第一章 偶然か、必然か
07:心地よい湯加減
少年達の姿が見えなくなると、セリアはカイルの腕をとって歩き出した。突然のこの行動に、カイルはもちろん面食らう。
「なに? どうしたの?」
「ちょっとこっちに」
有無を言わせない剣幕に、カイルは大人しくついていくことにした。
カイルにとっては、見分けもつかない小道を、右に行ったり左に行ったり大忙しだ。やがて、ようやく広い場所に出たと思ったら、貧民街の、セリアの住む集合住宅に到着したところだった。感心してカイルが感嘆の声を上げたが、セリアは構いもせず井戸までカイルを押しやった。そして桶を使って、井戸から水をくみ上げる。
「目、洗って。菌が入ってくるかも」
「え?」
「早く!」
厳しい声に、カイルは慌てて水をすくい上げ、目を洗った。冷たい水が、カイルの顔を覆う。
「……私のお父さんね」
水が跳ねる音に紛れて、セリアは小さく声を漏らした。
「何をしてたのかは分からないけど、よく海に潜ってた。この海に。でもそのときはゴーグルなんて持ってなかったから、いつの間にか、目や耳、傷口から菌が入って、気づいたときには、もう病に冒されてたの。そして、お別れの言葉も言えないまま、ある日突然……。これ、お父さんのゴーグルなの」
セリアはベルトにくくりつけたゴーグルを持ち上げた。カイルは無言のままそれを見つめる。
「体調が悪くなってから慌ててゴーグルを作ってもらったみたいだけど、もう遅かったみたい。……カイルにはそんな目に遭って欲しくないから、もう二度と水の中に入ったら駄目だよ」
戸惑ったように視線を這わせるカイルだったが、やがて、決意を固めたように首を縦に振った。
「うん。気をつける」
カイルの確かな返事に、セリアはホッとしたように微笑んだ。
「なら良かった。あ、サリムのゴーグルだけどね、三日後にできるって」
「そうか、ありがとう。代金は必ず――」
「いらないって! そんなにお金かかってないから大丈夫。顔なじみだって言ったでしょ?」
これで話はおしまいとばかり、セリアはカイルに背を向けて再度水をくみ始めた。カイルはなおも話を続けようと口を開くが、それよりも先にセリアが話し始める。
「それよりも、どうしてあんなところにいたの? 買い物、とっくの昔に終わってると思ってた」
「あんな所?」
そう言われて、カイルははたと気づいた。少年達に絡まれていたあの場所のことを指しているのだろう。
「……帰り道が、分からなくて」
わずかに躊躇った後、カイルは観念して口を開いた。格好悪すぎて、口にしたくもなかったが、特に言い訳も思い浮かばなかったので、仕方あるまい。
セリアの方も、驚いたように瞬きをした。
「確かにちょっと分かりにくいかもしれないけど……でも、基本的には家から一本道じゃなかった?」
「安いお店を探そうと練り歩いてたら、道に迷ったんだ。この辺、入り組んだ道が多くて」
「そんなことしなくても良かったのに。大変だったでしょ?」
水一杯の桶を手に、セリアは歩き始めた。カイルも慌ててその後を追う。
「いや、そんなことは」
「でも、それなら今頃サリムは退屈してるかもね。おお兄ちゃんが帰ってこなかったって」
「うん……」
沈んだ声で返事をするカイルに対し、セリアは気を引かれて少し振り返った。
「どうかしたの?」
「あ、いや……。その、さ。ここって、たくさんのゴンドラ漕ぎがいるんだね」
何を言うかと思えば。
セリアは目を丸くさせた。
「歩道を歩くよりも、運河を横切った方が早いからね」
水の上に街があるという仕組み上、歩道よりも運河の方が多いくらいだ。アックア・アルタ――通常の満潮時より水位が高くなった時には、家屋や歩道の一部が水に浸かってしまうため、いつも以上にゴンドラが重宝される。
「――大変そうだった」
カイルは目を伏せた。
「あんなに大きくて重たそうなゴンドラを、君は毎日漕いでるんだね」
「私のはすごく小さいのだよ。本当に二、三人くらいしか乗れない小さいし――」
「それでも、大変なことに変わりはない」
どこか深刻そうな顔で言うカイルに、セリアは戸惑いを隠せかった。確かに、ゴンドラ漕ぎは、始めは大変だったものの、今ではもう随分慣れた。
「うん……。それはそうだけど」
「――お兄ちゃん? お姉ちゃん? 帰ってきたの?」
扉で隔てた向こう側から、サリムの声が飛び込んできた。セリアは慌てて扉を押し開けた。
