第四章 自由か、服従か
36:自由か、服従か
水面に出ると共に、耳をつんざくような鐘の音が聞こえてきた。セリアとカイル、サリムは、思わず両手で耳を塞ぐ。すぐ近くから聞こえてくるその音は、神殿の鐘だった。
「何? これ」
「まずい、神殿に気づかれたんだよ」
カイルは口早に説明した。
「非常事態の時に神殿は鐘を鳴らすんだよ。前に一度、神殿に祭ってある神宝が盗まれたときにもこれが鳴ってた。多分、地下神殿がもぬけの身体って事に気づいたんじゃないかな」
「じゃあ、それなら早く水門に向かった方が良い。サリム、私たちは地上から行くからついてきて!」
セリアは歩道に上がり、息つく暇もなくかけだした。
今の神殿の目的は、人魚が大海へと逃げ出すことを防ぐために、一刻も早く水門を閉じることだろう。となると、それよりも先にサリムを逃がさなければ。
最短距離で走れば、おそらく水門の閉鎖に間に合わないこともない。だが、今は日中で一番人通りの多い時間帯だ。セリアとカイルは、すれ違う人の多さで、地上を走ることすらもどかしい思いになったし、買い物を終えた人々が、ゴンドラを呼ぼうと水路に目を向けたとき、サリムに目を止めることも多々あった。
「あの子、なんで海で泳いでるの?」
始めは、彼らもサリムをただの子供だと思っただろう。しかし、時折水面から飛び出る尾ひれに、彼らは次第に理解していく。
「人魚……!?」
「人魚だ、お母さん、人魚だ!」
「どうして人魚がここに……?」
運河近くの歩道には、いつの間にか人だかりができていた。物珍しげに押し寄せる人間の波をかき分け、セリアとカイルは懸命に走り続ける。
「おい、その人魚を捕まえろ! 見世物に出したら大もうけだぜ!」
不意に誰かが叫んだ。あっと思って運河に目を走らせれば、ゴンドラ漕ぎの屈強な男達が、サリムを捕まえようと動き出している最中だった。カッとセリアの頭に血がのぼる。彼女はカイルに音貝を押しつけると、すぐに運河に飛び出した。
「うわあっ!」
サリムを捕まえようと手を伸ばしていた男は、セリアの突進に均衡を崩し、運河にひっくり返る。
「何すんだこのガキ!」
「サリム! 下を潜っていって!」
セリアは男のゴンドラをうまく操り、後続のゴンドラを通せんぼした。
「邪魔だ! 退け!」
ずぶ濡れの男が、ゴンドラに上がろうと片側から這い上がる。用は済んだとばかり、セリアはすぐにまたゴンドラの上を走り、歩道へ戻った。
意図していたわけではないが、ゴンドラは、男の体重を支えきれず、その場でひっくり返る。男は再び海の中に沈んだ。
「サリムー、どこ!?」
「ここだよ!」
ゴンドラ集団のずっと先で、サリムが小さく手を挙げた。
「サリム、その先を右に!」
「うん!」
「くそっ、追いかけろ!」
男達は、ゴンドラを放棄し、地上へ上がり始めた。負けるものかと、セリアとカイルもサリムの後を追う。
「サリム、左曲がって!」
「くそ、小賢しい!」
サリムは、必ずセリア達よりも数メートル先だって泳いでいたため、男達に捕まることはなかった。
ひとたび海に放たれた人魚を甘く見てはいけない。サリムは、大人の男が走るよりもずっと早く、海を泳いでいるのだ。
「頑張ってえ!」
いつの間にか、辺りからは声援が響いていた。セリア達を応援しているのか、それとも人魚を捕まえようとしている男達の方なのか。それは定かではない。
「もうすぐ――その先を左に曲がれば水門!」
セリアは力の限り叫んだ。サリムは返事をしなかったが、今まで以上に速度を上げたのが見えた。
――水門は、まだ開いていた。その光景を見たとき、セリアは思わず感極まってその場に倒れ込みそうになるところだった。だが、その興奮も一瞬のうちに冷え切る。水門の上で、二人の神官が、両側からハンドルを回しているのが見えたからだ。彼らの動きに合わせ、水門は徐々に距離を狭めていく。
「待ってえっ!」
無理だと分かっていても、あり得ないと重々承知していても、セリアは叫ばずにはいられなかった。
ここまで来たのに。後は、サリム一人が還るだけなのに。
「サリム……」
絶望の声を上げて、隣のカイルが走るのを止めたことにセリアは気づいた。だが、彼女の足は止まらない。
「お願い、止めて! サリムが、後はサリム一人なのに!」
だが、時は無情だ。どうしたってもうサリムは水門に追いつけない。
足がもつれ、セリアはすんでの所でその場に留まったが、そこから再度走り出す元気はなかった。
――もう駄目なのか。
セリアは悲愴な顔で水門を見つめた。水門の隙間は、もうあんなに小さい――。
