第三章 動くか、否か
25:動くか、否か
銭湯に着くと、代金を払い、セリアは脱衣所へ向かった。馴染みのその場所は、セリアにとっては慣れたものだ。多くの裸の女でごった返していたが、その間を縫って、何とか開いている籠を見つける。手早く服を脱いでいくと、首から提げていたペンダントに気がついた。
綺麗な青い石のペンダント。
これを見る度、地下神殿のことを思い出さずにはいられなかった。母の形見でもあり、セリアが一人ではないという証拠。
ペンダントを首から取ると、隠すようにして、既に畳んだ服の下に押し込んだ。様々な人が出入りするこの脱衣所では、いつ何時ものを盗られるか分かったものじゃないからだ。
しかし、そんなセリアの腕を、何者かががしっと掴んだ。
「人のものを勝手に盗っちゃいけないよ」
「――え?」
困惑してセリアは顔を上げた。怖い顔をしたその女性は、見る間に眉間の皺を解いた。
「あんた……この間の子の」
目の前に立っていたのは、以前この銭湯で出会った女性だった。初対面ながら、セリアに優しく話しかけてきてくれた人だ。
だが、今はその面影はない。すぐにまた彼女は険しい表情に戻った。セリアの腕は放してくれたが、組まれた腕に、威圧感が生じる。
「とりあえず、さっきのペンダント出してくれるかい」
「あっ、はい」
逆らわない方が良いという雰囲気を感じ、セリアは大人しくペンダントを取り出した。そのまま彼女に渡す。
「でも、これは、その」
「……驚いた」
女性は小さく呟くと、すぐにセリアにペンダントを戻した。
「ごめんね、これ、あたしのじゃないみたいだ」
「え?」
「あー……悪かったよ。見間違えた。まさか同じペンダントを持ってる子がいるとはね」
彼女は自分の籠まで戻ると、ごそごそ服の中に手を突っ込んだ。そこから出てきたのは、確かにセリアのものと全く同じペンダント。
「あんた、どこでそれを拾ったんだい?」
「そのペンダント、私の母の形見なんです」
セリアはじっと女性を見つめた。
――これを持つものは、等しく人魚の仲間であると。
かつて聞いた、ウェルナーの言葉が頭に響く。
「あんた……確か、潜るのが得意な子だったね」
相手の女性もそのことに思い至ったのか、深い深いため息をつく。
「はい。私、あなたに聞きたいことがあるんです。お時間いいですか?」
――目の前の彼女は、どこからどう見ても人間だ。だが、ペンダントを持っているということは、人魚の末裔でもある。そして、もしかすると、ウェルナーが言っていた計画に携わっている仲間の一人かもしれないのだ。
「…………」
女性は、長い間黙ったままだ。
もしかしたら断られるかも。
そう思った矢先、女性は小さく頷いた。
「こんなところで騒がれちゃ迷惑だ。いいよ、来な」
「ありがとうございます!」
セリアはパッと喜色を浮かべ、頭を下げた。何かが変わる気がした。
*****
女性は、セリアが銭湯に入るまで待っていてくれた。その後、二人揃って湯屋を出て、夜道を歩いた。
セリアは、着替え終わった衣服を抱えながら、ちょこちょこと女性の後についていった。走っているわけではないのに、彼女の足は速く、セリアはついて行くだけで精一杯だった。
人の波をかき分けかき分け。
やがて女性は裏通りに入っていった。セリアはきょろきょろしながら歩いた。ラド・マイムは、複数の運河が走っているため、見た目に反して中は入り組んでいる。自分の近所であっても、普段使ったことのない通りであれば、すぐに迷子になってしまう可能性もないわけではない。
若干帰り道のことを心配し始めたとき、女性の足は止まった。
彼女は一旦振り返ると、注意深く辺りを見渡した。釣られてセリアも後ろを振り返ってみるが、別段何もないし、誰もいない。不思議に思って前を向けば、女性が扉を開けて待っていた。
「入んな」
「は、はい。失礼します!」
ビクッと背筋を伸ばし、セリアは恐る恐る家の中に入った。石造りのレンガの匂いがぼんやりと漂う、雰囲気のよい家だ。オレンジ色の照明が明るくセリアを出迎えた。
「まっすぐ行ったところの扉だ」
「は、はい」
なぜが先導はしてくれないらしく、セリアはゆっくり女性が示した扉へ向かった。扉を開けると、椅子に座るよう指示されたため、恐る恐る腰掛ける。女性は、セリアの前の椅子に腰掛けた。
「あたしはエンリカだ。あんたは?」
「私はセリアです」
エンリカは、端的に頷いた。
「じゃあセリア。単刀直入に聞く。あんたの母親の名は」
低い声に、セリアは自ずと身体を硬直させた。しかし、それでも必死にエンリカを見返す。
「マリーナです」
「…………」
長い長い沈黙だった。その後、エンリカは深くため息をついた。
「あんたはどこまで知ってる? なんであたしに声をかけてきたんだい? 同じペンダントを持ってたから、親近感を抱いた?」
「私、あなたたちの仲間と会いました」
「仲間って?」
