第一章 偶然か、必然か
06:お金の価値
次の日の朝になると、サリムの顔色も大分良くなってきた。あまり仕事を休むことはできないので、セリアは安心して準備をし始めた。
「どこか出かけるの?」
水を汲みに行っていたカイルは、ゴーグルをベルトに装着しているセリアに尋ねた。
「うん、仕事に。サリムがこんな状態なのに、出かけるのは忍びないけど……」
「えっ、仕事? 仕事してるの?」
目をぱちくりさせて再びカイルは尋ねた。
「うん、ゴンドラ漕ぎ。お父さんから教わって、そのままずっと続けてるの」
「ゴンドラって?」
二人の会話に、サリムが割って入った。
「小さい船……みたいなものかな。お客さんを乗せて、目的地まで運ぶの」
「船って、海に浮かぶ奴? 木製の?」
「うん。見たことないの?」
「本でしか見たことない」
「そう……」
相づちを打ちながらも、セリアは内心驚いていた。ラド・マイムの内地に住んでいれば、確かに船を見る機会も少ないだろうが、それでもお祭りの時など、大きな運河を豪勢な船が通るときがある。いくら幼いとは言っても、その船もゴンドラも知らないというのは、いささか不思議に思えた。
「僕も見てみたい。船をこぐんでしょ?」
「船っていうか、まあ確かにそれと同じようなものなんだけど――」
「まだ熱が下がりきってないだろ? 今日は駄目だ」
「えー」
セリアの戸惑いを余所に、カイルは兄らしく仰々しく首を振った。途端にサリムの幼い不満の声が上がる。
「もう良くなったよ……」
「駄目だ。……それよりも、セリア」
「うん?」
「俺もその仕事の手伝いをさせてくれないかな? ずっと迷惑をかけてばかりだし、たまには何か役に立たないと」
「え……いや、大丈夫だよ。それにサリムがまだ……」
「僕は大丈夫!」
サリムはタライの中で、頼もしく胸を叩いて見せた。だが、それでもセリアの顔は浮かない。サリムに加え、もう一つ懸念事項があったのだ。
「ゴンドラって、結構力がいるの。だから、慣れてない人にはちょっと厳しいかも」
セリアは眉を下げて微笑んだ。ついで、反射的に二の腕を隠すように腕を組む。
ゴンドラを漕ぐには、とてつもない腕力が必要とされる。セリアは幼い頃から父と共にゴンドラをこぎ続け、慣れてはいるが、彼女の二の腕は、成長と共に逞しくなっていっていた。女性で、しかもまだ子供のため、ゴンドラ自体は一番小ぶりなものだが、それでもそれを漕ぐには常人以上に腕力が必要なのだ。年頃の少女よりも太く逞しい二の腕をからかわれることも多く、そのため、セリアはいつもポンチョ型の服を身にまとっていた。
うっすらと陰りを見せるセリアには気づかず、カイルは眉を八の字に曲げて落ち込んでしまった。
「そっか……。確かに、俺は力仕事は向いてないしな……」
そうして、みるからに哀調を帯びた声でそう呟くので、セリアは思わず噴き出してしまった。なぜ笑われたのかが分からないカイルは、一層頓狂な顔になった。
「な、なに、どうしたの? 何か変なこと言った?」
「い、いや……なんでもない」
気を悪くされたらまずいと、セリアは咳払いをして気を取り直した。カイルの方はなおも真面目にセリアを覗き込んだ。
「でも、本当に何か手伝えることはない? ずっとお世話になりっぱなしじゃ、気が引けるんだ」
「うーん……。じゃあ、部屋の掃除か――あ、買い物に行ってくれないかな?」
「買い物?」
「うん。今日の夕ご飯の分。三人分、お願いできる? あ、市場の場所は分かる? 途中まで一緒に行こう」
「お願いします」
「いいなあ、兄ちゃん。僕も買い物してみたいな」
サリムはもの寂しそうにパシャンと水を跳ねさせた。二人の視線は彼へ向く。
「サリムも、元気になったら買い物すればいいよ」
「本当?」
「うん。みんなで買い物に行こう。まずは早く良くなると良いね」
「うん!」
喜色をあらわに、サリムは大きく頷いた。あまりゆっくりもしていられないので、セリアは身軽に立ち上がった。
「じゃあそろそろ行こうか。お金はこの中に入ってるから、よろしくね」
