第三章 動くか、否か
30:神殿の漕ぎ手
珍しく、今日の神殿は民間に大きく開かれていた。とはいっても、中には入れるのは、ゴンドラ漕ぎだけであり、その中でも、神殿が募集する水辺での漕ぎ手として、応募する気のある者だけだ。
漕ぎ手は、例年以上に集まった。神殿に採用されるのは非常に名誉なことだったし、何より一番近くで人魚を見ることができるのだ。応募しないわけがない。
神官達は、漕ぎ手達よりも一段高くなった壇上で、彼らをぐるりと見渡した。五十をゆうに越える男達の群れ、そして彼らの纏う海の臭いに、神官達は反射的に顔を顰める。ゴンドラ漕ぎは、四六時中海の上にいるので、その異臭が、まるで体臭のように身体に染みついてしまっているのだ。湯船に浸かり、しっかりと身体を洗えばそんなこともないだろうが、その金や時間が惜しかったり、単に面倒だったり、無頓着な者も多いのだ。
清潔、高潔をいつも念頭に置いている神官からしてみれば、とんでもない話である。だからこそ、漕ぎ手の純粋な実力から鑑み、選出した後は、人前に出せる格好にするため磨き上げるのだ。湯浴みをさせ、髭を剃らせ、格好を整えさせ。何もかも神殿側が面倒を見て初めて、彼らはゴンドラの漕ぎ手として水辺に赴くことができるのだ。
神官長は、顔をしかめたまま、大きく口を開いた。
「では、今からお主らの実力の程を見させてもらう! 速やかに神殿の外の運河に移動するよう!」
男達は、互いに顔を見合わせ、ぞろぞろと移動始めた。折角神殿の中には入れたというのに、これといった話もなく、すぐに外に出されるのだ。何のために神殿まで来たというのか。
そんな様を見ながら、神官長は思わずと言った様子でため息をついた。
「筋骨隆々のむさ苦しい男ばっかりで、盛り上がるわけがない。どうしてこうも男臭い連中だらけなんだ?」
「そりゃあ……」
下っ端の神官が愛想笑いを浮かべる。
「ゴンドラ漕ぎなんて、女は嫌がりますからね。身体中に臭いが染みつきますし。それに、あの細腕じゃ男みたいに楽々漕げないでしょう。相当な訓練が必要なはずです」
「だとしてもなあ……こう、華やかさがない。今回は、令嬢が多く出席するのだろう? 我が儘や文句を言われないかどうか――」
神官長の言葉が途切れる。神官は、訝しげに顔を上げた。
「どうなさったんです?」
「……あれだ。あの子だ。あの子を連れてこい」
一点を見つめたまま、神官長が指さすのは、男達の群れ。神官が目を凝らせば、その群れの中で、小さな身体を縮こまらせている少女がいた。
「漕ぎ手の中に、あんな女子がおったのか?」
「昨年はいませんでしたがね」
「連れてこい」
「えっ? ですが――」
実力もまだ見ていないのにここへ連れてくるのか。
そんな思いを言わずとも察したのか、神官長はうんうん頷いた。
「分かっておる。が、この際実力は二の次よ。年若い女子の方が話題になるに決まっておる」
「はあ……」
こうまで言われたら、もう苦言を呈するのも面倒で、神官は壇上から降りて少女を連れてきた。
少女は、まだ成人にも満たない年頃だった。肩の上で切りそろえた髪は、他の漕ぎ手のように潮でベタベタしていない。男臭さはもちろん、異臭もなく、むしろ清潔感すらあった。身につけている服も小綺麗なもので、好感を持った。
彼女は、おずおずといった動作で、神官長の前で頭を下げた。
「名は何という?」
「セリーナと申します」
「そうかそうか。年はいくつだ?」
「十五です」
まるで、久しぶりに会う孫と祖父のよう。
そう思った神官は、横やりを入れた。
「お前、本当にゴンドラ漕ぎか? 冷やかしに応募したのではなく?」
「いいえ、決してそんなことは!」
セリーナは焦ったように首を振った。
「あの、私は力がないので、ゴンドラには一人か二人しか乗せられません。でも、三年間ずっとゴンドラを漕いできたので、頑張れ……頑張ります」
拙いが、一生懸命なセリーナに、神官長はすっかり絆された様子だ。しまいには神官も頷かざるを得なかった。
「分かりました。もう神官長のなさりたいようになさってください」
「そうか? じゃあ、お前を漕ぎ手に採用しよう」
「ほ、本当ですか?」
セリーナはパッと喜色をあらわにする。神官長は追うように頷いた。
「他の漕ぎ手が選出されるまで、お前はここで待っているが良い。直に人をやる」
「あ、ありがとうございます!」
セリーナは深く頭を下げた。
神殿の漕ぎ手に選ばれるなど、名誉なことだ。きっと心底嬉しいのだろうと、神官長はそう思った。
*****
漕ぎ手は十人選ばれた。皆、筋骨隆々の壮年の男性ばかりの中、セリーナは特に異色の存在だった。彼らからはコネか何か使ったのだろうという目で見られ――実際、実力は見られていないのだから正しいのかもしれない――セリーナもといセリアは大変居心地が悪かった。だが、おかげで水辺の人魚達に接触を図れるのだから、文句は言うまい。むしろ、人魚達とうまく話せるかどうかが、今のセリアにとっては問題だった。折角大役を任されたのだから、説得できませんでしたでは済まされない。
セリア含む漕ぎ手は、まず身体を綺麗に清めさせられた。毎日ゴンドラを漕いでいる男達は、正直に言って臭く、人魚達に嫌がられないように、である。その後も、着替えたり、髭を剃ったり、髪の毛を整えたりして、ようやく準備ができたところで、水辺に案内された。明後日に控えた催しのため、先にゴンドラの陣形を整えるのだ。
まだ子供のセリアには、小さなゴンドラが用意されていた。長年慣れ親しんだいつものゴンドラよりわずかに大きいが、問題視するほどではない。それよりも。
水辺の人魚達は、遠巻きに漕ぎ手達を眺めていた。ゴンドラが自分たちの領地を侵していくことに慣れているようにも見えた。
彼女たちは、確かに美しかった。顔の造形もさることながら、よく手入れされているのか、髪も鱗も、光に反射してキラキラ輝いている。おそらく歌声もさぞ素晴らしいのだろう。
セリアは、緊張の面持ちで、貝殻を人魚達の岸辺に置いた。不思議そうな、訝しげな視線が向けられるが、セリアはすぐに岸から離れた。
巻き貝の中には、小さく折り畳んだ手紙を詰めていた。エンリカが書いた物で、計画のことや、日取り、手順までもが事細かに書いてある。隙がなく、話し合う機会がなかったときのため、わざわざ用意したのだ。この様子では、おそらく人魚とセリアだけになれる機会などないのだろう。直接話せないのは残念だが、見咎められるわけにはいかないので、危険は犯せない。
その翌日も、水辺でゴンドラ漕ぎの訓練をした。昨日とは違って、人魚達はゴンドラの合間を縫って泳いでいる。漕ぎ手達の視線は、ついつい珍しい人魚に向けられる。
セリアのゴンドラに一人の人魚が近づいてきた。
「手紙、読んだわ」
他の人魚が、水の中へ勢いよく飛び込んだ。他の漕ぎ手の視線がそこへ集まる。
「夜にまたここへ来て」
セリアがパッと振り返ったときには、もうその人魚はセリアのゴンドラから離れていた。セリアは小さく頷き、彼女とは反対方向に向かってこぎ始めた。