第一章 偶然か、必然か

03:偶然か、必然か


 すっかり綺麗になったセリアは軽い足取りで歓楽街に出た。先ほどは、自分の汚さ、臭さに足早に通り過ぎた場所であるが、身も心も綺麗になった今、ゆっくりと見て回るくらいには、十分心に余裕も出来ていた。

 本日思わぬ収入があったことで、食べ物や衣類を検分する彼女の目は、どこかいつもより鋭い。しかし、すぐに思い直した。やはり、いつ何時襲ってくるかも分からない不況に備えて、ここはいつも通り節約をしなければ。
 セリアは、年頃の娘にしては、着ている者もボロボロで、髪もずさんに伸びきったままだ。だが、生活に余裕が出来ないのだから、それも仕方がない。どうせ見る者もいないのだから、見た目に気を遣うよりは、お腹いっぱい食べたいというのが彼女の本心だった。

 ついつい衣類の方に目が行きがちになるのを堪え、セリアは食料一つに狙いを絞った。セリアの家に、食料を備蓄する保存庫なるものはないが、今は冬なので、多少の買いだめは出来る。
 今日や明日、明後日のご飯は何にしようか、セリアは次々に目移りしていた。普段は手が出せないようなものでも、今日のセリアは違う。多少値が張っても、いつも頑張ってるご褒美として買ってみるのもいいかもしれない。

 そんな風に意気込むと、セリアは魚や肉、しまいには野菜や果物にまで手をつけていった。ラド・マイムは水の上に位置しているので、魚は確かに安価で豊富ではあるが、逆に言うと、肉や野菜は輸入品に頼るしかない。最近では、富裕層が畜産業に着手し、それを売りさばくことで、以前よりも食肉は手に入りやすかったが、野菜や果物は違う。畑を設けてみても、やはり大陸のように思うようには育たないし、うまく栽培が出来ない。だからこそ、野菜や果物は、自然に高価になっていった。

 思うような買い物が出来た後、セリアは歓楽街を後にした。臨時週に于が入ったからと言って、明日も同じように仕事があるのだから、今日も早く寝なければ。
 銭湯と買い物に、思った以上に時間を費やしてしまったらしく、辺りはもう暗い。もちろん、今が冬だからというせいもあるのだが。

 貧民街へ続く狭い通りを、セリアは足早に歩いて行く。貧民街は、柄の悪い物も多く、ひったくりや暴行なども日常茶飯事だ。セリアが女だからと言って――いや、女だからこそ――見逃してもらえるわけはないのだ。
 緊張に身体がこわばらせながら歩くセリアの耳に、ふと何か物音が飛び込んできた。咄嗟に彼女は足を止める。

 何かがぶつかるような、そんな物音。だが、それとともに聞こえてくるのは、波の音――?

 セリアは信じられない思いで運河を覗き込んでみた。
 この街の海は堤防で囲まれているので、波が立つことは無い。昼夜を問わず静かだ。こんな風に、何かが暴れているような水音は立つはずがない。
 もしかして人が溺れているんじゃないかと、セリアは焦って更に目をこらしてみる。近くに街灯がないせいで、あまり鮮明には見えない。しかし、パシャパシャという音は、静まり返った街の中でよく響いた。

「誰か……いますか?」

 遅る遅る声をかける。溺れているのなら、返事をする元気もないだろうが、しかしあまりにも真っ暗で、セリアも不安だった。突然海から何かがニュッと現れて、私を攫って行くんじゃないか――。

「ごっ……ごふっ」

 小さな声だった。しかしそれは確かに人の声。

「大丈夫ですか!?」

 セリアは荷物を放り出すと、迷わず運河に飛び込んだ。水音の方へ懸命に泳いでいく。闇雲に両腕を伸ばしてみれば、何かに触れた。すっかり冷たくなった人の身体だ。やけに小さいので、まだ子供なのだろう。

 セリアは小柄なので、大した力はないが、それでもその子供の身体を精一杯持ち上げてみる。子供が暴れていて、思うように力が出ないが、それでもやらないわけにはいかない。――しかし、何度挑戦してみても、浮上しない身体。
 セリアはようやく気づいた。泳げなくて覚えているわけではなく、何かに引っかかっているんだと。
 そうと分かれば、セリアは携帯しているゴーグルを装着すると、息を吸い込み、ためらいもなく潜った。暗くてよく見えないが、やはり服か何かが引っかかっているらしい。セリアは手を伸ばし、確認してみる。――だが、すぐに違和感に気づいた。服でも肌でもないこの感触。……鱗?