「サリム、ただいま。ごめんね、遅れちゃって」
「ううん、いいよ。それよりもお兄ちゃんも一緒? 朝からずっと帰ってこなくて」
「ああ、ここにいる。遅くなってごめんな」
先ほどとは打って変わって明るい様子で、カイルも家の中に入った。食材をたんまり入れたカゴをテーブルに置く。
「あれ、でもどうして二人ともずぶ濡れなの? また水浴びしたの?」
「ああ……その」
帰り路にあった出来事を伝えるのは躊躇われて、セリアは言葉を濁した。純粋な彼に、ありのままには言いたくなかった。
「まあ、そうだな。うん、水浴びしたんだ」
カイルもぎこちなくセリアを援護した。素直なサリムは、疑いもしなかった。
「でも、やっぱり寒そうだね。早く着替えた方が良いよ」
そうサリムが言った瞬間、カイルは盛大にくしゃみをした。あまりにも間が良かったため、セリアは思わず笑みを零した。
「そうだね。でも、カイルは銭湯の方が良いかも。今から行こうか」
「えっ、いや、俺は良いよ。申し訳ないけど、何か着る服でもあれば……」
「そんなの駄目だよ! 着替えるだけじゃ風邪引くよ。セリア一人で行ってきなよ」
「私は慣れてるからいいよ。カイルの方こそ――」
「二人一緒に行ってきたら? 僕はここで待ってるから」
サリムの言葉に、セリアとカイルは顔を見合わせた。
「うん……でも」
「行ってきてよ。僕はご飯を食べて待ってる」
嬉しそうにサリムはテーブルの方を見た。カゴから飛び出している魚に釘付けだった。
「分かった。じゃあ今から行ってくるね。なるべく早く帰ってくるから」
「折角なんだからゆっくりしてきなよ」
「ありがとう」
サリムの言葉に甘えて、二人はいそいそと銭湯への準備を始めた。セリアは、カイルと自分の着替えをまとめたり、カイルはカイルでサリムにご飯を用意したり。
二人が揃って家を出る頃には、辺りはもうすっかり暗くなっていた。セリアにとってはもう慣れた道だが、それでも街灯のない貧民街は、足場が悪いため、地面に注意しながら歩いた。
「真っ暗だね。いつもこんなに暗いの?」
周りをキョロキョロと見渡していたカイルが、不思議そうに口にした。
「いつも……って?」
「いや、毎日こうなのかなって」
「うーん、満月の時は今日よりはもう少し明るいと思うけど、基本的にはいつもこんな感じだよ」
「怖くないの?」
「怖い?」
セリアは短く聞き返して、うーんとうなり声を上げた。何度も慣れた道だったので、怖いなどと考えたことがなかったのだ。
「怖くは……ないかな。歓楽街と違って、この辺りはいつもこうだから」
「そっか」
そんな会話をしているうちに、やがてその裏通りは歓楽街の通りに合流した。裏通りとは打って変わって明るい雰囲気に、カイルは頓狂な顔つきになった。
「ここは? こんな時間でもまだお店やってるの?」
「うん。ここはいつもそうだよ。結構遅くまでやってるの」
「へえ……」
感慨深げにカイルは声を漏らした。その間にも、隅から隅まで観察する視線の動きは止まない。
――ラド・マイムに住んでいるものなら、ゴンドラも、船も、歓楽街すらいつも見慣れているはずだ。
彼は一体どこに住んでいるのだろう。
セリアは気になって仕方がなかったが、それを言い出す勇気もなく、そのまま口を結んだ。
歓楽街の丁度中央に銭湯はあった。高く太い煙突が、もくもくと白い煙を排出している。
「じゃあ、はい、お金」
「あ、ありがとう……」
「銭湯に入るのは初めて?」
「うん」
大人しく頷くカイルに、セリアは番台に向けて視線を向けた。
「あそこでお金を渡して、そのまま男性側の脱衣所に入っていけばいいよ。私たち、海に入っちゃったから、お風呂に入る前には念入りに身体を洗ってね」
「分かった」
「じゃあここで。またここで合流しよう」
「うん」
セリアは軽く手を挙げると、女性の番台に料金を渡すと、そのまま脱衣所に入っていった。中はもわっとした空気が立ちこめていて、外の冷たい空気にさらされていたセリアは、少しホッとした息を吐き出した。壁に整然と並べられた棚の中から、空いている場所を見つけると、そこに脱いだ服を押し込んだ。手早く裸になり、女風呂への引き戸を開ける。
