第三章 動くか、否か
28:父の書斎
次の会合は、一週間後だという。それまでに、神殿から水門までの道のりを、地図上と、そして実際に道案内できるよう覚えてくるようにとセリアは言われた。小さい地図を渡され、セリアはそれを丸めて手に持ち、一度自分の家に戻った。他にすることがなかったし、何より、一月以上ゴンドラを放ったらかしにしていたため、その確認も必要だったからだ。
ゴンドラは、セリアが考えていたほどにはひどい状態ではなかった。地下神殿で暮らしている間、嵐はなかったようで、歩道とゴンドラとをくくりつけている縄はそのままだった。多少ゴンドラの中に葉やゴミがちらついている以外は、別段ひどくもない。掃除すればすぐに綺麗になるだろう。
自分の家に戻ると、セリアは地図を机に置き、すぐにベッドに横になった。思っていた以上に疲れが溜まっていたようで、ひとたび目を瞑れば、すぐさま睡魔が襲ってきた。セリアはそれからなかなか目を覚まさず、丸一日が経過した。
次の日は、神殿から水門までの道のりを頭の中にたたき込むことに費やした。誰か自分のことを知っているのではと、神殿に近づく度セリアの鼓動は早まったが、神殿は、外の世界にはまるで興味がないようで、きっちり扉を閉め切っているのみだ。時折神官が出入りをすることはあれど、民間人は誰も中には入れないようだった。
神殿から水門までの距離は、体感で一時間ほどだった。最短距離の時間でこの程度なので、海の中――しかも、遠回りをすることになるのなら、更に時間はかかるだろう。ただでさえ神殿は中心市街地にあるので、人通りが多い。裏通りを中心に見ていっても、必ずそこに階建ての民家があり、人の影はチラホラあるのだ。こんな所に人魚が顔を出せるわけがないだろう。
その後、セリアはしばらく歩き回ってみたが、隠れ道を見つけられるわけでもなく、良い案が浮かぶわけもなく、やがて歩き疲れて家に帰ってきた。簡単に食事を済ませた後、やるせなくなって、机の上に顔を伏せる。
カイルやサリム達はどうしているだろう、とふと思った。それに、ウェルナーのことも。
カイルはともかく、特にウェルナーの身は危ぶまれる。彼は立派な大人だし、子供と違って、決して見逃されないだろう。むしろ、謀反と深読みして酷いことをされてしまうかもしれない。
私のせいで。
暗い底に考えが沈みがちになる中、セリアは頭を動かし、目を開けた。その瞬間、セリアの視界には地図が飛び込んできた。古びた地図で、父の書き込みがあちこちにされているものだ。
セリアは立ち上がり、地図をじっと見つめた。彼女にはまだ読めない所が多かったが、地名くらいは分かる。
そういえば、と彼女は過去を思い起こす。
この地図に書き込むときは、決まって父はずぶ濡れだった。運河特有の異臭をぷんぷんさせ、地図に何かを書き込むのだ。その後は、決まってセリアを連れて銭湯へ行くのが常だった。
しばらく地図と睨めっこをしていたセリアだったが、ふと母の日記のことが頭に浮かんだ。
文字を学んだ後、かねてより願っていたこと――母の日記を読むこと。
思い立ったが吉日、セリアはすぐに父の書斎へ向かった。セリアの家は、二部屋しかない。居間と寝室が一続きになっている大部屋と、父の書斎だけだ。
父の書斎には、セリアは数えるほどしか入ったことがなかった。父が亡くなってからは一度も入っていない。字が読めないセリアには、書斎は無価値だったし、父が大切にしていた部屋を荒らしてしまうのではないかと不安だったのだ。
母の日記は、すぐに見つかった。母の日記は、書棚でも引き出しの中でもなく、机の上に置いてあったからだ。
長い間誰にも読まれなかった日記は、厚い埃が積もっていた。手で軽く払い、ページをめくる。
綺麗な字だった。字を習い始めてまだ日の浅いセリアにとっても読みやすい字。
唐突に日記を書き始めたのか、それともこれが幾冊目なのか、日記の始まりは節目ではなかった。日常の中感じたことや、とりとめもないことが書かれていた。所々、父の名前が出ていることから、二人は既に出会っているのだろう。もしかしたら、もう恋仲になっているのかもしれない。詳細は、まだセリアには分からなかった。
