第三章 動くか、否か
27:海へ還る計画
神殿伝いに、セリアは再び黒い海の中に身を投じた。行きはただただ心細く、もしかしたらもう二度と地上の空気を吸えないかもしれないとすら思っていたのが、今では嘘のようだ。セリアは上気する心とともに、ぐんぐん地上へ向かって泳ぎ進む。いつの間にあの長い海の道を泳ぎぎったのか、海水面に顔を出したとき、セリアは少々物足りなく思ったくらいだ。泳ぐくらいしか、この興奮した感情を発散させる術を、セリアは知らない。
「――やりきったようだね」
だが、そこにはエンリカが立っていた。運河の縁に身をかがめ、セリアが戻ってくるのを今か今かと待っていたようにも見えた。
「エンリカさん」
セリアは縁に身を寄せ、エンリカが何か言う前に矢継ぎ早に言った。
「長に、これをいただきました。親がしでかしたことは、子供の私が責任を取るべきだと。私もそう思います。じゃないと、皆に顔向けできないから……」
「なに馬鹿なことを言ってんのさ」
エンリカは、俯くセリアを一蹴した。
「責任だとか、顔向けできないとか、そんなの関係ない。長に認められたんなら、あんたはもう立派なあたし達の仲間だよ。同じ志を持った家族だ」
「家族……」
セリアはじんとしてその言葉を口の中で呟いた。
家族。
セリアの父と母は、もう亡くなった。己の家族は立ち消えてしまったと思っていた。でも、こうしてまた新たに家族ができ、そしてまた、作ることもできるのだ。
「それに、あんたはそもそも人魚の末裔だろ。家族以外の何があるってんだ」
歩道から身を乗り出し、エンリカはセリアの頭に手を乗せた。ガシガシと撫でられる手が痛い。
「これからよろしく頼むよ、セリア!」
「はい!」
「それはそうと、今日はもう遅い。泊まっていくだろ?」
何とはなしにそう言われ、セリアは目をぱちくりさせた。
「でも、ご迷惑じゃ……」
「家族に迷惑も何もないよ」
自覚もなしに、へにゃっと顔が緩んでしまうのを押さえられないのは無理もない。セリアは、ヘラヘラ笑いながら、エンリカの後をついていった。
*****
朝早くエンリカにたたき起こされ、セリアは眠い瞼を擦りながら朝餉をとった。身体の構造上、エンリカはそのままの海藻や生魚を食べることはできないが、魚は好きらしく、朝から焼き魚だった。セリアも魚介類は嫌いではなく、むしろ好きだったので、喜んで食べた。
朝食の際、エンリカは、セリアの母マリーナの話をしてくれた。マリーナとは同い年で、よく一緒に遊んでいたのだという。
「あたしには三つ年下のサンドラって言う妹がいてね。よくマリーナと三人で遊んでたんだ」
「サンドラさんって――えっ、あのサンドラさんですか!?」
「なんだ、知ってんのかい?」
セリアは慌てて何度も頷いた。まさかここで彼女の名前が出てくるとは思いもしていなかった。
「地下神殿にいた頃、サンドラさんと同室だったんです。地下神殿のことについていろいろと教えてもらって、とても優しくして頂きました」
「妙な縁だね。思えば、なんだか銭湯で会ったのも偶然じゃないみたいだ」
「…………」
そう言われると、セリアも少しだけ嬉しかった。自分に仲間ができたのも、サリム達と出会えたのも、ただの偶然と言われるよりは、運命の巡り合わせだったのだと言われた方がよっぽど良い。
早い朝食を食べた後は、軽く準備をし、すぐに家を出た。時折、神官達が不定期に行動を確認しに来るため、用心しなければならないのだ。
辺りを窺うように歩きながら、二人は細い路地をくねくねと歩き回った。まだ太陽も昇っていない薄暗い通りは、静かで鳥の声すら聞こえない。話し声すら憚って、セリアは黙ってエンリカの後をついて行った。
やがて、黒い路地の突き当たりにたどり着く。エンリカは古ぼけた木の扉に身を寄せ、扉ののぞき穴からちょこんと飛び出している紐を引っ張った。遠くの方で鈴が鳴るような音がした。やがてゆったりとした足音と共に、のぞき穴から男が覗き込んだ。エンリカが彼と目を合わせると、扉はすぐに開いた。黙したまま、男の後に続き、二人は家の中に入った。 家の中は、想像していたよりも明るかった。地下神殿や、外の暗さになれていたセリアは、当惑した。隠れ家というよりは、古民家という印象だった。
