第二章 人間か、人魚か
10:二つのペンダント
胸を圧迫される息苦しさに、セリアはすぐに我に返った。と同時に、喉元をこみ上げてくる何かに、その勢いのまま吐き出す。
「ごほっ……!」
口の中は塩辛いし、変な味がした。喉の奥が焼けつくような痛みもある。
「大丈夫?」
気がつけば、サリムが小さな手でセリアの背中を撫でていた。セリアはわずかに頷きながら、何度も苦しそうにえずいた。
「ごめん、ありがとう……」
しばらくして、ようやく少し楽になると、セリアは顔を上げてた。が、すぐに険しい表情のカイルと目が合う。
「どうして俺たちの後を? もう少しで溺れるかも知れなかったんだよ。途中でサリムが気づかなかったら……」
「ご、ごめん」
セリアは咄嗟に顔をうつむけた。確かに、無謀な行動だった。闇雲に海に潜ったとして、二人を見つけられるわけがなかったのに。
「で、でも、カイルも酷いよ。私は別にこんなもの欲しくなかったのに!」
セリアは顔を上げないまま、ペンダントをカイルに突き返した。
もしこれを受け取ってしまったら、本当にただのゴンドラ漕ぎと客というだけの関係になってしまう。私は、ただ友達として手助けをしていただけのつもりだったのに。この一週間の出来事は、もう大切な思い出になっていたというのに。
「でも、お世話になったから、せめてもと思って――」
「私は、見返りが欲しくて二人のこと助けたわけじゃない! お金なんかいらない。私は……友達だと思ったから、二人のことを助けて――」
声がかすれ、途中で途切れてしまう。セリアは生唾を飲み込んで必死に声を押し出した。
「お金なんて、本当にいらないの。私たちは友達でしょ?」
まるで確認するかのように、セリアはそう口にした。
カイルは戸惑ったように視線をさまよわせた後、観念したように頭を垂れた。
「……ごめん。そうだね。悪かったよ。俺、自分のことしか考えてなかった」
沈痛な面持ちでカイルはそう口にする。対するセリアは、その時になったようやく現状を理解した。いくら頭に血が上ったからと言って、怒りのままに突っ走るなんて!
「あ、そ、その……。私の方こそごめん。突然怒って」
「いや、俺の方こそ……」
セリアとカイルは、どちらも顔を上げられないまま、黙り込む。ずっと端から見ていたサリムは、もどかしくてしようがなかった。
「お兄ちゃんがごめんね、お姉ちゃん」
水路の中を泳ぎ、サリムは真っ白いタイルに手をついた。二人の視線が彼に向けられる。
「お兄ちゃん、時々周りが見えずに突っ走っちゃうことあるから」
「さ、サリム……」
弟にそんなことを言われてしまえば、兄としての威厳が台無しである。カイルはすっかりしょぼくれた。
「これで仲直り……してくれる?」
サリムは水路から身を乗り出した。セリアはうっと言葉に詰まる。仲直りすること自体に異論はない。ただ少し……己の無鉄砲な講堂から来る恥じらいから、素直になれなかっただけだ。
カイルはコホンと小さく咳払いした後、セリアの前へと進み出た。
「ごめん。仲直りしよう。俺のこと、許してくれる?」
そう言ってカイルは右手を差し出した。セリアは慌てて頷く。
「私の方こそごめんね……。私も仲直りしたい」
セリアがおずおずとカイルの手を握れば、彼は強く握り返してきた。冷たい海の中を泳いできたお互いの手は、どちらも冷たい。だが、それでも心の中にはじんわりと温かさが広がってくるのを感じた。
一人でいた頃には、感じたことのない柔らかい感情だ。
セリアは気恥ずかしげに微笑んだ。が、すぐにセリアはカイルの手のひらに目を落とした。
「……それ、そのペンダント、カイルのものなの?」
「ああ、これのこと?」
カイルは嬉しそうにペンダントを右手に持ち替えた。
「これ、長から貰ったものなんだ。サリムも持ってるよ」
「うん! 家にずっと大切にしまってるよ」
「家に……」
ぼんやり呟きながら、セリアはカイルのペンダントに触れた。――深い藍色の石のペンダントだ。見れば見るほど吸い込まれそうな色合い。セリアは無意識のうちに自分の胸元に手をやる。
「私……これ持ってる」
「え?」
「持ってるの、私もこれを」
セリアは自分の襟元から手を突っ込むと、常日頃から身につけているペンダントを取り出した。
「ほらこれ。ちょっと形は違うけど、似てるでしょ? 不思議だね。私のこれは、お母さんの形見なの。お母さんがずっと大切にしてたものだって、お父さんから貰って……カイル?」
気がつけば、カイルが険しい表情でペンダントを見つめていた。思わずといった様子で手を伸ばし、ペンダントに触れる。
「同じものだ……確かに」
「もしかして、同じところで買ったのかもね」
セリアはなんとはなしに言ったが、カイルは聞いていなかった。難しい顔で黙り込んでいる。
「カイル……」
「カイル!」
その時、白い神殿内に、低い声が響きわったった。何度も反響する声に、セリアは反射的に背筋を伸ばした。
「ようやく帰ってきたのか。待ちくたびれたぞ」
「――隠して、早く!」
複数の足音とともに声が近づいてくる。