使い古された財布をカイルに渡し、セリアは玄関へ向かった。だが、くいっと服の裾を引っ張られ、その場で立ち止まった。
「カイル?」
「あの……さ」
何やら深刻そうな顔で、カイルは視線を下へ向けていた。
「一応、聞くだけだけど」
「う、うん」
あんまり彼が言いづらそうに口ごもるので、セリアも釣られてごくりと生唾を飲み込んだ。
「十ギリムで一ペルー、百ペルーで一ユニス、だよね?」
「……はい?」
「あ、違った!? 逆だっけ!? 百ギリムで一ペルー、十ペルーで一ユニスだっけ!」
「あ、いや、あの……最初ので、合ってるけど」
「そ、そっか。良かった。うん、忘れないようにしないとね」
照れっとした笑みを見せると、カイルは元気よくセリアを追い越し、そのまま玄関へ向かった。そんな彼の背に、サリムの間延びした声がかかる。
「買い物、頑張ってねー、兄ちゃん!」
「おう!」
「…………」
なんとなく、この年若い二人の兄弟が、心配になってくるセリアだった。
*****
一日の仕事を終えると、セリアは足早に歓楽街を歩いていた。昨日頼まれた、サリムのためのゴーグルを注文しに行くのである。そのために、わざわざ今日は早めに仕事を切り上げていた。
人混みの合間を縫って、セリアは雑踏に紛れる一つの古ぼけた店の前に立った。ここは、船乗り関係の雑貨が売ってある店だ。船底の修理のために必要なゴーグルはもちろんのこと、望遠鏡、羅針盤、水に濡れにくい衣服など、様々なものが取り揃えられている。セリアはもちろん船乗りではないが、無理を言ってゴーグルを作ってもらったのだ。
重い扉を押し入って中に入ると、ムッとした酒の臭いが飛び込んできた。小さな店ではあるが、長い航海を終えた船乗り達が、道具を買い換えるついでに、よくここで酒盛りもしていくのだ。店主が無類の酒好きであるからこその恒例だろう。
「おい、客だよ」
セリアが入り口でおどおどしているのを見ると、一人の船乗りが、隣の男の肩を揺らした。ゆっくりとあげられた彼の顔は、涎と酒、そして無精髭に塗れていたが、間違いなく彼がこの店の店主である。
「ああ、嬢ちゃんか」
面倒くさそうに店主は立ち上がると、そのままフラフラとカウンターの向こう側へ移動した。そうして糸が切れたようにまたドサッと椅子に腰掛ける。
「で、何の用だい? またゴーグルの点検か?」
「あ、いえ。実はもう一つゴーグルを作って欲しくて」
「なんで」
「えっと……友達が欲しいって言うので、その」
「まあいいけど」
ふわっと欠伸をした後、店主はカウンターの下から羊皮紙を取り出した。
「で、サイズは?」
「あ、はい。私のよりも、ちょっと小さめでお願いしたいんですけど、でもサイズの調節もできるようにして欲しくて」
言いながら、セリアは鞄から羊皮紙を取り出した。サリムの頭のサイズは、今朝家で測って数字を書き取っていた。だが、何よりサリムは成長期なので、今ピッタリに合わせても、これから合わなくなってしまう可能性もあるのだ。どうせなら長い間使って欲しいと、セリアは追加料金のかかる調節機能をお願いした。
「じゃあちょっと代金高くなるけど。それに、最近は輸入も制限されてるらしくてね。ガラスが高騰してるんだよ。九十三ペルーで」
「は、はい」
久しぶりの大きな買い物に、懐から金貨を取り出す手が震えた。セリアがテーブルにコトッと金貨を置くと、店主の目が見開かれた。徐に金貨を手の平で転がすと、端にかじりついた。そしてまたゆっくり吟味する。
「じゃ、確かに。じゃあ七ペニー」
「はい」
セリアは神妙な顔でお金を戻した。
「三日後にはできるだろ。またおいで」
「はい。ありがとうございました」
セリアは頭を下げると、そのまま店を出た。その頃には、もう辺りは夕闇に塗れていて、自然セリアの足取りも速くなっていった。
