第一章 偶然か、必然か

05:ぎこちない対話


 長年の習慣で、セリアは朝日が昇ると共に目を覚ました。けだるい身体に叱咤し、寝台から這い出ると、すぐ下のタライに足が触れた。

「あ……」

 その中で、穏やかに寝息を立てているサリムを見て、セリアは一気に昨夜のことを思い出した。そして慌てて立ち上がると、上着を羽織って外へ出ようとしたが、入り口のところで何者かとぶつかった。

「あっ、あの……!」
「おはよう。どうしたの?」

 不思議そうに見つめるカイルに、セリアは次第に心を落ち着かせた。だが、気まずい思いに顔はあげられない。

「ごめん。交代でサリムの様子を見ようって言ったのに、私そのまま寝ちゃって」
「そんなの気にしなくて良いよ。そもそも悪いからわざと起こさなかっただけだし」
「で、でも……」
「本当に気にしないでよ。サリムのことで君にこれ以上迷惑はかけられないしさ」

 おどおどするセリアに対し、カイルは柔らかく微笑むと、桶を抱えたまま部屋に入った。セリアも仕方なくその後を追った。
 タライの前に跪くと、カイルは水に浸した布でサリムの顔を優しく拭いた。そのサリムの顔が、昨夜よりもわずかに赤い気がして、セリアは眉を寄せた。

「サリムの様子、どう?」
「……ちょっと熱が出たみたい。やっぱり傷口から菌が入り込んだのかも知れない」
「そっか……。人間の風邪薬でも大丈夫なら、今から買ってこようか?」
「……悪いけど、頼める? 俺はここを離れられないから……」
「ううん、全然良いよ。じゃあ今から行ってくる」

 再び上着を着込むと、セリアは買い物用のバスケットを手に取った。

「サリムは魚とか海藻を食べるって聞いたんだけど、カイルはなにを食べるの? 食べたいものとかある?」
「普通に人間と同じもので良いよ。俺も魚は好きだけど、生の魚は身体が受けつけないんだ」
「そうなんだ……」

 そもそも、なぜ人間と人魚が兄弟なのだろうか。
 人間と人魚が結婚して、子供を産んだから、それぞれの種が産まれたと?
 セリアには、分からないことだらけではあったが、とりあえず疑問は奥に追いやり、外に出た。まだ早朝のため、身を切るような寒さが襲うが、いつものことなので大して苦にもならない。それよりも、サリムの方が心配だった。まだあんなに小さいのに、熱で苦しむなんて。人魚から見れば、なくてはならないはずの海水がこんなに様々な汚物で汚染されていては、気持ちよく過ごせるどころか、きっといつも危険と隣り合わせなのだろう。
 幼い頃からずっとこの汚い海水と慣れ親しんだせいか、普段はあまり不便を感じないが、サリムが危機に瀕している時になってようやく、セリアはことの重大さに気がついた。
 ラド・マイムの守護神とも言える人魚たちの環境を、人間達が壊しているなんて、おかしいことこの上ない。
 しかし、そう考えてみたところで、今のセリアにできることは何もない。ただのしがないゴンドラ漕ぎに、何ができるというのか。
 そのままセリアは考えることを止め、買い物に集中した。市場では、徐々に様々な露店が開店のための準備をし始めていた。


*****


 買い物を終えると、セリアはいそいそと貧民街へ戻った。そうして家の中へ入ろうとしたところで、ふと足を止め、井戸に近寄った。買い物の途中、セリアから漂う異臭に、皆が顔をしかめていたのを思い出したのだ。サリム救出のため、昨夜汚水に飛び込んで以降、セリアは身体を洗っていなかったのである。
 服を着たまま、手慣れた動作で全身水浴びをした。寒いことこの上ないが、これもいつものことなので我慢はできる。それでもブルブル震えながら、セリアはバスケットを右手に家の中へ入っていった。

「サリムの様子はどう?」

 入り口に背を向ける形のカイルに声をかけ、セリアはテーブルの上にバスケットを置いた。中から薬や魚、パンなどを取り出す。

「相変わらずかな。少し熱が上がったかも――って、え?」

 声の調子が変わったことを不思議に思い、セリアはカイルの方を向いた。彼はというと、セリアを上から下まで眺め、呆気にとられた顔をしていた。

「どうしたの? そんなにずぶ濡れで」
「昨日海に浸かったまま身体洗ってなかったから、さっき外で水浴びしたの」
「水浴びって……風邪引くんじゃない? 寒くないの?」
「寒いことは寒いけど……。着替えるから向こう向いててくれる?」
「あ、うん、もちろん。ごめん」

 素早く返事をすると、カイルはそのまま急いで前を向いた。セリアは小さな衣装ダンスから替えの服を取り出すと、手早く着替え始めた。ここの他にも、部屋はもう一つあるが、そこはセリアの亡き父が使っていた書斎なので、着替えるためだけに入るのは忍びないのだ。着替え終わると、カイルに声をかけ、薬と魚、海藻を皿にのせてサリムの元へ行った。まだサリムは寝ているらしく、小さく寝息を立てていた。