セリアはゴクリと唾を飲み込んだ。言ってもいいのだろうか。もしも、これが全て私の勘違いだったならば、カイル達を危険な目に遭わせることになる。――私の勝手な一存で。
それでも、セリアは厳しい顔つきで深く息を吸い込んだ。
「人魚」
「…………」
エンリカは、セリアをじっと見つめたまま、何も言わなかった。先に視線をそらしたのは彼女だ。
「地下神殿に行ったの? どういう経緯で。あんたは地上で暮らしていたはずでしょう」
「地上でサリムとカイルに会ったんです。いざ別れようって時に、私が無理に地下神殿までついて行っちゃったんです」
「サリムがこっそり地上に向かったって言うのは聞いてたけど……そうか、あんたが助けてくれたんだね」
「助けたってほどでは……。私は何もしていません。むしろ、地下神殿で、皆に温かく迎えられて、私、すごく嬉しかったんです」
エンリカは額に手を当て、何も答えない。セリアはそのまま続けた。
「私、力になりたいんです、皆さんの。私、地下神殿で、ウェルナー先生に聞きました。人魚のこと、このラド・マイムの歴史のこと。そして、海に還るために、皆が陰で動いていること。私も、何かしたいんです。カイルやサリムの力になりたいんです!」
「子供に何ができるんだい」
エンリカは素っ気なく一蹴した。
「子供なんて足手まといにしかならない。今あたしたちがしてる仕事をあんたに任せられるとも思えないしね」
「私、下働きでも何でもします! サリムたち――人魚が自由になれるまで、私も何が手伝いたいんです!」
もっと言いたいことは山ほどあった。
今このときほど、自分に学がないこと、今まで人と関わり合ってこなかったことを後悔した日はなかった。もしも学があれば、話がうまければ、自分の中にもやもやと滞留しているこの感情を、すべてぶつけることができたのに。単に読み書きできるだけじゃない。もっともっと勉強して、頭が良くなりたかった。誰かのためになることをしたかった。
「確かにね、あたし達は仲間のために組織を作っていろいろと動いてるよ。でも、組織が大きくなればなるほど、情報が漏洩する可能性はどんどん大きくなる。あんたは新参者ってだけじゃなくて……。あんた、自分の身の上は知ってるのかい?」
「…………」
セリアは、ちょっと戸惑った後、躊躇いがちに口を開いた。
「はい。両親が黙って地上に逃げ出し、そのことで皆に迷惑をかけたということは聞きました。きっと私も恨まれてるだろうってことは分かります」
「そうか。まあそれが分かってるのなら、あたしからはもう何も言わないよ。あたしは仲介人ってだけだし」
エンリカは、指で等間隔に机を叩いた。視線だけをあげ、セリアを見やる。
「そして一つ忠告しておく。もしもあんたから情報が漏洩するようなら、あたし達は迷うことなくあんたを切る。それでも構わないのかい」
「はい」
後悔だけはしたくない。
セリアはまっすぐにエンリカを見た。
「神殿は、人魚に関しては執念深い。もしあたしたち組織のことに感づかれたら、たとえ子供とはいえ、容赦はされないだろうさ」
「それでも構いません。どうしても力になりたいんです」
今まで自分一人生きていくのに精一杯だったのに。
そんな自分が、もし誰かの力になれるのなら。
足手まといだと言われてもいい。――この思いは、きっとエゴだ。でも、せっかく育った自分のこの人間らしい感情を、大切にしたいと思った。
「分かったよ」
やれやれといった風に、エンリカは大きく肩をすくめた。
「全く、誰に似たのか、強情なんだから」
「じゃ、じゃあ……」
セリアはおずおずとエンリカを見上げた。
「私、皆さんのお手伝いができるんですか?」
「いいや、まだだ。地上で人魚の仲間として働くためには、長の許可がいる。あんたも例外じゃないよ」
「長、というのは?」
「人魚の長老。人魚ってのは、総じて長寿命だからね。長はもう何歳になるんだか。とにかく、あんたは今から長にお目通りしなくちゃならない。長い間あたし達はずっと海へ還るのを計画してたんだ。だからこそ、裏切られても困るし、かといって役立たずでも困る。長の審美眼をもってして、晴れてあたし達の仲間入りさ」
役立たず、と言う言葉に、セリアはうっと詰まった。しがないゴンドラ漕ぎの自分に、果たして何ができるというのか。下働きでもいいと宣言したばかりだが、それすらも果たせなかったらどうしようと、もう今から後ろ向きなことばかり考えていた。
セリアの不安を感じ取ったのか、エンリカは再び顔つきを鋭くする。
「長に会いに行くのにも、覚悟が必要だよ。仲間の価値なしと思われたら、その場で長に殺されかねない。あんたから情報が漏洩しても困るからね。それでもいいのかい?」
「――はい!」
一瞬の間を置いて、セリアは強く頷く。
「本当……潔すぎる返事だよ」
呆れたようなエンリカの声に、セリアは弾けるような笑みを返した。