第三章 動くか、否か
32:海が繋がるとき
計画は着実に進んでいった。オスカーが事細かく調べていた経路――水の中を、セリアが再度調べた結果、そのほとんどが、今の時期、地面と水面との間に隙間が空いていることが分かった。オスカーによる、この時期の例年の水位からみても、充分呼吸ができる空間はあり、思っていた以上に最短距離で水門に行けること予測された。
ゴーグルも、人数分とまではいかないが、それなりの数は用意できた。女子供を重点的に装着させれば問題はないだろう。
ゴーグルは、地上と地下神殿との連絡役を担っている者にも重宝された。彼はいつも、必死に目を瞑りながら神殿の壁を伝って海の底に降り、格子の隙間から、瓶に詰めた計画書を投げていたので、不便を感じていたのだ。海の中で目を開けるわけにはいかないが、しかし、開けないことには格子へ瓶を投げ入れることもできない。そんなこともあって、連絡役の男にセリアは大変感謝され、他にも水辺の人魚との連絡や、オスカーが調査した情報なども相まって、ようやく彼女は地上の仲間達に迎え入れられた。
とはいえ、徹底して話を詰めているうちに、もう計画の日は目前に迫っていた。
前日、セリアとエンリカは、銭湯に来ていた。計画は完璧で、もう話し合うこともなく、他にすることもないので、銭湯に行くかという話になったのだ。。
いつものように、エンリカは水風呂に浸かり、セリアは普通の温かい風呂に浸かった。互いに浴槽の縁に両腕を置き、そこに顎を置く。
「ああ、良い気持ちだねえ」
「ですね」
風呂に浸かっている女性達は、入れ替わり立ち替わり上がっていくが、セリア達はなかなか動こうとしなかった。それぞれ、明日のことに思いを馳せていると、動くに動けなかったからだ。
「エンリカさん、全部終わったらどうするんですか?」
セリアはふと聞いてみた。
「どうするって?」
「その……全部終わったら、もう皆で会うこともなくなるのかなって。これからは、エンリカさんがしたいことをしていくのかなって」
言いながら、セリアはどんどん視線を下げていく。
要するに、セリアは不安だった。計画が終われば、皆との繋がりがなくなってしまうような気がして。エンリカにはエンリカの人生があるわけだし、いつもいつも家に押しかけるわけにはいかない。それに、押しかける理由もないのだ。セリアは再び独りぼっちになり、ゴンドラ漕ぎの仕事に精を出す毎日に戻るのだ。ただ元に戻るだけなのに、今のセリアには、そのことがひどく苦痛に思えた。
「どう、しようかねえ。今まで自分のしたいことなんて考えたことなかったから」
エンリカは深々と息を吐き出した。
「ずっと、仲間達に申し訳なく思ってたんだ。あたし、身体が弱かったから地上に出されたんだけど、そのことが酷く後ろめたく思えてね。妹を置いて一人だけ自由になったことも申し訳なくて。だから、地上に出たからには、地下の皆のために何かできることをしようって、計画の一員になったよ。それからはずっとがむしゃらだったね……」
エンリカは身体を動かし、縁を背にもたれかかった。
「仕事も一応してるんだけどさ、全部利便性を考慮してだった。神殿に怪しまれず、仲間達にすぐに連絡が取れて、情報も得やすい仕事。だから、もともとしたい仕事でもなかったし、でも、愛着はあるしで、今更辞められないけど」
エンリカは乾いた笑いを漏らした。
「地下にいた頃はさ、結婚に憧れてたんだよ。好きな人と結婚して、子供を産んで。……でも、やっぱり無理かもね。この身体じゃ」
「ど、どこか悪いんですか?」
「ああ、いや、そういうわけじゃなくて。人間と人魚の混血には、時々五体満足で生まれてこない子もいるんだよ。どこか身体に不具合があったり、身体の弱い子が生まれてきたり。そういうことに理解のある男性となら、結婚も良いかなって思うけど、でも、もし自分の子供を健康に産んでやれなかったら、悔やんでも悔やみきれないよね。それに、その子供にも同じ悩みを与えることになるし」
長々と語った後、エンリカは疲れたようにそこで話を切った。セリアが沈痛な面持ちをしていることに気がつくと、わざと明るい声を出した。
「ごめんね、こんな話して。話をしてどうにかなる問題でもないのに」
「エンリカさん……」
セリアは、何も答えられなかった。しばらく頭を悩ませた後、彼女はゆっくり口を開く。
「……私は、人魚の血筋に生まれたことは一度も後悔してません」
長い時を経て、ようやく考えが整理できたのだ。
「むしろ、嬉しかったんです。お父さんとお母さんが死んじゃって、私は独りぼっちだってずっと思ってたけど、地下神殿に行って、たくさんの仲間に出会えて、友達もできて、エンリカさんとも会えて。こんなに嬉しいことはありませんでした」
セリアは、訴えかけるようにしてエンリカを見る。
「私も、子供は健康に産んであげたい。でも、もしその望みが叶えられなかったとしても、その子は一人じゃないです。皆がいるじゃないですか。皆で支え合えますよ。離れていても、仲間じゃないですか」
それはきっと、セリア自身が望んでいること。
人魚達とは違い、地上の仲間達は、計画が終わった後、きっと離ればなれになるだろう。それぞれの人生を歩むことになるだろう。会う機会だって、今までに比べればぐんと減るはず。それでも、一人ではないのだ。
エンリカを真っ直ぐ見つめれば、彼女は困惑したようにポカンと口を開けていた。やがて、しばらくして我に返ると、今度はせきを切ったように笑い出す。
「そうだよね! 不幸かどうかはその子自身が決めることだし、だからって、自分が不幸だなんて、あたしが言わせない。簡単な話だったね」
ひとしきり笑うと、エンリカはようやく落ち着いた。眩しそうな表情で、セリアを眺める。
「強くなったね。びっくりしたよ」
「す、すみません……」
「なんで謝んの」
思わずセリアが謝れば、エンリカはまた笑った。が、今度は長続きせず、彼女は浴槽から立ち上がった。
「上がろう。おかげで頭もスッキリした」
*****
いよいよ、水門が開く日がやってきた。
年に一度きり、この日だけを待ち望んでいた。
「皆さん、どうかお気をつけて」
「あんたの方こそな」
一度会合の場所へ集まったが、一人、また一人と神殿へ向かっていった。訝しがられないよう、時間をずらしていくのだ。最後に残ったのはエンリカだった。
「皆をよろしく頼んだよ」
セリアの頭に手を乗せ、彼女は笑った。それと同時に、どこからか大きな鐘の音が鳴り響いた。――水門が開いた合図である。
「行こうか」
エンリカは静かに言った。
「海が繋がった」