第三章 動くか、否か

26:海の底の長


 その後、セリアはエンリカの家で夕食をごちそうになった。長いとも短いともいえないその時間は、なかなかに緊迫した空気だった。一応エンリカには認められたとはいえ、どこか未だ警戒したような気配を感じ、セリアは久しぶりの食事の味もあまりよく分からなかった。
 すっかり夜も更け、表を歩く人の声も少なくなった頃、エンリカは動き出した。軽く準備をした後、セリアにも声をかけ、一緒に家を出た。細い運河に身を滑り込ませ、辺りを窺いながら運河をのぞき込む。

「まだあんたは仲間じゃないから、ここから海の中に入って貰うよ。本当は、もっと人に見られない安全な場所があるんだけどね。それを知られると、あんたを無事帰すわけにはいかなくなるからさ」

 なかなかに物騒なことを口にした後、エンリカはセリアに対し、いくつか押しつけた。

「ほら、受けとんな」
「こ、これは?」

 おどおどとセリアはエンリカを見上げる。一つは魚のヒレのようなもの二つと、もう一つは赤い袋状のものだった。
 エンリカは、暗い水面を見つめながら答えた。

「あんたも聞いたことはあるだろ? 人魚の伝説。人魚の肉を食らわば不死となり、血を浴びれば不老となる。人魚の尾ひれで海を自在に泳げ、肺は海を水の中でも空気を与える」

 セリアは、手の中のものとエンリカ,どちらをも見比べた。

「じゃ、じゃあ、これって――」
「嫌なら返しな」

 低い声に、セリアは息をのんだ。

「あんたの想像通り、それはかつてのあたし達の仲間のものだよ。あたし達がいつか大海原へ還れる日を夢見て亡くなっていった者のヒレと肺。――あたし達はみんなの思いを無駄にはしない。仲間の死体を掻っ捌いてでも、海へ還ってやる」

 どう言ったものか。
 セリアは胸が締め付けられる思いだった。一言に、海に還りたいと言う台詞を聞いても、人間であるセリアにはいまいち実感が湧かなかった。確かに、綺麗で広い海で自由自在に泳げたら、人魚にとってはどんなに幸せなことだろうとは思う。でもそれは、所詮セリアの想像したまでの思いで、おそらく、人魚とその仲間達の強い思いとは、段違いにかけ離れたものだろう。

「これ、借りますね」

 手の中のものを、セリアは優しく包み込んだ。エンリカの話を聞いた後では、もうこれは全く別のものに思えた。いくら長に会いに行くためとはいえ、仲間になれるかも分からないセリアに、大切なものを預けてくれるのだ。

「死ぬかもしれないよ。それでもいいのかい?」

 最後に再度エンリカは確認した。セリアは躊躇うまでもなく、返事をする。

「私、行きますから」


*****


 海の中は、冷たく、暗かった。まるで、この世界に一人取り残されてしまったかのような感覚に陥る。
 足に取り付けた尾ひれは、想像以上に泳ぎやすかった。足で一かきするごとに、グンと数メートルは奥深くに潜ることができる。両手で常に口元に当てている肺は、胸一杯に空気を吸うことができた。だが、もしこの肺に穴が空いたらどうなってしまうのだろうと、そんな嫌な想像も時折頭をよぎる。余計、肺を持つ手に力が入るというもの。
 漆黒の闇に、仄かに明かりが見えた。まるで道しるべのようだった。セリアは、これ幸いとばかり、その明かりへ向かって一段と素早く泳いだ。
 小さな照明は、点々とどこかへ続いていた。神殿と思われる建物を伝って底へ降りていたのだが、やがてそれにも終わりが来る。今度は神殿の底を上に、セリアは明かりを追った。
 息苦しい。
 酸素は常に供給されているはずなのに、息苦しかった。早く、早くという思いで必死に泳ぐ。
 唐突に、神殿の底がなくなった。支えにしていた壁がなくなり、セリアの身体も自然、ゆっくり上がっていく。思わず上を見れば、ポッカリとそこには空間があった。その先に仄かに明かりがあることを鑑みると、更に行けるらしい。セリアは躊躇うことなく浮上した。
 無我夢中で水をかいていると、ようやく水の外に出ることができた。陸地に手をつき、しばらく呼吸を繰り返す。
 目の前には、見慣れた地下神殿のような場所が広がっていた。だが、決定的に違うのは、陸地はセリアが今いるこの入り口だけで、その他は全て水で形成されている湖のような場所だという点だ。
 湖は小さく、すぐに一望できた。湖の奥の岩には、一人の人魚がしなだれかかっていた。

