第一章 偶然か、必然か
02:凍った心
セリアは浮足立って帰り路へついていた。
今日の仕事はもう終わりだ。ゴンドラは街の外れの波止場に繋ぎとめた。後はもう、陸上の道のりを歩くだけだった。
運河が縦横無尽に通る水の都――ラド・マイムは、夜になると一層栄える。歓楽街は昼間以上に盛り上がりをみせるし、大きなお屋敷では、夜会を模したパーティーなんかも開かれる。
この時間は、本来ならば子供はとっくの昔に家に帰っている時間だろう。夜になってまで辺りをうろついている子供がいるとすれば、それは、帰る家が無いか、この時間まで働いているかのどちらかだ。
セリアは小さくくしゃみをしながら、人通りの多い歓楽街を歩いた。周囲には、昼間よりは少ないが、露店もいくつか開かれている。普段なら、そんなものを目に止める暇も余裕もなかったが、今日はいくらばかりか違う。何と言っても、懐には金貨が入っているのだ。
セリアは匂いに釣られるように、串焼きを売っている店に歩み寄った。しかし、店主が鼻に皺を寄せてこちらを睨んだのを見て、途端に委縮してその足は止まってしまった。
そうだ、すっかり忘れていたけど、私は今臭いんだ――。
セリアは諦めたように首を振ると、雑踏の中に身を滑り込ませた。
*****
ラド・マイムが水の都と呼ばれている所以は、広大な水の上――海上に街が作られているからである。
もともと、ここは幾つもの小さな島々が点々と浮かぶ海だった。その孤島同士を橋で繋ぐうち、いつしかそこは街と呼ばれるようになった。長い年月を経て、外部からの侵入者を防ぐための高い堤防も築かれ、ラド・マイムと名付けられる頃には、この地を治める領主も現れていた。
住家の周囲を海が囲っているというのは、非常に有り難いことだった。海の上ということで、侵入者はなかなかやってこないし、来たとしても、高い堤防に阻まれ、なす術もない。外海に出れば魚もすぐに捕れるので、食糧に困ることは無い。――そう思っていたのは、始めだけだった。やがて、ラド・マイムには様々な病が蔓延ることとなった。原因は明白だった。家庭用水も工場用水も、果ては糞尿まで、すべてのものが海に垂れ流しにされているのだ。そんな水の近くで生活して、病気にならないわけがなかった。
現在、ラド・マイムでは、慌てて排水路の整備をしているところだ。他国から技術者を呼び集め、どのように作ればいいのか、どこに配置すればいいのかと、日夜話し合いと工事に明け暮れているらしい。だが、いち早く上流階級の住む地区が整備されたとして、貧民が所狭しと暮らす地区にまで整備の手が伸びるのは、一体いつのことになるだろうか。むしろ、今ですら高級住宅街と貧民街が区別されているというのに、排水路の有無によって、今度は貧民街が隔離されるのではないかと、平民は噂している。
高級住宅街ほどではないが、立派な一戸建てに住み、しっかりとした仕事に就いている彼らにとっては人ごとかもしれないが、貧民街に住むセリアたちにとっては、決してそんな風には考えられない。ただでさえ差別されているというのに、これ以上区別されれば、住むところすらなくなってしまうかもしれないのだ。
セリアは、できるだけ早く歓楽街を抜けようと、足早に歩いていた。これ以上貧民に対する評価を下げるわけにいかなかった。たださえ毎日お風呂に入ることが出来ず、ゴンドラ漕ぎでかいた汗を流せずにいるというのに。
先ほどからすれ違う人という人に、嫌な顔をされてばかりで、セリアは申し訳なさに顔をうつむけた。
早く家に帰って、身体を洗わなければ――。
と、そんな彼女の視界に、湯屋という文字が飛び込んできた。思わず彼女の足も止まる。非常に魅力的な文字だった。
しかしそれでもセリアはぶんぶん首を振って、その魅力に抗った。いくら身体を綺麗にする場だとは言っても、限度というものがある。せめてこの臭いだけでも改善して、温かいお湯につかりたい。
貧民層の集合住宅地につくと、セリアは自分の部屋から手早く着替えを持ってきた。ここまで来ると、もうお風呂のことなどどうでもよく、このままベッドに潜り込みたい気分だったが、いくら何でも今日はそうはいかない。あの海に全身使ってしまったのだから、何か心身に異常があっても困る。医者にかかるお金もないのだから。
セリアは部屋を出ると、共同の井戸までやって来た。
いくら周囲に腐るほど海水があるからって、人間は塩水を常飲することができないし、何よりその海水は汚い。そこで作られたのが、この井戸だった。地下に雨水を溜め、そこからくみ出して日々使用していた。井戸の周囲は傾斜になっていて、雨水も溜まりやすくなっている。上流階級が住む井戸はもちろんそうなのだろうが、ラド・マイムの地において、きちんと井戸の水が濾過されている井戸は数少ない。貧民街のこの井戸など、もってのほかだ。