「あれ……?」
しかし、すぐに違和感に気づいた。走っているときは気づかなかったが、水門が止まっているように見えたのだ。目を凝らしてみても、その光景は変わらない。水門は、わずかな隙間を残したまま、完全に止まってしまったのだ。
「な――」
驚きにセリアが固まれば、絶望で何も見えなくなっていた視界に、その光景が鮮明に映る。
「サリム、早く来い!」
「サリム!」
「皆で行くんだろ!」
皆が――人魚達が、必死になって水門を抑えていた。海の向こうから、水門が閉じるのを精一杯阻止しようとしているのだ。
「うわっ、なんだ一体――止めろ!」
突然の悲鳴に、セリアが顔を上げれば、水門の上で、男達が蹲っていた。民衆が彼らに向かって、数メートル下から、手当たり次第持ち物を投げつけていたのだ。
「止めてやれよ!」
「人魚いじめちゃ可哀想でしょ!」
「一人だけあぶり出すなんて、何て酷い人たち!」
「止めろ、クソッ! 元はといえば、神殿から逃げ出したあいつらが悪いんだぞ!」
「うるさい! 神聖な人魚に何してるんだ!」
水門の上と下で、口論が始まった。しまいには、血気盛んな下の男が、水門の上までよじ登り、神官と取っ組み合いをやる始末。水門の動きは、完全に止まっていた。
「皆!」
サリムが水門に到着する。
「皆、ありがとう! 心配かけてごめんなさい!」
「本当だよ……。間に合わなかったらどうしようかと」
サリムを中央に、人魚達が抱き合う。その光景は、なんとも神秘的で、人魚見たさに集まっていた野次馬の中には、思わずほろりと涙を流す者もいた。
「サリム、サリム!」
カイルは転がるようにして運河に飛び込んだ。拙く海をかき分け、ようやく弟の元に到着する。
「本当に心配かけて。もうお前の我が儘なんか聞かないからな」
「うん……ごめんね」
泣き笑いの表情でサリムが謝る。カイルはすんと鼻をすすり、それを誤魔化すように音貝を差し出した。
「これ、父さんと母さんのな。無くすんじゃないぞ。無くしても、もう探しに行ってやれないからな」
カイルの声は涙声だった。鼻声でサリムも笑う。
「お兄ちゃんの方こそ。僕がいなくなっても泣かないでね?」
「誰が泣くか」
再び水門が動き出した。神官が、男との取っ組み合いに勝利したのだ。
「お兄ちゃん……これ、受け取って」
徐々に水門が閉じていく。その小さな隙間から、サリムは必死に手を伸ばした。
「な、なんだよ」
「僕の鱗。なんだかんだ言って、お兄ちゃんには渡してなかったから」
「こ、こんなのいらない……。何だよ、まるでもう会えないみたいな言い方……」
「そんなつもりじゃないんだけど。でも、お兄ちゃんに持ってて欲しくて」
無理矢理サリムはカイルの手に鱗を押しつける。もう顔すら見えなかった。
「サリム……」
「お兄ちゃん、元気で。僕がいなくても、うまくやってね?」
「お、お前の方こそ……」
尻すぼみにカイルの声が消えていく。やがて、水門は完全に閉じられた。
しばらく、その場の誰も動かなかった。ここ一連の出来事が、あっという間にめまぐるしく目の前で過ぎ去り、頭の中で整理するのに時間がかかったのだ。ある者は近場で人魚が見れたことを興奮して話し、ある者は人魚が突如群れとなって現れたことに疑問を口にし。その場は、静まることを知らなかった。
一方で、カイルも海を漂ったまま、水門の前から動かなかった。セリアは、自身も運河に飛び込み、彼の元へ行く。
「カイル……」
カイルは僅かに身動きした。聞こえていないわけではないらしい。
「皆、ようやく還れたんだね。本当の故郷に」
だが、返事はない。セリアは構わず話しかけた。
「エンリカさん達――神殿に残してきた人たちも助けなきゃね。地下神殿の人たちの衣食住も用意しなきゃだし。仕事を探したり、住居を探したり」
一呼吸置いて、セリアはカイルの肩に手を置いた。
「ねえ、カイル。私たちにはまだまだすることがたくさんあるよ? サリム達人魚は海に皆還っちゃったけど、私たちは、ラド・マイムで生きていかないといけない。だから行かなくちゃ」
しばらくして、カイルは動いた。外海からの新鮮な海水をすくい、顔を洗う。何度か繰り返した後、彼はスッキリした面持ちで顔を上げた。
「――行こうか」
「うん、そうこなくっちゃ。大丈夫、全部良くなる」
セリアには確信があった。サリム達は絶対に幸せになるし、もちろん自分たちも。その無垢なまでに純粋な確信は、セリアが今まで自分の奥底に潜ませていた人間らしい感覚の一つだった。