「お、長……ですか」

 セリアはゆっくり彼女に近づいた。どことなく空気が悪いような気がした。こんなところで一人で引きこもっているせいか。それとも、長らく空気の入れ換えがないせいか。

「見慣れない顔だねえ。名は」

 思った以上にしゃがれた声だった。人魚は長命だという。きっと、見た目以上に彼女は年を重ねているのだろう。

「セリアと言います」
「セリア?」

 しわがれた声が、訝しげに繰り返した。

「そんな名、記憶にないがね。親は誰だい」
「母はマリーナ、父はオスカーと言います」
「――おやおや、裏切り者の娘がよくもまあのこのこと顔を見せられたもんさね。それで、ここへは一体何の用だい?」

 長の顔に、これといった変化はない。だが、瞳が鋭く細められたことに、セリアは嫌でも気がついた。
 彼女の底知れぬ迫力に、セリアは全身を震わせながらも、一歩も引かなかった。

「私……あなた達の仲間になりたくて、ここに来ました。海へ還る計画――私も、それに参加したいんです」
「笑わせてくれるねえ。お前達のせいでその計画が延びたんだ、また裏切られて延期になったらもう笑いものにもならないよ」

 返す言葉もなく、セリアは怯んだ。長は僅かに身体を起こした。

「お前の両親はな、わしらの厳格な掟を破った。お前を生んだ後、地下神殿から忽然と姿を消したんだ。抜け道から地上へ向かったのさ。手引きした仲間もいたようだが、そんなの関係ない。実行に移したことが問題だからだ」

 長は、長く息を吐き出した。

「地下神殿に住む人魚には、地上で暮らす権利は決して与えられない。たとえ病気でもね。不承不承わしらだって従ってきたのさ。それをあんたの両親は台無しにした。この落とし前はどうつけてくれるつもりなんだ」

 長の言葉が、長くセリアの頭の中に逗留する。
 自分に何ができるかは分からない。今まで自分から動いた事なんてほとんどないのだ。もしかしたら、誰かにやれと言われたことしかできないかもしれない。――でも、そんな自分は嫌だから。

「私が二人の責任をとります!」

 セリアはパッと顔を上げた。

「私、ゴンドラ漕ぎの仕事をしています。泳ぎもちょっと得意です。人魚には負けるかもしれないけど、カイルには勝ちました! 字も今勉強している最中です。頑張れることはなんでもやります。私も皆のために何かしたいんです!」

 何をすれば良いのかはまだ分からないけど。でも、何かしたいから。

「うるさい子供だねえ。自己紹介なんて誰も聞いてないだろう」

 長はうんざりしたような表情で顔を背けた。つい声に力がこもっていたことに気づき、セリアは拳を解いた。

「あ、あの、でも私……」
「こっちに来な」

 あまりに短い言葉に、セリアは一瞬呆けた。だが、長が語気を強め、再度同じ言葉を口にしたので、慌てて更に湖を進んだ。奥に進むにつれ、次第に水深が深くなっていく。長の元に到着したときには、つま先立ちをしなければ立っていられないくらいだ。

「受け取りな」

 素っ気ない言葉と共に、何かが放り出される。セリアはあわあわと必死にそれを受け取った。

「こ、これ……」

 それは、一度見たことのあるものだった。別れ際、サリムが渡してくれたものと同じ――。

「勘違いするんじゃないよ。決してお前を認めたわけじゃあない。親がしでかしたことは、子のお前が責任をとるべきだと思ったからだ」
「ありがとうございます!」

 セリアは何度も頭を下げた。決して歓迎されていないことは重々承知していた。それでも、誰かのために行動できることが、嬉しくて仕方がない。今まで、セリアはたった一人きり、自分のためにしか生きてこなかった。それが、今では同じ仲間のために動くことができるなんて。
 自分に何ができるかは分からない。もしかしたら、足を引っ張ってしまうかも。
 しかし、そう思う度、手の中の鱗が、自分叱咤してくれるような気がした。