「これ、サリムのご飯と薬」
「ありがとう、助かるよ」
「うん。カイルのご飯は今から用意するね。簡単なものしかないけど」
「いや。ありがとう」

 セリアは二枚の皿を出すと、そのままパンやチーズを盛り付け始めた。
 セリアは一人暮らしではあるが、自炊は苦手だった。もともと、食に対する執着がないのだ。おいしい料理を作ったとしても、どうせそれを食べるのは自分一人だ、と。だが、カイルの分も朝食を用意しながら、やっぱり何か一つでも得意料理があれば良かっただろうか、とぼんやり考えるくらいには、多少食への興味も沸いていた。

「どうぞ」
「ありがとう」

 サリムの前から動こうとしないカイルに皿を渡すと、セリアもまたその隣に腰掛けた。顔は赤く、寝息も少し荒々しいが、あどけない寝顔をさらすサリムを前に、セリアはパンにかじりついた。「ごめんね」

 皿を手にしたまま、カイルは唐突に口を開いた。

「朝にはここを出るって言っておきながら、なんだかんだ留まっちゃって」
「そ、そんなの全然いいよ!」

 反射的に大きな声で否定してしまって、セリアはすぐに声を潜めた。

「サリムの方が大切だし、こんな状態でまたあの海に潜ったらもっと具合が悪くなるよ」
「……ありがとう」

 セリアの言葉にようやく安心したのか、カイルもまた、ゆっくりパンにかじりついた。それを見て、セリアも同じようにチーズを口にする。

「君は、この家に一人で住んでるの?」

 サリムを見つめたまま、カイルはポツリと呟いた。セリアは躊躇いもなく頷いた。

「うん。お母さんは私を産んですぐ亡くなっちゃって、お父さんも数年前に」
「そっか……」
「二人は――」

 どこに住んでいるの、と聞きかけて、セリアは言葉に詰まった。昨夜、詳しく話せないと言われたばかりなのに、この質問は相手の領域に踏み込むような種類のものではないのか。
 視線をさまよわせるセリアに、カイルはきょとんとした。二人の視線が交錯し、セリアは引きつった笑みを見せる。誤魔化せた……のかは定かではないが、カイルもまた困ったように笑みを浮かべた。しばらく奇妙な時が過ぎる。

「あ、ねえ。そういえばさっきから気になってたんだけど?」
「うん?」

 カイルが立ち上がり、セリアはホッとした。ずっと一人で暮らしていたせいで、他人の気に障ることを極度に恐れているのだ。

「これ……なんなの? 眼鏡?」

 カイルが指さしたのは、セリアのゴーグルだ。水浴びするときに濡れてしまったので、天井に吊しておいたものだ。

「ううん、ゴーグルって言って、目を保護するものだよ。ここ、水が汚いでしょ? 水の中で目を開けたら危険だから、いつもこれを着用することにしてるんだ」
「確かにそれは危ないけど……。でも、人間が水の中に潜ることなんて、そうそうないんじゃないの?」

 不思議そうに聞き返され、セリアはどう答えたものか、言葉に窮した。事実は伝えたくなかった。可哀想な人だと思われたくないから。

「水の中に……ものを落とすこともあるから。そういうときにゴーグルを使うの」
「へえ、そうなんだ」

 ――虫の居所が悪い客が、ゴンドラの代金をそのまま海に投げ捨てることだってあるのだ。その日暮らしのセリアにとって、ほんのわずかのお金でも、見逃すことはできない――。

「これ、本当にちゃんと目を保護してくれるの? 水は入ってこないの?」

 しげしげとゴーグルを見つめるカイルに、セリアは目を細めた。

「うん。縁と紐の部分がゴムになってるから、ピッタリ装着できて、全然ミスは入ってこないよ」
「そう……。ちょっと見て言い?」
「どうぞ」

 カイルはゴーグルを手にすると、ゴムを伸ばしてみたり、ガラス越しに眺めてみたりと、しばらく観察していた。興味が薄れたのか、ようやくゴーグルを天井から伸びるフックにかけると、かけると、セリアを振り返った。

「これ、君が作ったの? 弟にも作ってもらうことはできる?」
「え……?」

 唐突な言葉に、セリアは目を白黒させた。

「えっと、まずそれは私が作ったんじゃないよ。お店の人に頼んで作ってもらったの。だからお金を払えば作ってもらえると思うよ」
「お金……そうか、お金!」

 今気づいたとばかり、カイルはポンと手を打った。

「ごめん! 薬を買うのにもお金が必要だったよね、ご飯の分も……。でもどうしよう、今俺お金なんて全然持ってなくて――」
「い、いいよ、気にしなくて! そんなに大してかからなかったし、ご飯だって、一人分も三人分も変わらないし……。なんなら、ゴーグルだって、そのお店の店主は知り合いだから、安くしてもらうことだってできるし……!」
「で、でも――」
「本当に、大丈夫!」

 セリアは咄嗟に大きな声を出してしまった。すぐにハッと我に返ったが、もう後の祭りで、タライの中でサリムが身じろぎをした後だった。

「どうかしたの……?」
「ああ、ごめんね。なんでもないの」

 セリアは慌てふためいた。反射的に立ち上がりかけて、すぐにサリムの方へ身をかがめる。

「そうだ、お腹空いた? ご飯あるけど」
「うん、少し」
「じゃあどうぞ」

 海藻をサリムに渡すと、彼は嬉しそうに食べ始めた。
 カイルから、もの言いたげな視線は感じていたが、セリアがそれに応えることはなかった。