを連れて帰れない。
セリアは思い切って重い扉を押した。
店の中は、どこか品のある香りがした。床に敷き詰められている絨毯も見るからに高級そうで、セリアはできるだけ汚れを落とさないよう忍び足で歩く。
カイルは、カウンターの前で、セリアに背を向けて立っていた。店主と見られる男性と何か話し込んでいるようで、セリアは彼の肩をポンと叩いた。
「カイル? もうそろそろ帰らない? 私たちもお腹空いちゃったし……」
「えっ、セリア!?」
大いに慌てた様子でカイルは振り返った。あからさまに動揺しながら、おどおどと頷く。
「う、うん、そうだね。もう帰ろう。――あの、今日はもうこれで。すみません、ありがとうございました」
慌てたように店主から何かを受け取ると、カイルはすぐにセリアに駆け寄った。セリアはというと、店を出た後、興味津々にカイルの方を覗き込んだ。
「何か買いたいものでもあったの?」
「いや? ただちょっと用があって……」
「そっか」
分かりやすく視線を逸らすカイルに、それ以上聞いてはいけない気配を察し、セリアは追求するのを諦めた。
「もうお腹空いたねー。早く家に帰ろう。サリムも待ってるし」
「うん」
ゴンドラに横たわりながら、小さく手を振るサリムに声をかけて、二人はゴンドラに乗り込んだ。