第三章 動くか、否か

29:自分にできること


 父の書斎を調べた結果、彼の手記を見つけたので、二人はそれを読み込んだ。エンリカがじっくり読み、それをもう一度セリアに教える形だ。手記には、詳しい経路や、日によって変わる潮の満ち引きについて、詳細に書かれていた。
 それによれば、潮の満ち引きは、季節や時間帯によっても違う。水門が開くのは一年に一度、それも毎年同じ日だったから、何年もの調査の積み重ねで、この手記ができあがったのだろう。

「でも、この経路で行くと、ずっと水の中にいることになりますよね? お父さんみたいなことになりませんか? いくら人魚でも、水の中で目を開けても平気なんですか?」
「そうだね……。何もないことはないと思う。でもどうしようもないことだし、この時だけ我慢してもらうしか」
「ゴーグルはどうですか? あっ、ちょっと待っててください」

 セリアはフックから下げておいたゴーグルを取ってきた。

「私、時々海に潜ることがあったんですけど、その時これをつけてたんです。これをつけていれば、水の中で目を開けていられます」
「へえ、こんなのがあるんだ。でも、どうやって作るの?」
「お店の人に頼むんです。えっと、調節の機能もってことになると、九十三ペルーになるんですけど……」

 セリアの声は尻すぼみに消えていく。九十三ペルーは、なかなかの大金である。ポンと出せる金額ではない。

「全員分ってことにはできないけど……でも、子供や、具合の悪い人魚に渡す分には、いいかもしれない。セリア、これどこで頼めるの?」

 セリアはパアッと喜色を露わにした。ようやく自分が役になりそうな機会がやってきたのだ、嬉しくないわけがない。

「私が頼んできます。何度かお願いしているので、その方が良いかと思って」
「うん、じゃあ頼むよ。今度の会合の時に、詳しく話し合おう」

 話に区切りがついたので、エンリカは茶をすすった。ずっと手記と睨めっこをしていたので、随分冷えていた。セリアは慌てておかわりの茶を用意する。

「そういえば、神殿から水門までの道は覚えた?」
「はい。でも、水の中で移動するんですよね? 今度、海に潜って、きちんと案内できるか練習してみます」
「そうしてもらえると有り難い」

 湯気の立つ茶に、エンリカは息を吹きかけた。

「沈殿物に塗れた海の中には、光が届かない。だから暗くて見にくいだろうけど、頑張って。人魚達は、神殿の壁伝いに、海上に浮上してくるから、あらかじめ神殿の近くにいてね」
「もちろんです。私、ゴンドラを持ってますから、いつでも海には入れるように待機しています」
「ゴンドラって……へえ、あんた、ゴンドラ漕ぎが仕事?」

 セリアははにかんで首を縦に振った。

「お父さんがそうだったので、私もやり方を教えてもらったんです」
「確かに、ゴンドラ漕ぎだったら、この道の運河にも詳しくなるし。……ね、ゴンドラ漕ぎに自信ある?」

 テーブルに頬杖をついたエンリカは、至って真面目な顔だ。セリアは目を瞬かせた。

「自信……は、あんまりありませんけど」
「そんな謙遜しないで! 本当のところは?」
「謙遜してません! 私、あんまり力がないので、まだ小さいゴンドラしかこげなくって、お客さんも一人か二人しか乗せられないんです」
「そうなの?」

 エンリカは至極残念そうな表情になった。何故だかセリアは申し訳なくなる。

「ちょっと頼みたいことがあったんだけどね……」
「あ、あの、私にできることなら、やりたいです」

 知らず知らずセリアは拳を握った。父だって一人頑張っていたのだ。私だって、何かやらなくては。

「本当?」

 セリアの決意に、エンリカはにんまり笑った。罠にはまった、と反射的にそう思ってしまったのはなぜだろう。

「助かるよ。じゃあ一旦椅子に座ろうか」

 何故だか上機嫌のエンリカに背を押され、セリアは椅子に腰を下ろした。
 エンリカとセリアは向き直った。

「人魚は、皆地下神殿に集まってると思ってるだろうけど、実は違うんだ」
「そうなんですか?」
「ああ。見てくれの良い人魚や、若い人魚は、特別な水辺に上がって、そこで生活をしてる。一月に何度か、民間に向けて人魚をお披露目するための子達さ。おいしい食べ物、綺麗な環境で釣ってその子達のご機嫌を取って、いざ客が入ってきたら、歌を歌わせたり、泳がせたりするんだ。金になるからね」
「そういえば、音貝も売られてるって言ってました」
「音貝が良い例だね。貝を見つけてくるのは骨が折れるけど、歌声は金もかけずに何度だって歌わせられるから、神殿はかなりもうかってるはずだよ」

