第二章 人間か、人魚か

11:悪くない牢屋生活


 食事は、本当に日に一度だけだった。パンとチーズだけの、これっぽっちの食事だったが、しかし、セリアはたったそれだけでも十分にありがたく感じた。何しろ、何の仕事もしていないのに、勝手に食事が出てくるのだから。むしろ、申し訳ない思いすらこみ上げてきた。牢屋でぼんやりしているだけなのに、こんな楽な暮らしをしていいものか、と。
 食事に水は出されなかったが、近くに水路が通っているため、不自由はしなかった。なぜこんなところに水路が、とは思ったものの、この神殿に人魚が暮らしていることを考えると、それも当然のことなのだろう。
 日も差さない地下牢では、時間の感覚が分からなかった。何日経ったのかさえも分からず、ただひたすらに暇だった。
 地上にいた頃は、お客以外ほとんど話さない日はざらにあったが、本当に誰とも話さない日なんてなかったのだ。
 日がな一日、セリアはずっとぼんやりしてばかりいた。ゴンドラ漕ぎをしていた時は、ただ毎日を生きるのに必死で、のんびりする暇もなかったのだ。牢屋の中でのんびり、というのもおかしな話だが、しかし、重たいゴンドラを漕ぐよりはずっと楽な日々なのだから、それもあながち間違いではない。
 セリアの体感で、数日過ぎた頃だろうか。パシャパシャと水をはねる音が、どこからともなく聞こえてきた。牢番は人間なので、いつもは足音が聞こえてきていたのだが。ふとその方へ顔を上げると、暗闇の中から、見覚えのある顔がぼんやり浮かび上がった。

「サリム! どうしてここに?」
「えへへ、こっそり侵入したんだー」

 水路から顔だけを出すサリムには、あまり悪びれた様子はない。セリアの顔に心配の色が浮かぶのも仕方がなかった。

「こっそりって……見つかったら大変なことになるんじゃないの? カイルはこのこと知ってるの?」
「うん、お兄ちゃんは今見張りをしてくれてるよ」
「カイルも!?」

 いよいよ、セリアは呆れるしかない。セリアはまだ部外者だから何とでもできるが、この二人は実際にこの場で暮らしているのだ。誰かに見つかって、もしも肩身の狭い思いをすることになったらと思うと、胸が締め付けられる。

「お姉ちゃん、ごめんね。こんなことになって」

 なおもセリアが苦言を口にしようとしたとき、サリムはしょんぼりとして言った。彼の様子に、セリアも臆され、それ以上何も言うことができない。

「あれから、僕たちも直談判してみたんだけど、聞き入れてくれなくて……。でも、なんとかしてみるから! 後もうちょっと待ってて!」
「う、うん、それは別にいいんだけど。でも、無理はしないでね? 私、ここの暮らしも悪くないかなって思い始めてるし」
「僕たちにまで気を遣わないでよ」

 心からの本心のつもりなのだが、なぜだかサリムは瞳をうるっと潤ませた。

「牢屋での暮らしは本当にひどいってことで有名だよ? 暗くてじめっとしてるし、ネズミだっている。食事だって日に一回しか出な言って聞いたけど」
「うん、確かにその通りなんだけど」

 セリアは苦笑して頷いた。確かにサリムの言うとおりなのだが、実際にその境遇に身をおいているセリアにとっては、そんなにひどい境遇には思えないのだ。ただ、それを口にすれば、さらに哀れみを買うだろうことは容易に想像がついたので、セリアはそれ以上何も言わなかった。

「あ、そうだ」

 思い出したとばかり声を上げると、パシャパシャと水をかき分け、サリムは一旦水路を戻った。何事かとセリアが黙って待っていると、彼はすぐに帰ってきた。

「これ、少ないけど食べて」

 そう言って彼が差し出したのは、パンとチーズ、それに干し魚である。セリアはぱっと喜色を浮かべた。

「ありがとう、サリム」
「ううん、きっとお腹空かせてるだろうからって、これだけでも持って行きたくて。また明日も持ってくるよ」
「いいの? 危なかったら、私のことは気にしなくても――」
「そんなわけにはいかないよ!」

 サリムの大声に、セリアはびくりと肩を揺らした。

「さ、サリム……」
「ごめんね、全部僕が悪いんだ。僕が黙って地上に行かなければ、お兄ちゃんもお姉ちゃんも、こんな事に巻き込まずにすんだのに」

 サリムは寂しそうにそう呟いた。セリアは胸がふさがれる思いだった。彼までそんなことを言うなんて!