だが、それでも無料で淡水が飲めるのはありがたいことだった。海の上なので日照りが少なく、だからこそ井戸の水が枯れることもない。ただ、それでも真水は貴重なので、安い湯屋などで用いられるお湯は、海水を温めたものである。貧乏な人からしてみれば、温かい湯であれば、海水でも淡水でもどちらでもいいというのが本音ではあるが。
セリアはできるだけ音をたてないようにして、井戸から水をくみ上げた。まだ時間的には早い方だが、辺りはもう真っ暗なので、周囲に気を使ったのだ。すっかり重たくなった桶をうんうん唸りながら運河の方へ運び、セリアはそこで跪いた。ゆっくりゆっくり、なるべく汚れが落ちるようにして、セリアは丁寧に服の上から水で洗い流していった。洗い終わった汚い水は、そのまま下に零れていき、運河へと流れ出る。
セリアは、どうしてもこの行為に慣れることができずにいた。今は見る影もないが、この運河の本来の姿は、このような汚く汚染された水ではないはずだ。本来はもっと生物が生息し、人々も自由に泳ぐことができる――そんな場所だったはずなのに。
セリアは泳ぐことが好きだ。だからこそ、運河に汚い水を流すというこの行為に、いつも嫌気がさしてしまう。かといって、この他に汚水を排水する場所も無い。結局、いつも唇を噛みしめながら、この広大な運河に汚水を流すしかないのだが。
浮かない顔で身体を洗っているセリアには、そろりそろりと近づいてくる人影には気づかなかった。
「くっせー! 今日はいつもよりくせー!!」
顔を上げた時には、その少年は嬉しそうにぴょんぴょん飛び跳ねていた。セリアは苦笑いを浮かべる。
「なーなー、何でいつも臭いんだよ。母ちゃん言ってたぜ、共同の井戸を使う時くらい、あの臭いどうにかしてほしいって」
「ごめんね。仕事だから」
今日が特別だっただけで、さすがのセリアも普段海に入ることは無い。が、毎日運河にてゴンドラを漕いでいるせいで、もう既に体中に異臭が染みついてしまっていた。慣れてしまった自分には分からないが、海の水は相当臭うらしい。セリアはいつも肩身が狭かった。
「今日は湯屋に行くんだ。だからすぐにこの臭いは消えるから」
「本当かなー。母ちゃん言ってたぜ、もうあの臭いは一生取れないって」
「ごめんね」
誰に言うでもなく呟くと、セリアは身体を洗う作業を再開した。共同の井戸ですらこのありさまなのだから、このまま銭湯にでも行けば顰蹙ものだろう。
ようやく満足の行くまで洗い終えると、セリアは着替えを持って銭湯へ向かった。道中、ずぶ濡れの彼女をじろじろ見る視線が痛かったが、もうすぐ温かく綺麗なお湯に疲れると思うと、それも何だか心地よかった。
*****
銭湯は、多くの人でごった返していた。入り口で代金を払うと、セリアは小さな体を活用して人の波を縫って歩いた。
脱衣所は、銭湯の入り口よりも遥かに狭かった。やっとの思いで空いている場所を見つけると、肩と肩とを触れ合わせながら服を脱いで行く。あまり銭湯に来る機会のないセリアは、人の前で裸になることに多少の抵抗はあったものの、周囲の女性たちは皆慣れているのか、恥ずかしがる素振りは微塵も見せない。やがて彼女も腹を括って、銭湯へ足を踏み入れた。
まず目に入ったのは、白いもくもくとした湯けむりだ。湯煙の間を縫って、女性たちの白い身体が見え隠れしている。
周囲の人たちに倣って、セリアはまず身体と頭を洗った。銭湯に備え付けられている石鹸は、あまり良い香りとは思えなかったが、それでも、そんな石鹸すら買う余裕のないセリアにとっては、大変ありがたいものだった。
ようやく身体全体が綺麗になると、セリアは湯船の方に近寄った。あまりに人が多いので、お湯が全く見えない。どうにかこうにか、セリアは空いている場所を見つけると、お湯にゆっくり身体を点けていった。じんわりと暖かさが身にしみる。
「あったかい……」
こんな贅沢、もうできないかもしれない。
懐に金貨があると思うと、何でもできるような気になってしまうが、こんな調子なら、金貨を切り崩す日も近いだろう。気を付けなければ。
入れ替わり立ち替わり、女性たちが湯船から出たり入ったりする。その合間を見計らって、セリアは一番居心地の良い奥の四隅を陣取った。すぐに出る女性が多いのか、奥まで浸かりに来る者は少ないようで、人口密度は心持ち少ない。
セリアはゆとりのある空間で、そっと辺りを見渡した。皆、周りの女性たちは気持ちよさそうに目をつむっていて、こちらに注意を払う者などいない。
ちょっと口元に笑みを浮かべると、セリアは思い切って潜ってみた。といっても、お湯はセリアの膝ほどまでしかないので、せいぜい座ったまま頭を沈めるだけだ。それでも、あの汚い運河よりはずっと心地よかった。
せっかく頭を洗ったのに、という思いが胸をよぎらないでもなかったが、もう一度洗えばいいという結論にたどり着き、その思考は追い払われた。
