第一章 偶然か、必然か
01:ゴンドラ漕ぎの少女
異臭が漂う海を、一艘のゴンドラが走っていた。細い運河を自由自在に走り回るその姿は、まるで勇ましい海賊船のようだ。
舳先に向かって立ってオールを漕ぐのは、その大きなゴンドラには似ても似つかない、まだ齢十五の少女――セリアである。額には汗が煌めき、その表情は険しい。
「きゃっ」
ゴンドラが一際大きく揺れた。客として乗っていた女が、慌てて縁に掴まる。船体から投げ出されることは無かったが、しかし彼女が着ていた豪華なドレスに、薄汚れた海の水が跳ねた。堪らなくなって、女はギリギリと歯ぎしりを鳴らした。
「〜〜っ、何よ何よ何よー! 一体どうして私がこんな目に! ――あなた!」
女はゴンドラを漕いでいる少女に指を突きつける。セリアは腕を動かしながら、顔だけ振り返った。
「何でしょう?」
「腕が鈍いんじゃないの? 客の服に水を跳ねさせるなんて、ゴンドラ漕ぎ失格だわ!」
「それは……すみません。でもこう見えて私、ゴンドラを漕ぎ始めて、もう三年になるんですよ」
「そんなの知らないわよ! どうしてくれるの、私のドレスが台無しじゃない!」
「すみません」
再度謝ると、セリアはすぐに前を向いた。もうすぐ目的地だった。
「もう……最悪。本当は私、客船付きの豪華なゴンドラに乗ってパーティーへいくはずだったのに……。お父様ったら」
女はぶつぶつと独りごちる。セリアは困ったような笑みを浮かべながらも、しかしその手を休めることは無かった。
ゴンドラを漕ぎ始めてもうすぐ三年。今まで様々な客に出会ってきたし、様々な状況にも遭遇してきた。今更、ちょっと気位の高い女性に出くわしたからと言って、慌てふためくことも無い。
「お客様、到着しましたよ。こちらでよろしいですか?」
「やっと着いたの?」
はあ、と女はあからさまにため息をつく。
「代金は銅貨二枚になります」
「銅貨? そんなもの私が持ってるわけないじゃない」
「え?」
反射的にセリアは聞き返した。それに構うことなく、女が財布から取り出したのは一枚の銀貨だった。
「ほら、これでいいでしょ」
セリアが返事をするよりも早く、女は銀貨をポンと放り投げる。それは的外れな方向へ飛んでいき、音を立てて海の中へ沈んでいった。
「あら、ごめんなさいね? 手元が狂ってしまったわ」
ふふん、と鼻で笑うと、女はドレスを翻し、岸へ飛び移ろうとした。しかしその瞬間、強い風にドレスが煽られた。あっと思った時には、もうすでに左足は海の中に突っ込んでいた。ゴンドラと岸の歩道との間には、人一人分ほどの隙間があったのだ。そのことに女は気づかなかった。
「――きゃっ!」
片足では体重を支えることができず、女はそのまま前のめりになった。咄嗟に女がぎゅっと目を瞑った時、腰に手を添えられ、ぐいっと引き倒される。一瞬遅れてゴンドラの中に倒れこみ、彼女は状況を理解すると、安堵の息を吐き出した。女の下にはセリアがいた。
「大丈夫ですか?」
「――ふんっ、余計なお世話!」
女が顔を真っ赤にして怒鳴ると、セリアは再び困ったような表情になった。
「隙間があるので、気を付けてくださいね」
「何よ、始めから言いなさいよ!」
ぷんぷん怒りながら、しかし今度こそ女はきちんと歩道に降り立つ。それを見届けると、セリアは彼女に背を向けた。
ゴンドラがしっかり岸に繋ぎとめられていることを確認し、ベルトに挟んでいたゴーグルを手に取った。ゴムを伸ばし、頭からそれを被って装着する。しっかり目の保護ができたら準備完了だ。
「あ、あなた、何するつもり――もしかしてっ」
セリアが海に向かって腰を落としたのを見て、女は焦る。しかし、彼女が制するよりも早く、セリアは大きく息を吸い込んで、水の中にゆっくりと身を滑り込ませていた。
冬の海は、冷たくて暗い。しかしゴーグルのおかげで視界は良好だった。歩道では街灯も瞬いているので、微かにだが海の中が照らされている。
そのことに気を良くし、セリアはぐんぐん潜水していく。
昔から、泳ぐことは得意だった。長く潜っているのも得意だった。
好き、と言っても過言ではないかもしれない。このような海――家庭排水や工業排水、果ては糞尿までが垂れ流されている――に潜ることは、さすがのセリアも本望ではなかったが、たとえ汚くても、ゴンドラのように自由自在に泳ぐこと自体は好きなのだ。
大分海深くにまで落ちてしまっただろう銀貨を見つけるため、セリアは目を細めた。小さな銀貨はなかなか見つからないが、代わりに視界の隅にぼんやりとした影が入り込んだ。それは、すばやく動き回り、セリアが焦点を合わせるより早く、暗闇の中に消えて行ってしまった。
……人?