「私がここまで来たのは、私の意思だよ」

 牢屋から手を伸ばし、セリアはサリムの手を取った。

「私の中で、もう少し二人と一緒にいたいって思いがあったから、思わずついてきちゃったんだと思う。だから、そんなこと言わないで」
「本当に?」

 サリムは伺うようにセリアを見上げた。セリアは大きく頷いた。

「うん、本当」

 えへへ、とサリムの顔にも元気が戻ってくる。
 元はといえば、ここに入れられたのは自分自身のせいなのだから、彼らが気に病むことはないのだと、セリアもほっと息をついた。

「サリム、そろそろ」

 曲がり角の奥から、カイルがひょこっと顔を出した。突然のことに一瞬面食らったが、セリアはすぐに笑顔を浮かべた。

「カイルも、今日は来てくれてありがとう」
「いや、これくらい。セリアが元気そうでよかったよ」
「うん。私は元気だよ。ここでの生活、結構気に入ってるんだ」
「セリア、そんなこと言って、俺たちに気を遣わなくても……」

 セリアの明るい声に、途端に申し訳なさそうな顔になるカイル。セリアは既視感を覚え、もう苦笑いしか出てこなかった。

「お姉ちゃん、僕たち、また明日来るからね。ちゃんとご飯も持ってくるし」
「それはありがたいけど、でも気をつけてね!」
「もちろんだよ!」

 サリムは水をかき分け、カイルのところまで一気に泳いだ。さすがは人魚である。水の中では誰よりも早い。

「じゃあ!」
「またね」

 カイルが大きく手を振ったのを合図に、セリアもまた大きく振り替えした。
 牢屋での生活も悪くはない。
 そのことに嘘偽りはなかったが、それでも、誰かが会いに来てくれるというのは、とてもとても嬉しいことだった。


*****


 サリムたちは、約束通り次の日も、そのまた次の日もやってきた。セリアとしては、いつ彼らが神官や看守に気づかれるか気が気でないにもかかわらず、当人たちは極めてケロッとしていて、なんとなく釈然としない。けれども、彼らが退屈な牢屋生活での話し相手になってくれることは大変ありがたく、危うくこんな生活もいいかもしれないと感じるくらいには、セリアの感覚が麻痺していた。

「今日も来てくれたんだね」
「うん、今日はトマトを持ってきたよ」
「わあ、トマトか」

 セリアは鉄格子の隙間から手を伸ばし、真っ赤なトマトを受け取った。そのまま大きく口を開けてかぶりつく。

「おいしい。久しぶりに食べたなあ」
「そうなの?」
「うん、だって野菜って高いもん」
「そうなの?」

 またもサリムは興味深げに聞き返した。神殿の下で隠れるようにして生活していれば、物価が分からなくなるのも当然だとセリアは大きく頷いた。

「ラド・マイムはうまく野菜が育たないんだよ。育てられるような土地もないし。大陸から輸入してはいるけど、数に限りがあるから、自然と高くなるんだ」
「そうなんだ……初めて聞いたよ」

 サリムは嬉しそうに笑った。そこには無知であることへの恥じらいはなく、純粋な好奇心のみである。

「僕ね、先生からいろいろ学んでるんだ、この国のこと」
「先生って?」
「ウェルナー先生! すっごく物知りで、今、先生から字も習ってるんだよ!」
「すごいね、その年で勉強を頑張ってるなんて」
「あ、今度お手紙書いてくるよ! もっと賢くなるには、積み重ねが一番って言われたんだ」
「あ……」

