第一章 偶然か、必然か
04:名もなき痛み
何か物音が聞こえたような気がして、セリアの意識はゆっくりと浮上した。少年が起きたのか、と眼を擦りながら彼を見たが、少年は相変わらずタライの中に身を横たえ、穏やかな寝息を立てて眠っていた。
夕食を食べ終わった後、少年はすぐに眠りについた。よほど疲れていたらしく、タライという大変居心地の悪い場所でも、少年は気にせず眠っていた。セリアもその後、夕食を食べ終えたあと、明日に備え、休むことにした。といっても、やはり少年の身体が心配だ。念のため薬草で手当てをしたとは言え、人間と人魚では身体のつくりが違うため、同じように対処しただけで治るとも限らない。そもそも、ただの傷ならまだしも、長時間汚水に浸かってしまっていた傷だ。そこからかなりの菌が入ってきていることは想像にたやすい。
寝ている間に少年の容態が急変したら大変なので、セリアは椅子にかけ、寝ずの番をするつもりであった。といっても、一晩中起きてい続けることは容易ではない。こっくりこっくり船をこぎながらも、椅子という不安定な場所だからこそ、時折目を覚まして少年の様子を見ることが出来る、という仕組みになっていた。
――水が少なくなってきただろうか。
少年を見つめていると、タライの水が、少し少なくなっていることに気がついた。休む前に足しておいたのだが、やはり寝ている間に少々蒸発してしまったらしい。
乾燥させてしまっては人魚の身体に触るのでは、とセリアは慌てて立ち上がった。疲労と寝不足で少しフラフラするが、これくらいたいしたことはないだろう。
しかし立ち上がった瞬間、再びカタリとかすかに物音がした。それとともに、月明かりに照らされていた床が一気に暗くなる。まるで影が襲ってきたように感じ、セリアは固まった。ゆっくりと顔を上げる。
……窓の外に、人影があった。
この集合住宅には、鍵などという贅沢なものは無い。セリアの家は二階なのだから、狙いをつけられたら、侵入は一瞬のはずだ。
セリアが身構える間もなく、その人影は外の木から窓枠へ、さっと飛び乗ってきた。軋む窓を開け、ゆっくりと部屋の中に入ってくる。セリアは思わず後ずさろうとするが、それよりも早く、人影は何かを突きだした。
「動かないで」
彼の背後から見え隠れする月の光に反射するのは、短刀だった。
「手を上げて、ゆっくり下がって」
人影は、細身の少年だった。眠っている少年よりはいくらか年上だろう。――いや、もしかすると私と同じくらいかもしれない。
そこまで考えが及んで、セリアはハッとした。ここには、私の他にあの男の子がいる。彼だけは、何としてでも守らないと。
咄嗟の行動だった。普段のセリアからは想像もつかないような速さだでタライに近寄ると、そこに横たわっている少年を抱えた。さすがに少年を抱えたまま移動することはできないが、しっかり抱きしめ、侵入者を睨み付けた。
「ここには何もない、出て行って!」
侵入者も、突然のセリアの行動に眉根を寄せた。声に凄みが出る。
「手荒な真似はしたくない。その子を離してこっちに渡して」
「この子の知り合い……? 一体何をするつもりなの!?」
「君には関係ない。さあ、早く」
彼は苛立ったようにこちらに近づいてくる。しかし、だからといって、はいそうですかと短刀を持っている相手にこの少年を引き渡せるわけがない。
「うん……?」
この騒ぎに、セリアの腕の中の少年は、ようやく目を覚ました。大口を開けてふわっとあくびをする。
「サリム!」
侵入者が少年の名を呼んだ。本当に知り合いなのか、とセリアは驚いた。しかし、それで全て彼のことを信用するわけにはいかない。何しろ、相手は話し合いすらしようとせずに武器を突きつけてきたのだから。
幼い少年――サリムは、緩慢な動作で眼を擦ると、セリアと少年、二人を交互に見やった。
「あれ、どうしたの――」
「サリム! 早く来い!」
「駄目、その人武器を持ってるから。行っちゃ駄目だよ!」
戸惑うサリムをよそに、侵入者とセリア、二人の牽制のし合いが続く。サリムは気圧されたように侵入者の方を見た。
「に、兄ちゃん……」
「――っ!?」
小さく呟かれた言葉に、セリアは息をのんだ。
「……この人、あなたのお兄さんなの?」
念のためサリムに小声で聞き返してみるが、セリアのその声は不信にまみれていた。それはそうだろう。サリムは人魚で、その兄と呼ばれている侵入者は、どう見ても人間にしか見えないからだ。まかり間違っても、人魚には見えない。