歓楽街を抜けた後は、平民が住む住宅通りだ。上流階級が住む高級住宅街ほど、通り抜けるときに気後れすることはないが、しかし、そこに住む人々は、時折よっぽどたちが悪いことも多い。スリや強盗、暴行などが横行するのは貧民街だが、この住宅通りは、差別がひどいのだ。貧民街では、恨みを買ったり目立つ行為をしたりさえしなければ、襲われることは少ないが、しかしこの通りは別だ。貧民街の住民だと知るや否や、すぐに喧嘩をふっかけてきたり、嫌がらせをしてきたりするのだ。男女の別もなく――むしろ、非力な女性だからという意味で余計セリアが目をつけられることも多い。時間があれば、遠回りになっても人通りの多い大通りを通るのだが、日照時間が少ない今の時期では、それもできない。
ただひたすら、早く通り過ぎることを祈りながら、セリアは顔をうつむけて歩いていたが、脇道から耳慣れた話し声がすることに気づいた。一瞬身を強ばらせたものの、セリアはすぐに走り出した。だが、セリアの気配を聞きつけたのか、話し声の方もぱったりと止むと、すぐに荒々しい足音を響かせ始めた。
「――おい!」
「えっ」
服の裾をグイッと捕まれ、セリアはつんのめりそうになった。後ろの主がしっかり掴んでおいてくれたおかげで、前に転ぶことはなかったが、その代わり、力強く後ろに引き倒された。セリアは声も上げずに尻餅をついた。
「俺たちを見てすぐに逃げるなんて良い度胸じゃねえか」
「よっぽど嫌がられてんなあ、俺たち」
顔を見合わせて、ニヤニヤと笑う少年が三人。セリアは浮かない顔で黙り込んだ。
彼女は、こうなってしまった場合の対処法を知らなかった。逃げてもすぐ捕まるだろうし、応戦してももっと手ひどくやられるだけだ。
ただじっと、時が過ぎるのを待つこと。
それくらいしか、セリアは自分の身を守る術を知らなかった。
だが、三人の少年達は、セリアの切なる祈りとは裏腹に、歪んだ笑みで辺りをうろついた。
「お前、巷でも有名になってきてるぜ。金欲しさに、自らこの海に飛び込むゴンドラ漕ぎがいるって」
「…………」
セリアは怪訝そうに見上げた。どんな噂かは分からないが、事実に反する。確かに、何度か海には飛び込んではいるが、代金を海に投げ捨てられたときだけだ。それをお金欲しさに、という言葉でくくってしまうのは、何か違うと思った。
「五ペルー硬貨だ。欲しいだろ?」
したり顔で少年はポケットから硬貨を取り出した。鈍く光るそれは、確かにセリアの懐事情から言えば、喉から手が出るほど欲しいもの。
「ほら、だったらとってこいよ!」
少年は勢いよく腕を振りかぶると、そのまま躊躇いもなく硬貨を投げた。硬貨は大きく弧を描き、そのまま海にポチャンと落ちた。
少年は鼻を膨らませて振り返ったが、セリアは、その場から一歩たりとも動かなかった。
――確かに、欲しい。だが、自分の矜恃をかなぐり捨てて欲しいかと問われれば、それは否だ。一ペルーでも、一ギリムでも、自分で汗水垂らして稼いだお金だからこそ、海に投げ捨てられても取りに行くのであって、他人の愉悦のために海に潜るつもりはない。
無感動にセリアは立ち上がった。取りに行くのか、と身構えた少年達を余所に、そのままセリアは歩き始めた。こんな人たちに怯えているなんて、馬鹿らしいと思った。
「おい!」
だが、そう簡単に諦める少年達ではなかった。再度セリアの元に駆け寄ると、彼女の襟元をグイッと掴み、そのまま引き倒した。
「無視すんなよ! 金取りに行けよ!」
「行かない。もう放っておいて」
「何だと……!」
少年は怒気をあらわにしたが、セリアはびくともしなかった。
――一ギリム稼ぐことがどんなに大変か、知りも知らないくせに。
セリアは口を真一文字に結んで立ち上がろうとした。もう何を彼らに言われても、動じないつもりだった。
しかし、立った瞬間、セリアの懐から小銭がこぼれ落ちた。財布をカイルに渡していたため、今日はポケットにそのままお金を入れていただけだったのだ。高い衝撃音を響かせる硬貨達に、少年は一瞬呆気にとられたが、すぐにその顔は歪む。
「なんだよ。お前、今これだけしか持ってないのかよ」