途中から、セリアの名前がよく出るようになった。セリアが生まれたのだ。父と離ればなれになった代わりに、セリアの子育てについて、事細かく書いてある。それによれば、セリアは幼い頃、身体が弱かったらしい。淀んだ空気に、悪い水質環境、ただの風邪が長期化することもあり、寝込むことも多かった。おまけに、掟を破って人間との子供を産んだことから、神官達の心証は悪く、医者を呼ぶように頼んでも、なかなか連れてきてくれない。脅すように頼んでから、ようやく医者が来てくれるのだ。
日に日に多くなってくる、オスカーに会いたい、セリアを地上で育ててあげたいという言葉。セリアは胸が締め付けられる思いだった。
そして、その日がやってきた。仲間達に手引きを頼み、オスカーと共に地上へ逃げ出す日。残していく仲間達や、掟を破ることに後ろめたさがなかったわけではない。だが、それ以上にセリアのことが大切だったのだと、日記には綴られていた。
地上での生活は、思っていた以上に大変だったらしい。神殿で暮らしていたオスカーは、まず地上で部屋を借り、そこにマリーナとセリアを引き入れた。大きなタライに水を張り、井戸から水を引っ張ってくる毎日だ。神官を辞めたばかりのオスカーは仕事もなく、今まで貯めていたお金で細々と暮らしていた。幸いなことに、病気がちだったセリアは、医者にかかっているうち、日に日に体調が好転してきたようだ。
貧乏で、近隣住民からも身を隠すようにして暮らす日々。大変だが、充実した日々に、二人は満足しているようだった。何より、大切な一人娘が、日に日に元気に、大きくなっていく様を見るのは、何事にも代えがたい大切なことだったから。
「私を、守るために――」
両親は地上へ行った。火を見るより明らかな事実だった。セリアはずっと勘違いをしていたのだ。今まで、両親を責める心がなかったわけではない。どうして仲間達を裏切ったのかと想わなかったわけではない。でもそれは、全部私のためだったのだ。
ギイッと扉の開く音に、セリアはビクリと身体を揺らした。振り返れば、部屋の入り口にエンリカが立っていた。気まずそうに、彼女は眉を下げた。
「ごめんね。声かけても返事がなかったから、勝手に入ってきちゃった」
彼女は、物珍しそうに書斎をしげしげと見回した。
「ここがあんたの部屋? 随分汚いんだねえ……おっと、余計な一言だったかな」
エンリカはセリアの元にたどり着いた。彼女が持つ日記に目を落とし、そして再びセリアを見る。エンリカは、セリアの涙に気づいた。
「どうしたの? 何かあった?」
「これ……母の日記です」
「マリーナの日記?」
セリアが黙って差し出せば、エンリカはすぐに意を汲んだ。
「見てもいいのかい?」
「ぜひ」
エンリカは、立ったまま日記を読み始めた。その間、セリアは両親に思いを馳せていた。
読み終わったのか、しばらくしてエンリカは息を吐き出した。おそらく、彼女ならセリアよりも多くの情報量を得たはずだ。
「私が……」
長い間黙っていたせいか、声がかすれた。
「私が何か言える立場ではないことは分かっています、でも」
「分かってる」
エンリカは日記帳を静かに閉じた。まだ残っていた表紙の埃を優しく手で払う。
「マリーナ達が地上へ行ったのは、あんたのためだって言いたいんだね?」
「はい」
「マリーナは部屋に軟禁状態だったから、あたし達は気づけてやれなかった。子供が体調を崩すことは、地下神殿ではよくあることなのに」
重苦しい沈黙に包まれる。セリアとエンリカは、しばらく互いに言葉を交わさなかった。
*****
やがて、徐にセリアが動いた。
「あの、どうしてここに?」
この重苦しい空気を変えるために、わざと明るい声を出す。うまく笑えていたかどうかは、自信がない。
「会合の日が変更になったんだ。だからそれを知らせに」
「わざわざありがとうございます。お茶、飲んでいきますか?」
「いいの?」
「はい。大したものはありませんけど」
セリアはキッチンへ向かった。とはいえ、湯を沸かし、茶葉を入れるくらいで、他にすることはないのだが。
しかし、折角の来客なので、お茶請けでも出した方が良いかと、セリアは手当たり次第戸棚を漁った。この頃買い物に行っていなかったので、碌なものはなかったが、サリムがいたときに買った乾燥した海藻ならまだ残っていた。お茶と共におずおずとそれを出せば、エンリカは喜んで食べてくれた。
「この地図は?」