「うん。僕のお兄ちゃん。だから安心して――」
「でもなんで武器を持ってるの? あなた、脅かされてるんじゃないの?」
自分を兄と呼ばせて、従わせているのではないか。
セリアはどうもそんな風にしか思えなかった。
ただでさえ人魚は稀少なのに、このラド・マイムでは、象徴として崇められてもいる。そんな存在が、金儲けの手段にならないわけがなかった。
意図せぬ冷戦状態が続く。
サリムは、セリアの方の説得を諦め、今度は侵入者の方の説得を試みるつもりらしく、彼に真剣な顔を向ける。
「兄ちゃん、あの、落ち着いて」
だが、侵入者の瞳の剣呑さは未だ失われない。
「静かに」
「兄ちゃん、違うんだ、この人は――」
「静かに!」
低く、しかし鋭い声が響き渡る。セリアはいよいよサリムの身体を自分の方に引き寄せる。
武器を突きつけたり、叫んだり。どう見ても彼は危ない人にしか見えない。
侵入者が一歩一歩近づいてくる。どこへ逃げようかと、セリアは視線を這わせるが、どう考えても、サリムを抱えたままでは逃げ切れない――!
「いい加減にして!」
幼い声が緊迫した空気を突き破った。思わずセリアも侵入者もサリムを見た。
「兄ちゃん。短刀を仕舞って」
サリムは、舌足らずな、しかし凛とした声できっぱりと言った。
「で、でも――」
「仕舞って!」
気圧されたように少年はナイフを懐に仕舞った。
仕舞うんだ……。
まさに鶴の一声。しかし次にサリムはキッとセリアの方を向いた。セリアはビクッと肩を揺らす。
「お姉ちゃん、ごめんなさい。この人、僕の兄ちゃんなんだ」
「え……ほ、本当に?」
仮に本当の兄だとして、武器を使って人を脅すなど、普通の人の所業ではない。
「兄ちゃん、この人、海で溺れててた僕を助けてくれたんだ。命の恩人なんだ」
「……そうなの?」
わずかに少年の顔つきが和らぐ。だが、その右手は、今もなお、腰に差している短刀の辺りをうろうろしていた。
「だから武器を出したりしないで。僕の傷の手当てもしてくれたし、ご飯もくれて――」
「サリム! 怪我したのか!?」
セリアがあっと思うまもなく、少年は距離を詰めた。ひどく心配そうな顔つきで跪き、タライの中のサリムを見つめる。
「たいしたことないよ。お姉ちゃんが手当てしてくれたし」
「手当……?」
いぶかしげに少年は聞き返す。そして、サリムの尾ひれに巻かれている包帯にそっと手を当てた。
「あの、どうやって手当てすればいいのか分からなくて、私がよく使ってる薬草を当ててみたんだけど……。それで大丈夫?」
おずおずとセリアは説明した。自分でも拙い手当の仕方だと思っているからこそ、サリムになにか影響があるのではないかと心配でならなかった。自分のせいで彼に何かあった場合のことを思うと、やはり無理をしてでも神殿に連れて行くべきだったのではないかとの後悔の念が胸をよぎる。
「分からない」
しかし、少年も不安そうに唇を噛みしめた。
「傷自体はすぐに治ると思うけど、この海の汚水から、もしかしたら菌が入り込んだかも」
セリアと同じような診断を下す少年。彼女はより一層不安げな表情になる。
「この辺りに、人魚を看られるような医者はいないと思う。神殿に行けばたぶんなんとかなるだろうけど……」
「神殿は駄目だ!」
鋭い声で少年は言い切る。セリアは反射的に口を閉じた。先ほどの恐怖が蘇ってきた。怖い顔で、短刀をちらつかせるこの少年の姿が――。
「あ……ごめん。怖がらせるつもりは」
少年はあたふたと慌てた。そんな彼をなだめるように、サリムは少年の膝に手を置く。
「兄ちゃん、少し落ち着いて」
「ああ……」
少年はサリムの手を握り返し、反対側の手で彼の背中をなで始めた。その瞳には、いたわりの感情しかうかがい知れない。
「あの、あなたは本当にこの子のお兄さんなの?」
つい、セリアはそんなことを尋ねていた。先ほどしっかりとサリムから確認を得た質問ではあるが、どうしてももう一度しっかりと聞かなければ、納得がいかなかった。
「その……」
言いにくいが、どう見ても兄弟には見えないのだ。
ひょっとして幼馴染みという間柄だから、兄と呼んでいるのかと、そうセリアが思いかけたとき、少年はしっかりと首を縦に振った。
「そうだよ。一見そうは見えないだろうけど、俺たちは兄弟だ」
「そ、んなことってあるの? 人間と人魚が兄弟だなんて」
ならば、父親と母親、それぞれ異種なのだろうか。人間と人魚が子供を作った……?