 嬉しそうにそう話すサリムとは裏腹に、セリアは申し訳なさそうな顔になった。

「ごめんね、サリム。私、字が読めないから、手紙を貰っても……」
「そうなの?」

 至極不思議そうに聞き返すサリムに、セリアは頷くのが辛かった。
 ラド・マイムでは、識字率はそんなに高くはない。セリアのような孤児ならば、字が読めなくても仕方のないことなのだが、しかし、サリムのような小さな子供までもが字を読めるという事実は、セリアを羞恥に追い詰めるには十分だった。

「じゃあさ、お姉ちゃんも今度僕と一緒に先生から字を教えて貰おうよ!」
「え!?」

 セリアの驚きも何のその、良いことを思いついたとばかり、サリムは目を輝かせた。

「ね、そうしようよ! ウェルナー先生、教えるの上手だから、きっとお姉ちゃんもすぐに字が読めるようになるよ」
「うーん……」

 そのウェルナー先生とやらから教えを請うには、まずこの牢屋からでなくてはいけないのだが、そんな根本的なことを、目の前のこの無邪気なサリムにいえるわけもない。

「うん……じゃあ楽しみにしておくね」

 セリアは、結局笑ってうなずいておくことにした。セリアの返事に、サリムはまた嬉しそうにへにゃっと笑った。

「えへへ。じゃあ今度はお兄ちゃんと交代してくるね」
「え?」

 セリアは驚いて聞き返そうとしたが、彼女の返事も待たずに、サリムはまた水路を泳いで曲がり角に姿を消した。
 今まで、カイルはずっと見張り役に徹するばかりで、ここに姿を現したことなどなかった。きっと、サリムが見張りをするということに若干の不安要素を抱いたのだろうが、その彼がここに来るとなると、何か事件でも起きたのだろうかとセリアは気が気でない。
 やがて、足音を忍ばせてカイルがやってきた。

「か、カイル。久しぶりだね」
「うん……」

 セリアは小さく手を振ってみたものの、カイルの表情は浮かない。なんとなく気まずくなって、セリアは右手を下ろした。

「どうしたの? 何かあった?」
「いや……そうじゃなくて」

 カイルは一瞬セリアを見て、また顔を逸らした。

「何か、不自由してることはない? 女の子が何日も牢屋に入れられるなんて……。せめて俺が代われたら良かったのに」
「本当に気にしなくていいんだって。私、ここでの生活も悪くはないなって思ってるし」

 もう何度目の会話だろう。カイルもいい加減吹っ切れればいいのに、とセリアは思わずにはいられない。

「じゃあ、何か欲しいものはない? 持ってくるから」
「特にないから大丈夫だよ。サリムがご飯も持ってきてくれるし、十分」
「そっか……」
「それよりも、私は二人が見つかっちゃうかもしれないことの方が不安だな。本当に大丈夫?」
「うん。この時間看守はいないことは最初の数日で把握したし、大丈夫だとは思うけど」

 何度も安全を確認するセリアに、カイルは困ったように笑った。だが、すぐに彼の表情が曇る。

「あのさ、セリア。いきなりだけど、君のお母さんの名前聞いていい?」
「え?」

 本当にいきなりだ、とセリアは目を瞬かせた。が、答えない理由はないので、すぐに頷く。

「マリーナ。お母さんの名前はマリーナだよ」
「…………」

 カイルは、ほうっと小さくため息をついた。セリアが不思議に思う間もなく、彼はいつもの笑顔に戻った。

「綺麗な名前だね」
「ありがとう」

 なんだかくすぐったいような気持ちだ。自分の名前を褒められたわけでもないのに、おかしいことだが。

「じゃあ、明日も来るからね」
「うん。いつも来てくれてありがとう」

 セリアは照れ笑いを浮かべ、手を振った。本当は、毎日彼らが来てくれて、すごく嬉しいのだ。牢屋の中はそれほど居心地悪くないとはいえ、退屈で、何もすることがないから。