第四章 自由か、服従か

33:計画始動


 セリアは、待ち合わせ場所にゴンドラを滞留させ、仲間達がやってくるのを待った。大きな円柱型の神殿の周囲には、ぐるりと大きな運河が走っているが、その南方が待ち合わせ場所だ。
 南側には、住居が建ち並んでいるだけなので、それほど人通りはない。セリアは、時折揺らめく水面をじっと見つめ、その時を待っていた。

「セリア」

 不意に大きく水面が動いたと思ったら、そこからすうっと女性が顔を出した。

「あっ、こ、こんにちは」
「話は聞いてるわ。私たちのために、あなたがいろいろ動いてくれたこと。本当に感謝してる。ありがとう」
「い、いえ、そんな」

 セリアがしたくてやったことだ。それに、両親の一件もあるので、素直に感謝を受けることはできなかった。

「ここは目立ちます。もう少し先に行きましょう」
「分かったわ」

 セリアは、ゆっくりゴンドラを動かした。時折後ろに目を走らせながら、裏通りの入り組んだ水路へと入っていく。
 本当に仲間達がついてきているのか、セリアは内心不安だった。顔を見たのは先ほどの彼女一人きりだったし、今も水面は静かなままだ。水面の下では、たくさんの人魚が泳いでいるのだろうが、この目で見るまではどうにも信じ切れない。
 やがて、最初の休憩地にたどり着いた。ここで人間達と別れる段取りになっている。岸にゴンドラを止め、様子を窺っていると、一人、また一人と人魚が浮上した。彼女たちの肩には、しっかり人間が掴まっている。

「きっつー。肺があっても、もう少しで溺れ死ぬ所だった」
「静かに。人間達に気づかれるでしょう」

 互いを諫めながら、人魚は人間が地上に上がれるよう、補助していた。
 いくら滅多に人が来ない場所とは言え、セリアの方は気が気でなかった。ゴンドラ一艘と、水に濡れた大勢の人間達。運良く人魚の姿を見られなかったとしても、不審に思って衛兵に通報されるかもしれないのだ。急ぐに越したことはない。

「ウェルナー先生!」

 すぐ側で浮かび上がった人魚の姿に、セリアは明るい声を上げた。

「あれから大丈夫でした? 私のせいで、酷い罰を受けませんでしたか?」
「老体の身ですからね。向こうの方から遠慮して頂きました」
「良かった……。あれから心配で。カイルも大丈夫ですか?」

 セリアはキョロキョロ辺りを見渡す。まだ海から上がっていないのか、彼の姿はない。

「はい。謹慎処分と、いくつか罰則を受けていましたが、ピンピンしていますよ」
「そうですか……」

 頷きつつも、セリアはカイルの姿を探すことを止めない。この目で無事な姿を見るまでは、安心できなかった。
 だが、彼はなかなか見つからない。それどころか、海にはサリムの姿もなかった。

「先生、カイルとサリムは?」
「いませんか? 後ろの方からついてきていると思っていましたが」
「カイル?」

 やがて、他の者にもこの事態が知れ渡った。人間は岸に、人魚は海に皆集まっているのに、カイルとサリムだけがそのどちらにもいない。

「もしかして、はぐれた!?」
「いや、ちょっと待って」

 ざわめく人魚達を、一人の女性が静めた。

「あの子達、もしかして音貝を取りに行ったんじゃない? ほら、ついこの間、カイル、音貝を没収されてたじゃない」
「そういえば……」

 何のことか分からないセリアに、ウェルナーが早口で説明した。
 楽会に忍び込んだ罰として、カイルは謹慎処分と、両親の音貝を両方とも没収されたらしいのだ。

「地上へ行った罰として、サリムも没収されたばかりでしょ? もしかしたらと思って……」

 互いに顔を見合わせ、彼らは同時にため息をついた。

「あいつらなら、あり得るな……」
「おかしいと思ってたんだよ。カイルの奴、自力で泳ぐって言って、ゴーグルとヒレ持って行っただろ? 前々から計画してたんじゃないか?」
「本当、困った兄弟だ」

 その言葉を川霧に、皆が黙り込んだ。どうすべきか、考えあぐねているのだ。他の人魚をかき分け、ウェルナーが前に出た。

「私が探してきます。こう見えて、私はあの子達の親代わりですから。あの子達はしっかり私が面倒を見ます。皆さんは先に行ってください」
「駄目ですよ! 先生、ただでさえヒレの調子が良くないのに。水門への道のりは長いんです。また神殿まで行って帰ってきてたら、途中でくたばっちまうこと間違いなしですよ。だからここは俺が――」
「じゃあ私だって迎えに行くわよ! 二人のことは、自分の子供のように思ってるんだから!」

 やいのやいの口論が始まり、埒があかなくなる。そんな中、セリアは躊躇うことなく顔を上げた。

「先に行きましょう」

 セリアの断固とした声に、皆が息をのんだ。

「カイル達も、それを望んでます。自分たちのせいで計画が台無しになったら、それこそ後悔してもしきれないでしょう。そうですよね?」

 セリアはゆっくり仲間達を見回した。彼らが仲間のことを第一に思っているのは分かる。だからこそ、あの兄弟の気持ちも分かるのではないか。

「――分かった。お前達は行ってくれ」

 一番始めに、男が頷いた。

「その代わり、残ってる皆の中で、尾ひれと肺を持ってる人はいるか? 俺に貸してくれ。俺が二人を探してくる」
「俺も行こう」
「私も行くわ」

 人間達の中で、次々に声が上がる。尾ひれはいくつか残っていたが、肺はたったの二つしかなかった。まだ元気の残っている男二人が任を負った。

「皆さんを水門まで案内したら、私も急いでこっちに戻ってきます。合流場所は、ここでいいですか?」

 案内がなければ、おそらくこの入り組んだラド・マイムを移動することはできない。歯がゆいが、地図だけではおそらく彼らは迷子になってしまう。

「分かった。ここで落ち合おう」

 二人の男は、すぐに海へ潜った。すぐに水面が元の静けさを取り戻す。

「皆さんは、すぐそこの家に隠れていてください。鍵はこれです」

 ずぶ濡れの人間なんて、目立つことこの上ない。彼らを隠すために、地上の仲間の一人が、あらかじめ空き家を借りていたのだ。
 セリアは手前にいた女性に鍵を渡すと、ヒレと肺とを装着して、静かに海に飛び込んだ。先導しなければならないので、自力で泳ぐ必要があるのだ。

「じゃあ……またね、皆」
「元気で」
「海でもしっかりやれよ」

 状況が状況なだけに、充分なお別れの時間もとれない。
 皆は軽く言葉を交わすだけで、すぐに別れた。海深く潜るセリアの後に続いて、人魚達も一列になって後を追う。
 ――人魚達の涙は、海に溶けてすぐ消える。でもこの日は、この一瞬は、きっと一生忘れることはできないだろうとセリアは思った。