第三章 動くか、否か

31:水辺の人魚


 深夜になり、セリアは部屋を抜け出した。幸いなことに、女性の漕ぎ手は一人しかおらず、一人部屋だったのが幸いした。
 神殿内に、人気はなかった。外からの侵入者は警戒していても、中から悪いことをもくろむ輩は警戒していないらしい。水辺の扉にも鍵はかかっていなかった。セリアは容易に中へ忍び込むことができた。
 水辺の照明はほとんど落とされていたが、僅かに明かりが残っている場所があり、セリアは釣られてそちらに足を向けた。
 僅かな照明は、人魚達を照らしていた。一カ所で檻の中に閉じ込めている彼女たちを。
 窮屈そうには見えなかった。一人一人休む場所が与えられ、ゆっくりそこに身体を横たえることもできる。しかし、檻という精神的なものがいつも目の前にあるのはきつい。地下神殿にはそんなことはなかったのに、ここはどうして。

「来たのね」

 人魚は一斉に顔を上げた。全員起きていたようだ。

「あなた、誰なの? 地上で暮らしてるの? ゴンドラ漕ぎってすごいわね」

 矢継ぎ早に質問される。セリアはとりあえず頷いた。

「セリアって言います。ゴンドラ漕ぎの仕事をしているので、皆さんに計画を伝える役目をもらいました」
「そう、セリアね。私はアデレードよ」
「はい、よろしくお願いします。――あの、それで」

 セリアは不安だった。手紙を全て読み、その内容に賛同するのなら、今日接触を図ったあの時に、一言行くと行ってくれれば、それで充分だったのに、どうしてまた話したいと言ったのか。何か質問があったのか、それとも――。

「私たち、行かないわ。ここに残る」

 セリアは一瞬ポカンと口を開けた。だが、次の瞬間には我に返り、身を乗り出した。

「ど、どうしてですか?」
「私たちはここが気に入ってるの。水は綺麗だし、おいしいものは食べられるし、何より、皆がちやほやしてくれる」

 アデレードは、真っ白い腕を伸ばした。その腕には、小さな宝石のブレスレットがぐるりと囲ってある。水や照明の反射にきらめいて、とても綺麗だ。
 だが、このままではいけない。何とか彼女の考えを変えなければと、セリアは力説した。

「でも、皆が逃げた後、あなたたちだけがまだ残ってたら、酷い目に遭うかも」
「じゃあ皆も逃げなけりゃいいじゃなーい」

 アデレードは歌うように言った。髪を右肩に流し、撫でるように梳かす。

「なんで今のままじゃいけないのよ? 今のままなら、食べ物にも困らないし、命の危険もない。良いことづくめよ」
「でも、自由はない」

 小さな声でセリアが付け足せば、アデレードは一瞬言葉に詰まった。そしてすぐ、矢継ぎ早にまくし立てる。

「じゃあどうすれば良いってのよ! 逃げられっこない、どうせ逃げても捕まえられてまたお仕置きされるに決まってる! どうせ酷い目に遭うんなら、今のままでいいじゃない! 自由なんかなくたって、私たちは、今のままで――」

 アデレードは、顔を覆った。他の人魚が彼女の元に集まり、その頭を撫でる。

「……アデレード」
「海に行ってみたい……」

 アデレードがポツリと呟いた。

「ここは本当の場所じゃないって私には分かるの。全然楽しくないの。もっと自由に泳ぎたい。なんでここはこんなに浅くて狭いの? 単調だし、何もない。楽しくない」

 己の腕で、アデレードは自分の身体を抱き締めた。

「本でしか読んだことのない海――私、ずっと熱望していたの。どんなところだろうって。読めば読むほど、空想的だったし、一生縁がないかもって思ってた。でも、行けるものなら、私だって行きたい。こんな所になんかいたくない。でも怖い」

 両腕で己の身体をかき抱く彼女に、セリアはなんと声をかければ良いか分からなかった。
 お仕置きとは何だろう。もしかして、彼女たちは地下神殿にいるよりも酷い目になっているのだろうか。

「ご、ごめんね、私、気づかなくて――」

 声が詰まる。
 彼女たちだって、海へ還りたいのだ。でも、本当に逃げられるかも分からない僅かな希望に縋るよりは、目の前に横たわる安寧にたゆたっていた方がずっと楽。
 行きたいけど、行きたくない。
 一緒に行こうと、そう背中を押してもらいたいがために、彼女達は今日セリアをここへ呼んだのではないか。
 何て言葉をかければ良いんだろう。背中を押さないといけないのに――。