男は、家の中をどんどん進み、奥の部屋から地下に進んだ。階段を降りきったところで、すぐ目の前に扉が現れた。男はその扉を躊躇なく開ける。
小さなその部屋には、五人の男がいた。中央の円卓に、難しい顔つきで座っている。セリア達がその部屋に踏み入れると、彼らは一斉にそちらに顔を向けた。
「何者だ、その娘は」
口上もなしにそんな言葉を突きつけられ、セリアはピシッと背筋を伸ばした。
「この子は……まあ、とりあえず座らせて。落ち着いて話をしよう」
「駄目だ。ここの場所を知られたからには、我々はその娘の正体を知る義務がある」
エンリカはゆっくりと男達を見回した後、ため息をついて肩をすくめた。
「この子はセリア。マリーナの娘だよ」
エンリカがそう発したとき、男達は大きくざわめいた。互いに何やら囁き合い、最終的にはセリアを鋭い目で睨み付ける。彼らの気持ちが身にしみて分かるセリアは、沈痛な面持ちで、しかし顔は逸らさずに、しっかり前を向いた。
「どうしてマリーナの娘が。自分が何をしたのか分かっているのか?」
「ああ、分かってるよ。それに、この子が長に認められたってこともね。ほら」
エンリカは長の鱗を掲げた。鈍く光るそれは、セリアの目から見れば、誰の物と見分けがつかない。だが、男達にとっては違ったのか、再びざわめいた。
「偽物じゃないのか?」
「こんなちっぽけな子がどうやって鱗を偽造するって言うんだ。それに、鱗のことは人魚達しか知らない」
「だが、母親から聞き及んでいた可能性も――」
「あーもう、うるさいねえ!」
エンリカは苛立ったようにガシガシ頭をかいた。
「長が決めたことにケチをつけるつもりかい? 金輪際もうセリアの出自に関してグチグチ言うのはなしだよ! そもそも、彼女は人魚の血筋だ。あたし達と同じく人魚の末裔だってことに変わりはないのさ。なのに昔のことでうじうじと。男らしくないよ!」
エンリカの形相に、男達は一瞬怯む。だが、すぐに体勢を立て直した。
「その娘に何をさせようと? 小娘風情が何の役に立つというんだ」
「下働きでも、何でもします」
すかさずセリアは口を挟んだ。エンリカはそんな彼女の背を叩く。
「セリアに何ができるかは、おいおい考えればいいだろう。まずは詳しい計画について知ってもらうんだ。ほら、席に座りな」
エンリカはドサッと椅子に座ると、その隣の椅子をセリアに示した。セリアはしばし男達の顔色を窺ったが、すぐに顔を引き締めて腰を下ろした。
エンリカは、もう既に机の上に広げられていた地図を、自分の方へ引き寄せた。
「あたし達はね、今から五十二日後、年に一回ラド・マイムの水門を開けるこの日に計画を実行するんだ」
「はい」
「まず、あたし達が神殿に忍び込んで、鍵を奪う。その鍵を使って、地下神殿を開放するんだ。人間には人魚の肺と尾ひれを渡して、人魚に掴まりながら、海から地上を目指してもらう。人間よりも人魚の数の方が圧倒的に多いから、この辺は楽だよ。で、人間は地上で降ろして、その後人魚達は水路に潜みながら、開かれた水門を目指す。――まあ、これが計画のおおよそだよ」
エンリカは、地図をトントンと指で叩いた。
「この計画を遂行させるには、できるだけ長い時間神官達に、人魚が逃げ出したってことに気づかれないようにしなきゃならない。それに、水門への経路もややこしいんだ。中心街は、特に運河が入り組んでるから、地図だけで迷わずに皆がすぐに水門にたどり着けるかも不安だ。あたし達地上にいる人間は、この日は神殿に集められるんだ。だから道案内もできないし。――でも、セリアが現れてくれて助かったよ」
突然自分のことが出てきて、セリアは顔を上げた。
「私、何をすれば良いんですか?」