 神殿は、この辺り一帯で一番大きく、そして豪華な外観をしている。ラド・マイムの象徴ともいえるほど。どこからお金がきているのか不思議だったが、そんな仕組みがあったのか。

「話を元に戻すけど、地下神殿から、そこの水辺にはどうしたって行けない。あたし達も接触できないから、海へ還る計画のことを、いつ話そうかと機会を窺ってたんだ。厳重な警備だから、なかなかその子達には近づけなくって。高いお金を払って、客として神殿の中に入ることも考えたけど、そうすると、誰か人を雇わないといけない。もしあたし達との関係性に気づかれたら、こっちの身も危うくなるから、それは最終手段だと思ってたんだけど……」

 エンリカは言葉を切ると、セリアを見てにっこり笑った。

「もう少しでね、ゴンドラ漕ぎの募集があるんだ」
「ゴンドラ漕ぎ?」
「うん。人魚の水辺まで、お客を泳がせるわけにも行かないから、ゴンドラに乗って客は人魚に近づくんだ。その時に、漕ぎ手であるセリアが、機を窺って手紙か何か渡してくれるといいんだけど」
「でも、募集に応募したとして、私でも簡単に採用されるんですか? 試験とかは?」
「そう、問題はそこなんだよね。試験みたいな堅苦しいものではないけど、一応ゴンドラ漕ぎの腕は見られるらしい」
「腕……ですか。あんまり自信ないんですけど」
「駄目だったら駄目でも良いよ。他の方法を考えるから。あんまり重荷に思わないで」

 セリアの顔色が浮かないので、エンリカは慌てて取り繕った。だが、セリアは他にも気が乗らない問題点があった。

「それに、私、大神官さんと知り合い……なんですけど、気づかれたりしませんか?」
「ああ、そっか。確か、オスカーさんは、大神官の息子だったね。でも大丈夫でしょ。大神官は、人魚を毛嫌いしてる。人魚の催し事には滅多に顔を出さないから」
「そうですか」

 セリアはホッと息をついた。本当に漕ぎ手として採用されるかどうかはさておき、あのハイラムという大神官には、できればあまり顔を合わせたくないからだ。

「でも、そもそも水辺の人魚達を説得することすら、難しいかもしれない」

 セリアが不思議そうな顔をすれば、エンリカは唇の端をあげた。

「水辺は閉鎖的な環境だからね。あの子達の考えてることはさっぱり分からないんだよ。もしかしたら、こっちの計画を突っぱねる可能性だってあるし。……若い子の方が話を聞いてくれるかもしれないと思って、あんたに頼みたかったのさ」

 エンリカは頬杖をついた。机の上の溝をなぞりながら、思わずといった風に零す。

「もう随分長い間会ってないからねえ。あの子達の親は、気が気でないでしょ。良い暮らしをしているのならまだしも、嫌な目に遭ってないか……」
「離ればなれなんですか?」
「大人になったから向こうに行った者も、子供のうちから向こうに連れて行かれた者も様々さ」
「…………」

 セリアですら、両親と一緒に暮らしていたのに。だがそれは、地上へ逃げ出したからそうなったのであって、きっと地下神殿で暮らしたままだったのなら、父とは一生会えなかったかもしれないのだ。

「私、やります。頑張ります!」

 唐突に叫ぶようにして言ったセリアに、エンリカは目を丸くした。しかしすぐに我に返ると、嬉しそうにセリアの頭を撫でた。

「よし、ありがとう。助かるよ」
「そんな。まだ採用されるかどうかも分かりませんし……」
「その時はその時だよ。でも、まずはちょっと外見を整えに行こうか」
「え?」
「ずうっと思ってたんだよねえ。その髪、いつも自分で切ってるの? その古ぼけた服は? 何年間着てるの? この前も着てたよね?」

 腕を組み、エンリカはセリアのことを、上から下までしげしげと眺めた。

「あんた、正直に言って年頃の女の子らしくないんだよ」
「は、はあ……」
「まあ、その年で生計を立ててるんだから、充分頑張ってるとは思うんだけど……でも、それにしたって酷い」

 面と向かってこんなことを言われるのは初めてだったので、セリアは情けないやら、恥ずかしいやらで思考が停止した。

「で、でも、何で急に外見を?」
「もうすぐ漕ぎ手募集の日だろ? 見てくれを良くしないと、選ばれるわけないじゃないか」
「そ、そんなものですか?」
「そんなものだよ」

 エンリカは片目を瞑ると、そのままセリアの髪に手をやった。

「あたしに任せな」

 エンリカの声には、自信満々なやる気が漲っていた。