お茶を飲みながら、エンリカは入り口近くの壁にかかっている地図に目をとめた。
「父のものです。生前、よく書き込んでたみたいです」
「ふうん……」
不意に彼女は立ち上がり、ごく近くで地図に見入った。セリアは呆気にとられながらも、邪魔はしない。
エンリカは、地図の字をなぞった。
「驚いた……」
「どうかしたんですか?」
「これ、神殿から水門までの経路だよ。でも、この道は確か途中で封鎖されてるはず――」
エンリカの声が途中で止まる。何がとかとセリアが彼女の顔をのぞき見れば、彼女は笑っていた。
「なるほど、そういうことか! 全く頭になかった。やっぱりオスカーさんは頭が良いね」
「どうしたんですか?」
黙っていられなくて、セリアもついエンリカに食いつく。自分では字が読めないので、地図に何が書いてあるのか、エンリカが何に気づいたのか、非常に気になるのだ。
エンリカは地図の字をなぞった。
「この地図にはね、神殿から水門への経路が書き込まれてる。でもそれは、地上からの経路じゃなくて、運河の下から――つまり、人魚からの目線だってこと」
「ど、どういうことですか?」
説明されても、まだよく分からない。
セリアはもどかしかった。
「だからね、オスカーさんは、きっと運河にもぐって、水の中からの移動経路を探してたってこと。ほら、ここ見て」
エンリカは地図をトントン叩いた。彼女が指さすのは、花屋と書かれている箇所だ。その近くには、父がいくつか書き込みをしている。
「ラド・マイムはね、時間によって水面が上がったり下がったりするんだよ。だから、時間帯と場所によっては、地面と水面の間に空間があく場合がある。ここがきっとそうなんだろうね」
「じゃあ、ここに書かれている時間帯は、ここを通っても平気だって言うことですか?」
「そういうこと。……オスカーさん、マリーナから計画のことを聞いてたんだろうね。地上へ逃げてきたことを引け目に感じてただろうから、少しでも力になれるよう、一人で奮闘してたのかも」
未だ地図を見つめるセリアを置いて、エンリカは椅子に深く腰を下ろした。感慨深げに、表情に影を落とす。
「どんなにか、辛かっただろうね……。人間の身体でこの海に潜るなんて。特に冬の時期なんか堪ったもんじゃない。あたし達は体温が低いから平気だけど、人間のオスカーさんは……」
エンリカの言葉に、セリアはハッと顔を上げた。
「お父さん、運河の水が体内に入ってきたから、身体を壊したって言ってました。ゴンドラ漕ぎの仕事をしているから、いつの間にかそうなったんだって私は思ってたんですけど、でも、まさか……」
言葉にすればするほど、セリアの記憶はどんどん蘇ってきた。
「それからゴーグルをつけるようになったんです。でも、時々ずぶ濡れになって帰ってくる習慣はなくならなくて、ある日、突然……」
セリアにも字を教えてあげると言っていた矢先だったのに。この街に知り合いがいるから、いつか会わせてあげると話してくれたはずだったのに。
エンリカはゆっくりとした動作で顔を覆った。
「どんなに気をつけていても、高い頻度で潜ってたら、そりゃ体内に入ってくるよ……。口から目から傷口から――本当に、この汚い運河は、あたし達を追い詰めてばかりだ」
「…………」
セリアは何も言えなくて、悲壮な顔つきで黙り込んだ。海は嫌いじゃない。でも、父を死に追い詰め、仲間を苦しめた汚い海は嫌いだ。
「あんたのお父さんの思い、あたしは無駄にしないよ」
エンリカは唐突に立ち上がった。
「お父さんが書き残した物、他にも何かあるかもしれない。書斎、探してもいい?」
「そ、れは構いませんけど……」
セリアの返事に頷くと、エンリカはスッと立ち上がった。そのまま書斎に入りかけて――立ち止まった。
「何してるんだ、あんたも手伝うんだよ」
「えっ……え?」
呆けて返事が遅れるセリア。エンリカはすぐに彼女の元に戻ると、その背をパシッと叩いた。
「しっかしりなよ。あんたがお父さんの意志を継ぐんだ」
不意に、セリアの目頭が熱くなった。何故だかは分からない。機会はもっとあったはずなのに。
セリアは目元を拭うと、書斎の中に入った。セリアを向かれるのは、たくさんの父の書棚。
――私が、亡くなったお父さんとお母さんの代わりにやり遂げるんだ。
セリアはそう心を決めると、エンリカと共に手当たり次第手がかりを探し始めた。