カイルは慌ててペンダントを押し戻した。セリアは戸惑ったが、促されるままに服の中に戻す。それとともに、カイルは彼女を隠すように自分の後ろに置いた。
足音は、次第に近づいてくる。やがて、曲がり角から一行が現れた。地面につくほどの長い上衣を羽織った男たちである。見たことのある服装に、セリアは目を瞬かせた。
彼らは、神に仕えている神官たちだ。いつもふんぞり返って町中を歩き、平民たちの間ではあまり評判はよくない。
神官たちはカイルたちの前で立ち止まると、腕を組んで二人を見下ろした。
「たかが弟一人連れ戻すのにどれだけの時間を費やすつもりだ。外には何も漏れていないのだろうな」
「……それが……神官長」
カイルのは歯切れは悪い。。
「人間の女子を一人、連れてきてしまいました」
そう言って、彼は横にずれる。ようやくセリアの姿が一行の前に現れた。彼女を見た途端、神官たちの顔が大きく歪む。
「なんてことを……! 子供を連れてきただと!?」
「彼女は……セリアは、俺たちのことを匿ってくれたんです。彼女がいなければ、俺たちはどうなっていたか……」
「どうなっていたかだと? そもそもお前がきちんとサリムを管理していればこんなことにはならなかったんだ!」
「すみませんでした! 今からすぐに彼女を地上に戻して――」
「ここを見られたからには帰すわけにはいかん! 来い!!」
神官の一人に、セリアは強く腕を引っ張られた。セリアはよろめいたが、すかさずカイルが彼女の腕をとって支える。
「待ってください! 彼女は他の人にここのことを話すような子じゃありません! 話せばきっと分かって――」
「ええい、うるさい! お前たちにも後で罰を下すからな! そこで大人しくしていろ!」
「お姉ちゃん!」
カイルとサリムの声が後ろから追いかけてくるが、神官の足が止まることはない。
セリアは、何が何だか分からなかった。ただ、自分の考えなしな行動のせいで、カイルたちに迷惑がかかってしまったことが申し訳なかった。
その感情のあまり、神官の行動には反抗しないが、彼に声をかけずにはいられなかった。
「あの……すみません、勝手に来てしまって。でも私、ここのことは他の人には絶対に言いません。人魚のことだって。……私、あの二人のことは、友達だと思って――」
「友達!? 何をほざいている!」
神官は一度立ち止まると、セリアの耳元で大きく叫んだ。
「人魚なんぞと人間が同列なものか! 忌々しい、そんなこと二度と口にするな!」
「で、でも」
「おい! 誰かおらんか!」
分厚い扉の前で、神官が大きく声を張り上げた。慌てたように中から男が出てくる。神官らしからぬ、衣服を崩して着ている男だ。
「はい……。何かご用で?」
「こやつを牢屋に閉じ込めておけ。処分はまた追って伝える」
「はあ。でも生憎ながら、牢屋は今一番小さいのしか――」
「何でも構わん! とにかく閉じ込めておけ」
「へえ」
適当に男は頭を下げた。セリアはさらに乱雑に彼に押しつけられる。神官はさっさと身を翻す。男に連れられたまま、セリアは地下へと続く階段を降りていった。
「お前、何やらかしたんだ? ここの子供じゃないだろう」
「え? えっと……」
「あいつらに目をつけられたらおしまいさ。この牢屋から出られた奴なんかいない」
階段が終わった。男は燭台に火をともし、慣れたように歩みを進める。
「相変わらずここは陰気くせえところだ」
二人は狭い地下牢を進んだ。その間、通り過ぎる数々の牢屋からは、うめき声が漂う。
男は、突き当たりを曲がったところで立ち止まった。目の前には、小さな牢屋があるのみだ。
ガチャガチャと男は牢屋の鍵を取り出した。さび付いた錠前は、なかなか開かない。
「ほうら、開いた。さっさと入るんだ」
「はい……」
セリアは、いまいち実感が湧かないまま、暗くじめっとした牢屋に自ら入った。埃っぽい臭いが一番に鼻についた。牢屋の中はかなり狭く、大人三人分ほどの広さしかない。
「ここでしばらく我慢しろよ。可哀想になあ。こんなに小さな子供が。ここは食事は日に一度きりだ。夕方にまた来るぜ」
そう言って、男はまた牢屋に鍵をかけて出て行った。セリアは小さく息を吐き出して、周りを見渡してみる。海の底であるせいか、窓もないのでひどく暗かった。時々ネズミがセリアの足下を横切っている。セリアの家も、古い家ではあるが、ここまではひどくない。
「…………」
とはいえ、セリアは別段落ち込んではいなかった。その日暮らしなので、仕事は毎日しなければならないわけでもないし、家に帰れないといっても、心配してくれる者など誰もいない。あの場所から突然セリアが消えても、もしかしたら気づく者すらいないのだ。
それを思うと、少しだけ虚しくもなる。だが――。
ここは、どうだろう。
暗くじめっとした地下牢。変な臭いはするし、お腹も空いた。でも、私のことを気にかけてくれる人がいる。今は会えないけど、この場所にいるんだ。
――一人じゃない。
その事実が、今のセリアをどれだけ幸福にしてくれるか。
きっと、そのことが分かる人はほとんどいないのだろう。