「あんたは、いわば神官達から逃げてる身だろ? だから、この日は自由に動き回れる。あらかじめ人魚達と待ち合わせしてる場所に身を寄せ、いざ仲間達が来たら、その道案内をして欲しいんだ。水門までね。水門までの道は分かる?」
「あんまり、自信がなくて……」
「じゃあ、この日までに徹底的に覚えさせるから、覚悟しておいてよ」
「はい。あの、でも」
じっと地図を見つめていた視線を挙げ、セリアはエンリカと目を合わせた。
「エンリカさん達は大丈夫なんですか?」
「何が?」
「この計画だと、人魚達が逃げ出した後も、皆さんは神殿にいることになりますよね? 人魚を逃がしたってことで、皆さん、酷い目に遭ったりしませんか?」
今までは、人魚達がその立場だった。地下神殿に囚われ、もしも地上の人間が他の街に逃げ出せば、囚われの身である人魚達が被害を被っただろう。だが、この日はその立場が逆になるのだ。もし事がうまくいって、人魚達が逃げ出してしまえば、地上の仲間達は、もっと辛い目に遭うのではないか。
エンリカはしばし目を丸くしていたが、すぐに口元を緩めた。
「大丈夫だよ。あたし達、こう見えて地上で何人か知り合いもできたんだ。普通の人間の知り合いがね。もしあたし達が神殿に拘束されても、その人達がきっと声を上げてくれるだろうさ。それに、中にはあたし達の事を全部紙に書き起こして、隠している人もいる。数日後には、知り合いがその紙を見つけて、神殿が人魚を苦しめていた過去を露呈させると脅すこともできるしね」
「それなら」
「ああ。あたし達は本当に大丈夫」
エンリカの笑みを見て、セリアはようやく安心することができた。
地下神殿の仲間のため奮闘している彼らが、今度は囚われの身になってしまう計画なんて見過ごせない。それに、折角自由の身になれたとしても、他の誰かが犠牲になってしまうのなら、きっとあの優しい人魚達だって納得できないだろう。
「じゃあ、セリアに説明もしたことだし、本格的に話し合おうか」
エンリカは地図を元の位置に戻した。
「まず、どの経路を伝って水門に仲間を導くかということだ。水門が開くのは正午から夕方まで。人通りの多い運河は通れない。それに、人魚達の呼吸の問題もある。度々休憩地を挟まないと」
「でも、人魚って……」
セリアの疑問を察したのか、エンリカは小声で説明した。
「人魚は、エラでも呼吸できるよ。でも、いくら少しの間だからって、この汚い海を身体に取り入れたらさすがにくたばっちまう。だからできるだけ空気を取り入れる場所を経路に入れたいんだ。人魚の肺を使うのも手だけど、人数分はないんだ。肺は、せいぜい三十分かそこらしか使えないし、一度使ったら、しばらくはもう使えないんだ。一週間かけて空気を含ませないといけないから」
「だから、肺を使えるのは地下神殿から地上へ逃げ出す時の一度きり。地上に出たら、そこから水門までは、休憩地を挟んで凌がなくてはならない。だからこそ、人間に見つからない人気のない場所を探してるんだ」
エンリカに続いて、男性が丁寧に説明した。分かったという意味で、セリアは大きく頷いた。
再び、皆の視線が地図に向く。一人がある場所を指さした。
「ここは?」
「最近新しい店ができたから駄目だ」
「この道はいつも人気がなかったと報告されているが」
「しかし、次の休憩地との間隔が開きすぎている。大の大人でも、呼吸がそれまで持つかどうか」
「こうなったら、人間達に気づかれるのを承知で突破するのは? 人魚の速さには誰も追いつけない。気づかれたとしても、水門を閉められるよりも先に逃げ出せば良いだけの話だ」
「でも、運河にはゴンドラもたくさんあるんだよ? 人間も背負って移動しないといけないし、障害物を避けて、思うように速度を出せるかどうか」
「…………」
場が沈黙に包まれる。何度案が持ち上がっても、誰かがそれを論破してしまう。話し合いは一向に進まなかった。
「今回はこれでお開きにしようか。各自、持ち場の区画をもう一度見直すように」
話し合いが切り上げられた。椅子からノロノロ立ち上がる皆の動作が、心情の鬱々さを表しているようで、セリアも気が重かった。