「詳しくは言えない。でも、確かに俺たちは兄弟だよ」
セリアに真実を話すつもりはないらしい。セリアの方も、なんとなく検討はつきはじめていたが、それを明言させることはなかった。聞いたとしても、セリアの疑問が解けるだけで、それだけのために、無理に聞くこともない。
セリアはホッと息をつくと、立ち上がって身体のこりをほぐした。ずっと座ったまま臨戦態勢でいたせいで、ひどく疲労を感じていた。
その様子に、少年も少しばかり罪悪感を抱いたのか、ゆっくりと立ち上がった。
「あの……さっきはごめん。いきなり武器を突きつけて」
視線は決して交わらない。よほど後ろめたさを感じているようだ。
「人魚は珍しいから、人間に出会ったらすぐに捕まえられると思ったんだ。地上なんてそんな所だとずっと思ってたし、今もちょっとそう思ってる。でも君は違うみたいだ。なんの見返りもないのにサリムを助けてくれた。本当にありがとう」
申し訳なさそうな様子からは一変、今度は照れたように少年は顔を上げた。
謝られるよりは、この方がいい。
しっかりと目線を合わせ、セリアは笑みを浮かべた。
「気にしてない。あの子のこと大切に思ってるからこその行動だったんでしょ? 立派なお兄さんだよ。それに……あの」
最初こそ饒舌に話していたものの、後半にかかると、セリアは途端に口を濁した。別に緊張しているわけではない。ただ単に、言葉に出来ないのだ。サリムと出会って、ずっと胸の中に残っている、不思議な感情のことを。
もどかしさに、セリアは思わず顔を歪めそうになるが、すんでの所でこらえ、口角を上げた。
「私――セリア」
咄嗟にセリアは右手を差し出した。無意識で、しかも唐突なこの動作。少年は面食らったようだが、すぐ頬を緩め、セリアの手を握る。
「俺はカイルだ。よろしく」
「よろしくね、カイル」
誰かに自己紹介するのはいつぶりだろうか。
冷たい手を握りながら、セリアはぼんやりとそう思った。誰かの名前を呼ぶのも、同じく久しぶりだった。
ふっと泣きそうになるのを堪え、セリアは後ろを向いた。自分でも訳が分からなかった。どうして、こんなにも胸が閉め滅蹴られるのか――。
そんなセリアの様子に気づいた様子もなく、カイルはサリムに目を落とした。まだ疲労が残っていたのか、サリムは再び眠りに落ちていた。すやすやと穏やかな寝息が、見る者を落ち着かせる。
「悪いけど、もし良かったら、朝までここにいさせてほしい」
小さく、だが強い意志のある声に、セリアはためらいなく頷いた。
「それは別にいいけど……。むしろ怪我が治るまでも大丈夫だよ? 私一人暮らしだから」
「いや、さすがにそこまでしてもらうわけにはいかない。大丈夫、明日の朝には帰るから」
「うん……」
とりあえずは頷くセリアだが、彼の言葉に、ぽっかりと胸に穴が開くのを感じた。
胸が苦しい……。
セリアは険しい顔で、胸を押さえてみるが、締め付けられるような苦しさは、腫れることはない。
セリアは未だ、自分の新たな感情に、名前をつけることが出来ずにいた。