「まだ起きているのか?」

 神官の声が静寂を切り裂いた。セリアはゆっくりと、しかしできるだけ急いで暗がりに駆け込んだ。神官は姿を現さず、入り口で声だけかけた。

「明日は早い。早く寝ろ」

 ゆっくりと足音が遠ざかっていく。そろそろ帰らなければ、とセリアは人魚達に向き直った。

「また……明日も来るから」

 催しは二日続く。せめて、その間に彼女たちの気が変わればと思ってのことだ。
 セリアはすぐに身を翻したが、人魚達からの返事は返ってこなかった。


*****


 朝早くに、セリア達漕ぎ手は水辺に集まった。神官達から今日の段取りを聞いているうちに、客人もちらほら入ってくる。セリアは、二人の女性を受け持つことになった。
 やはり、人魚の催しに参加できるだけの金を払えるは貴族が多いのか、客人は皆、様相も立ち居振る舞いも貴族然としていた。
 ゴンドラの調整をしているセリアの前に、令嬢が立った。

「見違えたじゃない。初めて会ったときは、濡れ鼠にしか見えなかったけど」
「え?」

 私に声をかけたのか、とセリアは困惑しながら顔を上げた。一瞬誰か分からなかったものの、彼女の顔に、すぐに記憶が蘇った。

「あ、あの時の……」
「そうよ。あなた、神殿の漕ぎ手に選ばれるくらいの実力だったのね。知らなかったわ」

 令嬢は、いつかセリアが乗せたゴンドラの客だった。あの時は高慢な女性だと思ったものだか、今思い返してみれば、可愛いものかもしれない。それに、彼女がくれた金貨と銀貨はとても役に立った。あのおかげで、サリム達にひもじい思いをさせることなく、ゴーグルまで作ることができたのだ。
 ――カイル達、元気かな。
 思わず遠い目になるセリアを現実に引き戻すのは目の前の令嬢である。

「ちょっと、聞いてる? 昇進でもしたの?」
「昇進? まあ、そんなところです」

 セリアは照れ笑いを浮かべた。
 かつての生活を思えば、大した昇進だろう。友人もおらず、立った独りぼっちでその日暮らしをするだけだったのに、今は友達も、仲間もいて、そして何より、目指すべき目標がある。
 セリアのゴンドラは、二人の女性を乗せて緩やかに出発した。ゴンドラの合間を縫って、人魚が泳ぐ様に、彼女たちははしゃいだ声を上げる。
 人魚は、精一杯客人達をもてなした。歌を歌ったり、水の中に飛び込んだり、時には身体に触れさせたりもしている。
 彼女たちが喜んでやっているのかは分からない。いや、もしかしたら、そうでないのかもしれない。誰だって、まるで飼われた動物のように見世物にされるのは嫌なはずだ。

「人魚がこんなに近くに来てくれるなんて、とっても嬉しいわ」

 ゴンドラの周りに人魚が集まってきた。いつの間にか、人魚の群れの中に入っていたのだ。彼女たちは、まるで遊ぶように女性客に向かって水をかけた。

「ちょっ――何をするのよ、この人魚!」

 だが、彼女たちの予想とは裏腹に、女性客達は喜ばなかったらしい。水に濡れたドレスを必死になってはたく。

「最悪。折角のドレスが濡れたじゃないのよ。躾がなってないんじゃない、躾が! 戻ったら神官に抗議してやるわ!」

 プンプン怒りながら、令嬢は垂れた髪を払いのけた。

「全くもう、あなたといたら水難ばかり起こるわ」
「はあ……すみません」

 困ったように笑いながら、セリアはゴンドラを止め、しゃがんだ。水と一緒に、彼女の足下に何かが落ちてきたのだ。

「……?」

 光に反射するそれは、鱗だった。顔を上げれば、こちらを黙って見つめているアデレードと目が合った。

「…………」

 目を凝らして見なければ分からないほど微かに笑みを浮かべると、アデレードは水の中に潜った。その際、また水が跳ね、女性達がきゃあきゃあ声を上げる。
 エンリカから聞き及んでいた。人魚の鱗は、信頼や親愛の証だと。その派生から、契りにも用いられるのだと。

「ありがとう……」

 鱗を胸に抱え、セリアは口の中で呟いた。
 絶対に皆を海に還す――。
 改めて、セリアはそう心の内に決意した。