いつものように、銭湯の中は大勢の女性でごった返していた。なんとか身体を洗う場所を確保すると、念入りに頭や身体をゴシゴシ洗う。二、三回洗ってようやく海の臭いも取れたような気がして、セリアは一息ついた。だが、すぐに後ろで空咳の音が聞こえたため、セリアは慌てて立ち上がり、場所を空けた。一人で長い間洗い場を使用していたため、いつの間にか列がなしていたようだ。身を縮こまらせ、セリアはいくつかある浴槽のうち、空いている場所を探す。
「こっち空いてるよ」
「えっ」
誰に向かった台詞かは分からず、しかしセリアは振り返った。知り合いなどいないこの街では、自分に声をかけるものなど皆無に等しいのだが、反射的なものだった。
しかし、浴槽に浸かり、右手を軽く挙げているその女性は、紛れもなくセリアの方を向いていた。湯気でぼんやりしているが、その顔は見覚えがあった。セリアは喜色を隠そうともせず、彼女が指し示す向かいの浴槽に身体を沈めた。
「また会ったね」
「こ、こんばんは」
さっぱりした調子で声をかけるこの女性は、前回銭湯に来たときに、少し話をした人だった。初対面にもかかわらず、臆せず話せる数少ない人だった。
「今日は潜らないのかい?」
「あ……っと、人を待たせてるので、あまり時間がなくて」
前回長く湯に潜っていたのがそんなに記憶に残っていたのだろうか、とセリアは少々恥ずかしくなった。話題を変えようと、コホンと咳払いをする。
「今日も水風呂なんですか? 寒くないんですか?」
「あたしはもともと体温が低いからねえ。こっちの方が落ち着くのさ」
頭に乗せていた手ぬぐいを開き、女性は顔を拭いた。
「ここの風呂は熱すぎるんだよ。もう少しぬるかったらあたしも入れるんだがね」
「私も、そっちの水風呂、もう少しぬるかったら入れそうなんですけど……」
ついついセリアがそう口を挟むと、女性は軽快に笑った。
「そうだね。どっちにしろ、丁度いい湯加減のものがないんだよね」
手ぬぐいを肩にかけると、女性は勢いよく立ち上がった。
「さて、あたしはもう上がるとするよ。じゃあね」
「は、はい。また……」
軽く手を振る女性に対し、セリアは勢い込んで挨拶をした。
今までずっと一度きりの出会いだったため、また会うかもなどという考えが出てくることはなかった。それでも、自然に出てきた「また」という言葉。セリアはなんだかむずかゆくなった。
女性が行ってしまってからしばらくして、セリアもやがてお湯から出た。もう少し浸かっていたい気もするが、あんまりサリムやカイルを待たせるようなことはできない。
手早く着替えると、ほんのりと顔を上気させてセリアは脱衣所を出た。キョロキョロと辺りを見渡し、入り口近くで立っているカイルに目をとめた。
「あれ、早かったんだね。ごめんね、待たせちゃった?」
「ううん、そんなことない。俺もさっき出たところ」
セリアの声に、カイルはすぐに振り返った。目元を和らげ、微笑むカイルだが、どこか感じる違和感に、セリアはじいっと彼を見つめた。
「なっ、なに?」
「…………」
セリアは無言でカイルに近づくと、その顔に手を伸ばした。始めに髪を触ると、頬にも触れた。
「あ、あの……」
「入ってないでしょ? お風呂」
「えっ」
凄みのある声に、カイルは分かりやすく動揺した。視線をあちこちに向ける。
「えっと……」
「髪も顔も冷たいまま! もしかしてずっとここで待ってたの!?」
追及の手を止めないセリアに、カイルはやがて観念して肩を落とした。
「……俺、熱いお湯が苦手で」
「そうなの? じゃあなんでついてきてくれたの?」
「暗い中、女の子一人じゃ危ないから。今日はあんなことがあったばかりだし」
思いも寄らない言葉に、セリアは一瞬言葉を詰まらせた。戸惑うように視線を這わせた後、口元を緩めた。
「――ありがとう」
ついで、パッと顔を上げると、視線を鋭くした。
「でも、それとこれとは話が別。海に入っちゃったから、髪もベトベトでしょ? 中に水風呂があるから、せめてそれに入ってきたら?」
「水風呂?」
「冷たいお風呂だよ。私はあんまり入ったことないけど、よく使ってる人もいるみたい」
「へえ……」
少し興味をそそられたような顔つきになるカイルに対し、セリアは胸を反らした。
「私はここで待ってるから、入ってきたら?」
「でも、折角お風呂に入ったのに、湯冷めして――」
「いいから行ってきて!」
折角ここまで歩いてきたというのに、お風呂に入らないなんてもったいない。
セリアはカイルの背中を強く押すと、彼が脱衣所に消えるまで、しつこく監視し続けた。