 ハッとしてセリアはもう一度目をこらしてみた。すると、今度こそ目に飛び込んできた。うっすらとだが、鈍く光を放つ、むすうの鱗に。
 驚きにセリアは口を開けてしまい、そこから水が入り込んできた。慌てて浮上し、呼吸を繰り返す。
 その際、子供と目が合った。髪が肌に張り付き、苦しそうに顔をゆがみ、そして縋るような瞳。

 セリアは再び水の中に潜ると、今度こそ事態を何とかしようと、鱗に手を伸ばした。どうやら、外壁から切り出した岩の隙間に、鱗が引っかかっているらしい。よくよく見れば、怪我をしているらしく、鱗の隙間からは細い血の筋が流れ出ていた。痛みに暴れる子供を押さえつけ、そっと鋭い岸壁から鱗の肌を抜き取っていく。そうして自由になった途端、子供は勢いよく浮上していった。その様子に、やはり溺れていたわけではなかったのだと、セリアはぼんやりと思った。

 セリアが浮上したとき、子供は、運河の縁に掴まって、息も絶え絶えな様子だった。海に浸かっているせいで、身体の下半身は見えないが、その下に両足ではなく、鱗のひれが広がっていることは、先ほど確認済みだ。
 初めて人魚を見たことで、セリアにも多少なりとも動揺したが、今は子供の方が大切だと、一旦は絡まる思考を隅に追いやった。

「大丈夫?」

 先ほどよりは落ち着いているようだが、それでも子供はしかめっ面のまま唇を噛みしめていた。今もなお、傷口から汚水が入り込んでいるのだろうと、セリアは胸が痛くなった。

「お父さんかお母さん……知り合いって近くにいる? 怪我……って、いつもどうやって手当てしてるの?」

 人魚は稀少なので、この辺りに医者などがいるわけがない。人魚を保護している神殿であれば、もしかして人魚のことに精通している医者がいるのかもしれないが、どうやってそこまで連れて行けばいいのだろうか。セリアの今の状態だと、門前払いされるのが関の山のようにも思える。

「お父さんもお母さんもいない……。知り合いも、ここには……」

 自分で尋ねておきながら、セリアは、子供がきちんと話せることに驚いた。いくら上半身が人間によく似ているからと言って、下半身は魚のひれがついているのだ。意外にも意志疎通ができるのだと、不思議に感じていた。

「この近くに私の家があるの。そこへ来る? この海は汚いから、このままだと傷口から菌が入ってくるかも」

 困り切って、セリアはとりあえずそんな提案をしてみた。とにかく集合住宅まで行けば、共用の井戸がある。少なくとも、汚い海の水よりは大分マシだろう。
 街中に運河が張り巡らされているので、少年を集合住宅地へ案内することは訳なかった。むしろ、彼の様子の方が気がかりだった。傷口が相当痛むらしく、額に脂汗を浮かべている。今からでも神殿の方に行った方がいいか、とも考えたが、ここから街の中央の神殿まではかなりの距離がある。やはり、ここはひとまず自宅で傷の手当てをする方が先決だと思った。

「すぐにつくからね」
「うん」

 元気づけるために、セリアは何度か声をかけながら家を目指した。時間も遅いせいか、集合住宅が建ち並ぶ貧民街は、もうすっかり静まりかえっていた。しかし、ようやく自宅に到着したというのに、セリアはすっかり失念していた問題に直面した。

「……どうやって家の中に入ろうか」

 彼は人魚である。ここまでは運河のおかげで水に浸かったまま移動することは出来たが、陸上での移動は不可能に近い。それどころか、水がない陸では干からびてしまう可能性もあるのではないか。

「駄目元で聞くけど、陸に上がると干からびちゃう?」

 人間で言う『酸素がないと死んじゃう?』くらいの破壊力を持つ質問。失礼を承知の上だ。しかし、少年から帰ってきた返答は思いも寄らないものだった。

「水がなくても平気だよ。数時間くらいは。さすがにそれ以上はきついけど……」
「へえ……」

 そうなんだ、とセリアは素直に感心した。人魚存在は、ほぼ噂でしか聞いたことがなく、その生態についてもほとんど知らなかったため、初めて聞くことばかりであった。

「よし、じゃあとりあえず家に入ろう。私が抱えるから、ここに上がってこられる?」
「うん」

 両の腕で上がろうとする少年を助けながら、セリアは彼を陸に引き上げた。ピチピチと跳ねる尾ひれが珍しくて、セリアはしばしその光景に見とれた。

「あの……?」
「ああ、うん!」

 我に返ると、セリアは一旦その場に荷物を残し、少年を背中に抱えた。しかし、すぐに彼の身体はずるずると下に落ちていく。尾ひれは掴むところがないので、非常に抱えにくいのだ。

「やっばり前にしようか」

 そう言ってセリアは少年に向かって両腕を差し出した。彼も合点がいったのか、申し訳なさそうな顔でセリアに抱きついた。

「うん……これならまだいけるかも」

 しかし、やはり背中で抱えて歩くよりは、歩きにくい。それに、いくらセリアよりも年下だからと言って、相手は少年だ。小柄でもその身体は重く、家の中に入るだけでも精一杯だった。集合住宅地は四階建てであるが、このときほど、自宅が二階であることに感謝したことはない。貧民街は治安が悪いので、昼住民が働きに出ているときに空き巣が入ることなど頻繁にあり、そのため、できるだけ上の階が人気なのだ。といっても、セリアの家は貧乏なので、高価な物は何もない。空き巣に入られても痛くもかゆくもなかったため、別段二階に住んでいること自体は苦に感じていなかったのだが。