少年達が拾ったのは、せいぜい二、三ペルーにしかならない硬貨だ。実は、セリアは全部で七ペルー持っていたのだが、日頃から強盗を警戒していたため、いつもお金は分けて持ち歩いていた。今回はそれが功を奏したか、と一瞬セリアは喜んだが、しかし、拾われた三ペルーが惜しくないわけではない。
「お前のせいで俺たちの金が無駄になったんだ。どうせこれもいらないだろ?」
ひょいと硬貨を掲げてみせると、少年は躊躇いもなく再び硬貨を海に投げ込んだ。反射的にセリアは腰を浮かせた。
――彼らの思う壺になりたくないという思いはあった。しかし、あのお金を稼ぐために、何度ゴンドラを漕がなくてはならないのか。あのお金があれば、サリム達にもっとおいしいものを食べさせられるのではないか。そう思うと、動かずにはいられなかった。
「――っ」
だが、セリアが海に飛び込むより早く、目の前で盛大に水しぶきが上がり、セリアは息をのんだ。急いで潜らなければ、お金がどんどん沈んでいってしまうというのに、自分よりも早く海に飛び込んだのは誰だろうとの困惑が、セリアをその場に足止めしていた。
水面の波紋は、しばらく揺らめいていたままだった。しかし、しばらくしてその波紋も収まり、静寂が訪れる。
――遅い。いくらなんでも、長く潜りすぎだ。
もしかして、溺れているのでは。
セリアは歩道の縁にしゃがみ込むと、目をこらして水面を見つめた。――見えない。汚物に塗れた冬の海は、満足に光を通さないのだ。
咄嗟にセリアは海に飛び込んだ。唐突な水温の冷たさに、ぶるりと身を震わせる。だが、救命の方が先だとセリアは大きく息を吸い込み、そして――ゴーグルをかけた。慌てていたせいで、海に飛び込む前に、ゴーグルをつけるのを忘れていたのだ。そして改めて海に潜ろうとしたところで、再び水面が大きく揺らめいた。
「――ぷはっ!」
「か、カイル!?」
水に濡れた前髪を額に張り付かせ、海の中から出てきたのはカイルだった。自分と同じく海に浸かっているセリアを見て、カイルは目を丸くしたが、やがてゆっくり微笑む。
「お金、見つけたよ。これで全部?」
「う、うん……」
セリアの手のひらに、カイルは三枚の硬貨をのせた。なぜ彼が、と戸惑うセリアの肩にポンと手を乗せると、カイルは先に歩道に上がった。そして振り返り、セリアにも手を貸す。
「大丈夫?」
「う、うん。カイルの方こそ」
ゴーグルも無しに海に潜るなんて無謀だ。セリアはそのことについて言及しようと口を開きかけたが、それよりも早く、カイルは険のある表情で少年達を睨み付けた。
「どういうつもりだよ。自分が何をしたか分かってるのか?」
「なっ、なんなんだよ、お前!」
凄みのある声に、少年達はたじろいだ。思わず一歩後ずさる。
「人のお金を――人が頑張って稼いだお金を奪って海に捨てるなんて、最低な行為だ!」
「お前に関係ないだろ! 偉そうなことを言うな!」
グイッと詰め寄られ、三人は息を巻いて言い返す。
「たかがそんなお金、必死になって拾う方がおかしいし!」
カイルは無表情のまま、三人を壁際まで追い詰めた。そして極限まで顔を近づけ、顔を歪めた。
「だったら自分で稼いでみろよ」
「――っ!」
少年は眼を血走らせ、カイルの身体を強く押し戻した。
「おっ、お前、臭いんだよ! それ以上近寄るな!」
「そうだ! 汚ねえ海に飛び込んだ身体でこっち来んな!」
わざとらしく鼻に手を当て、少年達は口々に叫ぶ。
各々の台詞に、カイルは怒るでもなく、呆れるでもなく――ただ乱暴に吐き捨てた。
「お前達が海に汚物を捨てるからだろ。汚いなんて、口にするなよ」
少年達はグッと詰まった。咄嗟に反撃の言葉が出てこない。
「お前だって同じだろ! みんなやってることだ! 海以外、どこにゴミを捨てろって言うんだよ!」
「お、おい、もう行こうぜ」
精一杯言い返した少年の裾を、他の二人が引っ張った。
「――ちっ」
舌打ちをすると、三人はカイル達を睨み付けた後、足早に去って行った。セリアはそれを見送ると、小さく息を吐いた。
爽快感と、後味の悪さ。
二つの相反する奇妙な心地だった。