今日、銀貨を探したときのように、思い切って身体を伸ばして泳いでみたいという思いはないでもない。が、ここには大勢の人がいる。セリアはそのままの態勢で我慢した。
どれくらい経っただろうか。お湯の中にいるせいで、周囲の音が遠い。だんだん息が苦しくなってきて、いよいよセリアは勢いよく湯から顔を出した。
「ぷはっ」
肩で呼吸を繰り返すその顔は真っ赤だ。ここがお風呂であるということをすっかり忘れていた。心なしか視界が揺れているような気がする。
ボーッとする意識の中、セリアはもう上がろうと腰を浮かしかけたが、聞こえてきた声に、咄嗟に動作を止めた。
「驚いた。あんた、随分長いこと潜水できるんだねえ」
私に声をかけたのだろうか、とセリアが振り返ると、水風呂に浸かった女性がセリアのことを見つめていた。にっこりと口元に笑みを浮かべる様からは、敵意は読み取れない。
「あ……はい。昔から潜るのが得意で」
「へえ、珍しいね。よく風呂で潜ってるのかい?」
「いえ、あまりお風呂には来れなくて。だからたまに来たときに、思う存分お風呂を堪能しようかと」
「あはは、それがいいねえ。この国じゃ水は貴重だし」
女性は、頭にかけていた手ぬぐいを一度風呂に浸し、再び頭に乗せた。
「でもそんなに長いこと潜ってたら湯だっただろ? こっちに入るかい?」
「あ……じゃあ」
女性が人一人分の隙間を空けてくれたので、セリアは躊躇いがちに風呂から上がった。
久しぶりの人との交流に、セリアは若干緊張していたのかもしれない。特に躊躇することなく、特に構えることなく足を湯船に下ろし――悲鳴を上げた。
「つめたっ!」
あまりの冷たさに、セリアは飛び上がった。女性が使っている風呂が水風呂だと言うことは理解していたが、まさかこんなにも冷たいとは。
「あははっ、あんた、水風呂は初めてかい?」
ぶるぶる震えながらセリアは頷いた。言われてみれば、今まで水風呂には入ったことがなかった。風呂に酔うほど長時間滞在しないせいもある。
「そんなに長いこと浸かって大丈夫なんですか? 風邪引きませんか?」
セリアが長時間潜っていたことを知っていたと言うことは、それだけ彼女も水風呂に浸かっていたと言うことだ。それを想像するだけで、またもや寒気が襲ってくるセリア。
「まあ、確かに水風呂は物好きなやつしか入らないだろうねえ。それか度胸試しに入るやつか」
「はあ……」
セリアは、もう水風呂に入る勇気もなく、おずおずと再び温かい湯船に身を沈めた。それを見た女性がクスクスと笑い声を立てるが、セリアは若干頬を染めるだけで、反応はしなかった。
「あんた……」
水風呂の縁に腕と顎を置いて、女性はセリアに向かって口を開いた。
「この街が好きかい?」
「え? あ……たぶん」
まっすぐ射貫かれる視線に、セリアは迷わず答えることが出来なかった。まるで彼女のためらいを見透かしたように女性は笑った。
「この街の水が、綺麗で清潔だったら、あんたみたいな子供達みーんな、思う存分泳いで遊ぶことが出来たのにね」
小さく呟かれた声は、まるで独り言のようにも聞こえた。
「他国からはさ、水の都ラド・マイムなんて呼ばれてはいるけど、全く笑わせてくれるよね。なにが水の都だ。こんなに汚い水がはびこるここが、まるで綺麗な場所を指すかのように通称なんてつけるもんじゃない。全く、誰が言い出したことなのか」
「…………」
セリアは口を挟むことも出来ず、黙って彼女を見つめていた。どう合図地を打てばいいのか、さっぱり分からなかったのだ。
「水も人も腐りきっちまって。誰も何とかしようと思わないものかね」
やれやれと首を振った後、女性は悲しそうに顔をうつむけた。
「ま、そういうあたしも、実際に何をしようって行動を起こすこともないんだけどさ。……いつの間にか、ここで暮らすうちに、毒されてくる、慣れてくるのさ。これが普通だと思っちまうのさ」
言ってるうちに、気を取り直したのか、今度は頭の上の手ぬぐいを握りしめ、女性は言った。
「昔はこうじゃなかったって聞くけどね。一体いつからこんな国になっちまったんだか」
嘆くように女性は呟いた。セリアには、彼女が何を言っているのかいまいち理解することができなかった。
学もなければ、頭を使うことも無い。
そんな生活を繰り返してばかりのセリアにとって、この国が今どうなっているかなど、知る由もなかった。置いてけぼりになったセリアを、女性は察したのか、恥ずかしそうに笑った。
「悪かったね。湿っぽい話しちまって。もうあたしは上がることにするよ」
ためらいなく水風呂から上がると、彼女はそのまま入り口の方まで歩いて行った。セリアはしばらく彼女を見送った後、自身もまた、入り口まで歩いて行った。また洗髪しなければならないことなどすっかり忘れ、ただ、セリアはボーッとしたまま脱衣所に上がった。