 少年をセリアの部屋に座らせると、彼女はすぐにまた外に出た。急いで荷物を取りに帰り、そして今度は大きなタライを持って家を出る。銭湯に行くお金がないときに、家の中で行水するときに使用しているものだ。セリアは慣れた手つきでタライに水をためると、再び家の中に入っていった。少年は、物珍しそうにキョロキョロ辺りを見回していたところだった。

「お待たせ。ちょっと狭いだろうけど、これで大丈夫かな」

 少年を抱えると、タライの中にそっと下ろした。その衝撃で少し水がこぼれるが、いつものことだ。

「気持ちいい……」
「本当?」

 初めて少年が笑みを零したので、セリアも嬉しくなる。しかし、透明な水に浮かぶ一筋の赤い線に、眉根がよった。

「その傷……痛む?」
「あ……ううん、大丈夫」

 一瞬少年の表情が曇り、そして明るい笑顔を浮かべる。ただの強がりなことはすぐに分かった。

「消毒しないといけないのは分かるんだけど……。人間のものでも大丈夫だと思う?」
「わ、わかんないけど……。でも、本当に大丈夫だよ! このくらい、多分すぐに治るし!」
「うん……」

 少年は遠慮を見せるが、セリアの方もこのまま何もせずにはいられず、とにかく薬草を持ってきた。セリア自身、海に飛び込むことはよくあるので、あらかじめ薬草は常備しているのだ。

「こんなものでごめんね。しばらくこれで様子を見よう」

 傷口に薬草をあて、そして細長く切り裂いた布で二重ほど巻いた。本当はもっとしっかり巻きたいところだが、尾ひれが太くて二重にしか負けないのだ。

「気分が悪くなったりしたら、すぐに言ってね」
「うん」

 元気よく頷いて、無邪気にセリアを見上げる少年に、セリアは胸が温かくなるのを感じた。特別なことは何もしていないのに。

「ありがとう」
「えっ」

 感慨に浸っていたセリアは、すぐにまた引き戻された。小さな声で呟かれた言葉に、セリアは目を瞬かせる。

「お礼……言うの遅れちゃったけど、助けてくれて、ありがとう」
「う、ううん、いいよ、そんなの。当たり前のことだし」

 セリアは複雑な表情になった。久しぶりにお礼を言われたからだろうか。切なくなるような、胸が締め付けられるような、そんな苦しい感情に、セリアは溺れかけた。

「ゆっくりしててね」

 やっとのことで、セリアは声を絞り出す。

「私もちょっと身体拭いてくるから」
「お姉ちゃん」
「……うん?」

 一瞬反応が遅れる。お姉ちゃんだなんて呼び方は、初めてだった。

「ありがとう」
「……うん」

 その優しい響きに、セリアは微笑を浮かべた。
 まるで、弟が出来たようだった。
 セリアは思わず頬を緩める。一人っ子であった彼女は、時折強大に憧れていたのだ。いや、兄弟だなんて高望みするつもりはない。母親が、父親が、まだ生きていてくれたら――。

「お姉ちゃん?」

 暗い顔になっていくセリアに驚いたのか、少年は心配そうに顔を覗き込んでいた。セリアは慌てて笑みを作る。

「ごめんね。大丈夫だよ。えっと……後は」

 暗い気持ちになってしまうのは押さえ、セリアは何か言うことはなかったかと思考を巡らせた。

「あっ、そうだ。私まだ夕食食べてないんだけど、あなたも食べる? いつもどんなものを食べてるの?」

 至って普通に尋ねたが、内心、セリアは興味津々だった。人間とも、魚とも言える人魚という存在が、どのようなものを食べるのか、不思議でならなかったのだ。少年はうーんと考え込んだ後、スッと口を開いた。

「魚とか……海藻とか」
「さ、魚?」

 セリアは驚愕に目を見開いた。いや、考えれば当たり前のことだ。世間一般では共食いとも言われかねないが、それでも魚は同じ魚を食べることだってよくあるという。別に人魚だけが特別なわけではない。だが、それでもどうしても複雑な表情になるのは仕方がなかった。なんとなく……セリアの想像でしかないのだが、人魚は海洋生物たちに好かれているような印象があったのだ。昔からラド・マイムに伝わる伝承のせいもあるだろうか。
 本人達はどうも思っていないのに、赤の他人のセリアがいつまでも衝撃を受けているわけにはいかない。セリアは笑顔を作って見せた。

「じゃ、じゃあ魚……生の魚でいいのかな? 海藻はないから申し訳ないんだけど」
「うん。そのままで大丈夫だよ」

 言い切ってみせる少年に、セリアはもうこれ以上言うことは何もなく、そのまま扉を閉めた。彼が夕食を食べるとき、自分は席を外そうと、そう心の中に誓いながら。