一瞬、そう思った。が、あり得ない。
セリアはすぐにその思考を否定した。誰が好き好んで、臭い海――しかも冷たい水の中を、泳ごうとする人がいるだろうか。そんな酔狂な人間、水の中に生活費を落としてしまった貧乏な人くらいしかいない。
じゃあ一体何なんだろう。
この辺りの運河は、水が汚いので、魚も海洋生物も滅多に近寄らない。
人魚……だろうか。
ふっとそんな考えが頭に浮かぶ。だが、その選択肢もすぐにかき消えた。あり得るわけがない。一番あり得ない。だって、人魚ほど大切にされている存在が、間違ってもこんな汚い海の中で泳いでいるわけがないのだから。
人魚は、この水の都ラド・マイムの地において、象徴として崇められている。街の中央にある神殿で生活しているらしく、民衆の前に姿を現すのは、年に一回の祭典の時くらいだ。それですら、祭典に参加できるのは上流階級くらいで、セリアのような貧民は、その姿を拝見できることは一生ないといっても過言ではない。
そろそろ息が苦しくなってきた。もうお金は諦めようか、そうセリアが思った時、闇の奥に光るものを見つけた。――銀貨だった。僅かに届いていた地上からの光を受け、鈍く輝いている。
嬉しさのあまり、セリアは思わず口を開いたが、途端に自分が海の中にいることを思い出した。少し水を飲んでしまったが、大丈夫だろう。
最後のひと踏ん張りで、足で水をぐんと蹴った。一蹴りで銀貨を掴むことができたので、セリアは勢いよく浮上した。地上の明かりを目指して、酸素を目指して。
「ぷはっ」
口を大きく開いて、一杯に酸素を求めた。水の中にいた時はあまり感じなかったが、急に寒気を感じた。セリアは髪を振り乱しながら、歩道に上がる。折角のゴンドラ――しかもお客も乗る――を、汚い海の水で汚したくなかった。
「はあ……はあ」
次第に呼吸も落ち着いてきた。ゴーグルを外し、セリアは自然と空を見上げる。――空は、もうすっかり闇に染まり、大きな月が浮かんでいた。
「どういうつもりよ!」
その視界に、突然人が入り込んだ。セリアはぎょっとして後ずさった。
「あんた……どんだけ長い間海の中に潜ってんのよ……! てっきり死んだのかと思ったじゃない!」
先ほどの、女性客だった。彼女は額に手を当てて怒っていたが、やがてウッと鼻を手で覆うと、額にしわを寄せた。
「あんた、ひどい臭いよ!」
「そ、そうですか?」
首をかしげながら、セリアはくんくんと自身を嗅いでみた。――鼻が麻痺しているのか、あまり臭いとは感じられなかった。
「心配をさせてしまってすみません」
セリアは縁でしゃがみこみ、自身の服を絞った。全身ずぶ濡れなので、そのくらいで何かが変わることも無いが、しかし少しは彼女のいう臭いがマシになるかもしれない、そう思ってのことだった。
「…………」
女は居住まいが悪そうにセリアの行動を眺めていた。やがて、セリアは立ち上がり、そーっとゴンドラに乗る。できるだけ、ゴンドラに水を跳ねさせないよう、静かに所定の位置に立った。縄を外し、オールを手に取る。
「では、これで失礼します。さようなら」
ぺこっと頭を下げ、セリアはゴンドラを漕ぎ始めた。行く時よりも、速度はかなり早い。海の水をゴンドラ内にあちらこちら跳ねさせながら、彼女は進んでいった。あまりの速度に、女は慌てて声をかけた。
「待ちなさいっ!」
「――え?」
「待ちなさいって言ってるの! ちょっとこっちへ来なさい!」
岸に仁王立ちになって女は叫ぶ。訝しげにセリアはもどってきた
「何ですか?」
「受け取りなさい」
女はポンと何かを投げる。それは綺麗に弧を描き、見事にセリアの手の中に着地した。街灯の明かりに照らされたのは、一枚の金貨だった。
「こ、これ……」
「私、パーティーには手ぶらで行きたいの。良い女がお金を持ち歩くなんて無粋でしょう?」
「でも――」
「何度も言わせないでちょうだい」
ぴしゃりと言うと、女はさっと身を翻した。もうこちらには目もくれない。それでも。
「ありがとうございます――」
セリアは、久しぶりに小さく笑みを浮かべると、深く深く頭を嗅げて彼女を見送った。